第36話 拒絶と後悔

 夕食終わりに千晃はウィリアムの部屋を訪ねた。翻訳を終えた原稿を確認してもらうためだ。部屋の扉を叩くと、すぐにウィリアムが顔を出す。


「どうした? アキ」


「預かっていた分の翻訳が終わったから、見てもらおうと思って」


「そうか。入りなさい」


 千晃を部屋に招き入れると、部屋の鍵をかけた。何故鍵をかける必要があるのか分からないが、ひとまずは原稿の束をウィリアムに差し出す。


「はい」


「ありがとう、さっそく読ませてもらうよ」


 ウィリアムは書斎机につくと原稿に目を通す。読み終わるまで、千晃は扉の前で控えていた。


 原稿用紙をめくる音と掛時計の秒針の音だけが部屋に響く。あまりに静かだから、心臓の音までも聞こえてしまいそうだ。一通り読み終えると、ウィリアムは原稿用紙の束を机に放り投げる。


「弱いな」


「弱い?」


 千晃は書斎机に近付き、散らばった原稿用紙を手に取る。その場で翻訳した文を読み返した。今回もいつも通り訳したつもりだが、ウィリアムは眉間にしわを寄せるばかりだ。


「具体的にどのあたりが駄目?」


「戦地からエイダンが帰還して、アリシアと再会した場面だ。アキは、アリシアの台詞を『ご無事で何よりです』と訳しているな」


「そうだけど、おかしい?」


「そんなものじゃないだろう」


 やや強い口調で指摘され、びくっと肩が跳ねる。千晃は該当する箇所を見返してみた。


 再会の台詞は、千晃なりに改編していた。直訳すると『貴方に会えずにとても寂しかった』だったが、大人の女性が口にするにはどうにも稚拙に思えてならなかったからだ。だから先ほどの言葉に置き換えていた。


 ウィリアムは深く溜息をついてから、改めて千晃と向き合う。


「アキは私と離れている時、どんな気持ちだった?」


「どうして僕の話が出てくるんだよ?」


「はぐらかさないで言ってみなさい」


 紅玉の瞳で真っすぐ見つめられて、言葉に詰まらせる。千晃は改めてウィリアムと離れていた時の心境を思い返した。


 ウィリアムと離れたばかりの数日間は、屋敷の中がやけに広く感じた。その違和感は次第に心細さへと変わっていき、最終的には早く帰って来てほしいとばかり考えていた。秋穂の一件も加わったことで、余計に不安を煽られた。


 とはいえ、そんな赤裸々な事情を明かすわけにはいかない。女々しいと思われるのがオチだ。追求から逃れようと思ったものの、ふと昼間の秋穂の言葉を脳裏に過った。


 言葉にしなければ、気持ちは伝わらない。


 確かにその通りだ。ここではぐらかしたら、余計に不信感を与えてしまうように思えた。


 正直に伝えるのは、恥ずかしくて仕方がない。だけど、きちんと伝えなければ。ウィリアムの顔は見られないけど、言葉でははっきりと伝えた。


「寂しくて、ウィルのことばかり考えていた」


 顔が熱くて仕方がない。目が合わせられずにいると、ウィリアムが椅子から立ち上がる音が聞こえた。身構えていると、ふわりと抱きしめられる。


「ウィル?」


 突然のことに驚き、顔を上げる。ウィリアムは頬を上気させながら切なげに眉を顰めていた。


「最初から、そう訳せば良かったんだ」


 背中に回されている腕の力が強まる。こんな風に正面から抱きしめられたのは久しぶりだ。ウィリアムの温もりや匂いを感じると、心臓が暴れまわって仕方がない。


 恥ずかしくなって視線を落そうとしたところ、顎に手を添えられた。顔を持ち上げられると、唇が重なり合う。


「んっ……」


 突然のキスに思わず声を漏らす。驚きは次第に幸福感へと変わっていった。


 こうしてキスをされるのも久しぶりだ。口には出せなかったけど、本当はずっとこうしたかった。触れ合っている感覚が心地よくて、頭がふわふわする。


 一度唇が離れると、ウィリアムは瞳の奥を潤ませながら甘く微笑む。


「ごめんね、もう焦らさないから」


 焦らすってなんだ? 聞き返そうと思ったものの、もう一度唇を押し当てられて言葉を阻まれる。柔らかい感覚に浸っていると、口内に熱いものがねじ込まれた。


 驚きのあまり、閉じていた瞳をギョッと開く。突如与えられた強烈な快楽に頭が真っ白になった。


 そうこうしているうちに腰の辺りに手が伸びてきた。さわさわと撫でるように触れられる。その途端、先日の行為を思い出してしまった。乱れた自分を思い出すと、恥ずかしさのあまり燃え上がりそうになる。


「……離して」


 胸を押して突き放す。ウィリアムは驚いたようにこちらを見下ろしていた。


 このままでは先日と同じ展開になってしまう。ウィリアムに触れられることは嫌ではないが、快楽の渦に飲み込まれてしまう感覚は怖かった。


 それに屋敷には秋穂だっている。大声を出したらまた悟られてしまうかもしれない。それは絶対に避けたかった。


「この前みたいなことは、もう嫌なんだ」


 混乱した状態でそう吐き捨てると、千晃は逃げるように部屋から飛び出した。


◇◆


 自室に駆け込んでから、へろへろと扉の前で座り込む。間一髪、危機から逃れられた。乱れた呼吸を整え、冷静さを取り戻そうとしていると、別の考えが脳裏に過る。


(あれ? 僕、ウィルに酷い事を言ってしまったような)


 先ほど吐き捨てた台詞は、ウィリアム自身を拒絶しているようにも捉えられる。千晃としてはウィリアム自身を拒絶しているわけではないが、先ほどの文脈からは、そうと勘違いさせてもおかしくなかった。


 また間違えてしまった。羞恥心はみるみると自責の念へ変わっていく。傷つけたくなんてないのに、つい心ない言葉をぶつけてしまった。


(謝らないと……)


 謝って弁解しなければ。だけどすぐには合わせる顔がなかった。


 明日になったらちゃんと謝ろう。上手く伝えられるかは分からないが、拒絶しているわけではないことだけは伝えたい。そうでなければウィリアムが可哀そうだ。


 やっと近付いた距離が、またしても離れてしまうような気がしてならなかった。

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