第35話 想いを言葉に

 千晃が大学から帰ると、秋穂がサンルームで熱心に本を読んでいた。表紙を見ると、瑛国の児童書だった。千晃は気になって声をかけてみる。


「異国の言葉を勉強しているんですか?」


「あ、アキさんお帰りなさい。そうなんです。今のうちにみっちり勉強しておこうと思いまして」


 秋穂は笑顔を浮かべながら意気込みを見せる。ひたむきに努力する姿は、やはり眩しかった。


 秋穂が異国の言葉を勉強しているのは、恐らくウィリアムのためだろう。婚約者の母国語を勉強して、相互理解を深めようという狙いがあるのかもしれない。


 ここ最近、ウィリアムは秋穂に付きっ切りで指導をしていた。勉強を通して夫婦の絆を深めようという狙いがあるなら大成功だろう。もの寂しさを感じていると、秋穂が思い出したかのように話題に出す。


「エイデン様はロマンス小説を書かれているそうですね。私、洋書には詳しくないので存じ上げませんでしたが、アキさんはエイデン様の本のファンなのでしょう?」


 不意に小説の話題が出されて驚いた。ウィリアムの本が好きなことは間違いないため、素直に頷く。


「はい、故郷にいた頃に読んで以来、ファンになりました」


「そうだったのですね! ファンになってしまう気持ちも分かります。私も最近、エイデン様の著書を拝読しているんですよ。原文とアキさんの翻訳文を照らし合わせながら」


「ええ!? 翻訳の方も!?」


 千晃が翻訳した原稿が秋穂の手に渡っていたのは意外だった。ウィリアム以外にも見られていると思うと、どうにも気恥ずかしくなる。


「原文は難しくてなかなか読み進められないのですが、アキさんの文章はすっと頭に入ってくるんです。この国では馴染みのない文化もさりげなく補足されているので、引っかかることなく読み進められました」


「そう言ってもらえると、嬉しいです」


 思いがけず賞賛されて照れ笑いする。ウィリアムからもよく訳せていると褒められていたが、どこか評価が甘くなっているように感じていた。だからこそ秋穂からも褒められたことで自信に繋がった。


 気をよくしたところで、千晃はここ最近考えていた進路について秋穂に打ち明けてみる。


「実は大学でも瑛文翻訳を専門で学ぼうかと考えているんです。そうすれば、ウィルの本をこの国でも広められると思うので」


 千晃の所属する瑛文学科では、三年次に専門的に学ぶ分野を決めていく。いくつかの分野の中でも、千晃は翻訳の道に進みたいと考えていた。もっとも千晃はまだ一年だから、専門課程を決めるのはまだ先の話だが。


「まあ、それは素敵な考えですね! 翻訳版が出版されれば、エイデン様の小説もより多くの人に読んでもらえますものね!」


「はい。そうなればいいなぁと思いまして」


 目を輝かせる秋穂に、千晃は照れくさそうに微笑み返した。ウィリアムの小説をこの国でも広めたいという思いだけは、揺らぐことはない。


 ウィリアムの小説があったから、孤独の中でも希望を見出せた。物語を通して愛を知り、いつか自分も誰かを愛したいと願うようになった。言葉の壁を越えられれば、過去の自分と同じような人の支えになるかもしれない。大学ではその夢を実現させるための力を付けたかった。


 千晃の夢を聞いた秋穂は、ふわりと表情を緩める。


「私、エイデン様の小説を読んで、分かったことがあるのです」


「分かったこと?」


 千晃が聞き返すと、秋穂は穏やかな口調で語った。


「エイデン様の国では、愛情表現がとても豊かなのでしょうね。このお話に登場する男性も、好意を寄せている女性に情熱的な言葉で愛を伝えていました。こんなことをお話するのは気恥ずかしいのですが、私、周作さんから『愛している』なんて一度も言われたことがなかったので……。これも文化の違いなのでしょうね」


「ああ、それは何となく分かります」


 愛情表現の違いは、千晃も感じていた。秋穂の言う通り、この国では好意を寄せている相手に『愛している』なんて面と向かって伝える人は少ない。わざわざ伝えなくても関係は成り立つからだ。だからこそ、過剰なまでに愛情表現をする異国の文化には戸惑いを感じていた。


 とはいえ、この国の男性が愛情に乏しいわけではない。それは、秋穂の言葉からも分かった。


「周作さんは、『愛している』とは口にしてくれませんが、態度や表情で愛情を示してくれます。顔を合わせる度に笑顔で声をかけてくれたり、困っている時にさりげなく手を貸してくれたり、泣いている時に傍で寄り添ってくれたり……。そういう一つひとつの行動から愛情を感じられるのです」


 とても周作らしいと思った。微笑ましい話を聞いて、頬を緩ませていると、不意に秋穂から瞳を覗き込まれた。


「私と周作さんは、言葉がなくても通じ合えます。ですが、エイデン様は違うと思うのです」


「違うとは?」


 聞き返すと、秋穂は椅子から立ち上がり、千晃の肩にそっと手を添えた。


「言葉にしなくても伝わると考えるのは傲慢です。アキさんの想いを、きちんと言葉にして伝えてあげてくださいね」


 言葉で伝える。それはつまり、ウィリアムに対して「愛している」と伝えるということだろうか? 想像しただけでも、顔から火が吹き出しそうになった。


 千晃がしどろもどろになっていると、秋穂は口元に手を添えて小さく笑う。若草色の着物の袂を揺らしながら、サンルームから出ていった。


「私、そろそろ夕食の支度をしますね」


 そう告げると、台所へ向かっていった。サンルームに残された千晃は、呆然と立ち尽くす。


(きちんと言葉で伝える、か……) 


 思い返してみれば、ウィリアムに対しては一度も「好き」と伝えたことがなかった。作家としてのウィリアム、つまりオリビア・アレンに対しては好きと伝えたことがあるが、ウィリアム自身には伝えていない。


 向こうはこちらの気持ちなどお見通しだろうから、あえて伝えるまでもないと思っていた。だけど言葉にしないことでウィリアムが不安にさせているのなら、話は別だ。恥ずかしくても、ちゃんと伝えなければいけないのかもしれない。

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