第六章 共に生きる
第40話 生きながらえても
瞼の向こうから眩しいほどの光を感じる。ゆっくりと目を開けて窓の外から差し込む光を見ると、自分がまだ生きていることを実感した。
(吸い尽くさなかったんだ……)
再び陽の目を拝めたことに安堵しつつも、現実に引き戻されたことを憂鬱に感じていた。
千晃が横たわっているのは、ウィリアムのベッドだ。視線を落とすと、着物ははだけており、襟元にはポツポツと鮮血が滲んでいた。
隣にウィリアムの姿はない。身体を起こして様子を伺おうとしたものの、激しい眩暈に襲われた。
(ぐらぐらして、気持ち悪い……)
昨日、血を吸われ過ぎたせいだろうか? 貧血のような症状に見舞われて、起き上がれなかった。
幸い、今日は休日だ。もうしばらく休ませてもらうおう。
ごろんと寝返りをうってうつ伏せになると、心地よい匂いに包まれる。石鹸や香油とは違う、ウィリアム自身の匂いだ。温かみがあり、それでいて官能的な香りに包まれると、胸の奥がくすぐられた。
もっと浸りたくて、シーツを手繰り寄せる。薄いシーツを抱きしめながら、ウィリアムと触れ合った日のことを思い出していた。
昨夜は殺されかけたというのに、恐怖なんて微塵も感じない。どうしようもなく愛おしくて、苦しかった。
ふと、昨日作ったお守りがないことに気付く。吸血されている時は、左手に握りしめていたはずなのに。ベッドの上を探しても、見当たらなかった。
不審に思いながらも、捜索は早々に諦める。見つけたところで、もう渡すことはできないのだから。小さく溜息をついてから、千晃は目を閉じた。
◇◆
再び目を覚ますと、陽が傾き始めていた。具合が悪かったからとはいえ、随分長く寝てしまったようだ。
身体を起こすと、サイドテーブルに塩結びが置かれていることに気付く。秋穂かトヨが気を遣って用意してくれたのかもしれない。
昨日から食事を摂っていないせいで腹は減っている。千晃は有り難くいただいた。
塩結びは、程よい塩加減で美味しい。以前食べたものと同じだ。恐らく秋穂が作ってくれたのだろう。
秋穂は気遣いができて、料理上手で、花嫁としては申し分ない女性だ。最初から敵う相手ではなかったのだ。ウィリアムが彼女を選ぶのは自然な流れだ。
秋穂からすれば、千晃は扱いに困る存在だったのかもしれない。書生の身でありながらも、婚約者と深い仲になっていたのだから。
それでも親切にしてくれたのは、彼女の優しさだろう。自分はみんなの優しさで、この屋敷に身を置かせてもらっていたらしい。この先も屋敷に留まり続けて良いのかは、今はまだ分からない。
塩結びを食べ終えてから、皿を台所へ返しに行く。すると、重箱にせっせと塩結びを詰めている秋穂とトヨの姿があった。二人は千晃の姿を見ると、安堵したように表情を緩ませる。
「アキさん、ずっと眠っていらしたから心配したのですよ」
「お加減はいかがですか? まだ顔色がよろしくないようが、お医者様をお呼びしますか?」
二人から心配されると、申し訳なさでいっぱいになる。二人には血を吸われたことは言えない。事情が分からないからこそ、余計に心配をかけているだろう。
「ご心配おかけしてしまい、申しわけございません。もう大丈夫ですので」
大丈夫と告げたものの、二人は心配そうに顔を見合わせていた。
「それより、お弁当を詰めてどうされたんですか? どこかへお出かけですか?」
「ああ、こちらですか? 実は、旦那様がしばらくの間、会社の宿舎で寝泊まりをされるそうなので、私共でお夜食をご用意いたしました」
トヨの言葉に驚きを隠せない。千晃はできる限り冷静を装いながら尋ねた。
「ウィルは、屋敷に帰って来ないんですか?」
「ええ、そのようですね」
気が遠くなってくる。ウィリアムが屋敷に戻らなくなったのは、昨夜の一件が原因かもしれない。放心していると、秋穂が遠慮がちに尋ねてきた。
「私達は、これからエイデン様のもとに向かいますが、アキさんもご一緒しますか?」
一緒に行けば、ウィリアムに会えるかもしれない。だけど千晃は首を左右に振った。きっとウィリアムは、千晃に会いたくなくて屋敷から離れたのだろうから。
「僕は結構です」
「そうですか……」
トヨと秋穂は、困惑したように顔を見合わせていた。
◇◆
準備を終えた二人は、滝沢の運転する車に乗ってウィリアムの会社へと向かった。しんと静まり返った屋敷で、千晃は抜け殻になっていた。
何もする気が起きない。千晃はダイニングチェアに腰掛けながら、ひたすら時間が過ぎるのを待っていた。
辺りがすっかり暗くなった頃、滝沢の車に乗って秋穂が帰ってきた。トヨはそのまま自宅へと送り届けられたようだ。
ダイニングで秋穂と顔を合わせると、気まずい空気が流れる。秋穂は、申し訳なさそうに視線を落としていた。
これ以上、秋穂に気を遣わせる訳にはいかない。千晃は心を殺して笑って見せた。
「昨日、お二人の結婚式の話を聞きました。ようやくご結婚されるんですね。おめでとうございます」
できる限り悲壮感が滲まないように、祝福の言葉を伝える。しかし秋穂は、真っ青な顔をして首を振るばかり。
「違うんです、アキさん。これは……」
言葉に詰まらせる。申し訳なさそうに視線を落とす秋穂に、千晃は努めて明るく伝えた。
「秋穂さんには、ずっと気を遣わせてしまいましたよね。申し訳ございません。だけどもう、大丈夫なので」
これ以上、この場にいたらボロを出してしまいそうだ。千晃は会釈をしてから階段を駆け上った。
「アキさん!」
秋穂からの呼びかけに振り返ることはできなかった。階段を駆け上り、部屋に飛び込んだ。
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