第31話 近くて遠い
夕食後、ウィリアムと秋穂はダイニングで話し合いをしていた。議題は二人の婚約についてだ。千晃は話し合いには加わらず、自主的に部屋で待機していた。
今頃秋穂は、ウィリアムに婚約を解消したいと申し出ているだろう。花嫁に結婚の意思がないと分かれば、ウィリアムだって婚約解消に同意するに違いない。
ウィリアムは、既に血の供給源を得ている。秋穂との結婚にこだわる必要はないはずだ。結婚が取りやめになる展開は容易に想像できるが、どうにも手放しには喜べなかった。
(婚約を破棄したいと言っても、九条家は納得するのか?)
二人の結婚には莫大が金が動く。九条家は、ウィリアムからの結納金を目当てにしているのだから、易々と婚約解消に承諾するとは思えなかった。
ただの書生があれこれ気を揉んでも仕方ないと思いつつも、どうにも気になってしまう。そわそわしながら千晃はベッドの上で何度も寝返りを打っていた。
時刻が二十二時を回った頃、話し合いを終えたウィリアムが部屋にやって来る。
「アキ、入ってもいいか?」
その声で千晃は肩を跳ね上がらせる。まさか部屋にやって来るとは思わなかった。
ウィリアムとは昨夜の一件から顔を会わせていない。千晃の方から避けていたからだ。夕食もウィリアムが帰ってくる前に済ませて、そそくさと自室に籠っていた。
(あんな恥ずかしい所を見せてしまったのに、今更どんな顔して会えばいいんだよ)
昨夜の出来事を思い起すと、恥ずかしくて仕方がない。千晃はベッドの上で悶えていた。
もういっそ寝たふりをしてやり過ごそう。照明を消して返事をせずにいると、ウィリアムはそっと部屋の扉を開けた。
「寝てしまったのか?」
布団を被ったまま、寝たふりを決め込む。心臓が暴れまわって仕方がない。耳だけで様子を探っていると、ウィリアムがベッドに座る音が聞こえた。
千晃は目を閉じて寝たふりを続行する。油断しているところに、ウィリアムの大きな手がやって来て、千晃の頭を優しく撫でた。
「昨日は無理をさせてしまってごめんね」
何度も何度も髪を撫でる。その手付きが心地よくて、胸の奥が狭まった。
(無理をさせたって自覚があるなら、もっと手加減しろよ)
そう文句を言ってやりたかったが、ぐっと堪えた。目を閉じていると、シーツが擦れる音が聞こえる。身構えていると、ちゅっとこめかみにキスをされた。
「だけど嬉しかった。ずっとアキに触れたいと思っていたから」
ぶるりと身震いする。昨日の余韻は、まだ身体に残っている。触れられた手の温度も鮮明に覚えていた。
「心配しなくてもいい。私の花嫁はアキだけだ」
その言葉で、胸の奥から熱いものが込み上げる。嬉しくて涙が溢れ出しそうになった。きゅっと口を閉じて泣くのを堪えていると、ウィリアムは小さく笑う。
「やっぱりアキは、嘘が下手だね」
目尻に溜まった涙をウィリアムの指先が拭う。そこで千晃は目を開いた。
「気付いていたの?」
「うん、最初からね」
下手な小芝居を打っていた自分が恥ずかしい。ごろんと寝返りを打って、ウィリアムに背を向けた。不貞腐れている千晃をお構いなしに、ウィリアムは優しい手付きで頭を撫でる。
「昨日のことを怒っているのか?」
「当然だろ。あんな辱めを受けたんだから」
思ってもいないことを口にする。別に本気で怒っているわけではない。千晃だってウィリアムに触れられたいと密かに願っていた。だからこそ触れられている間は、興奮が止まなかった。
だけど実際の感覚は、想像を遥かに上回るものだった。何度も何度も快楽の渦に堕とされて、自分が自分じゃなくなる感覚に陥った。思い出すだけで、どうしようもなく恥ずかしくなる。
「ごめんね。アキがあまりにも可愛かったから、やり過ぎてしまった」
反省しているのか、していないのかよく分からない謝罪をされる。可愛いという言葉に反応して、余計に顔が熱くなった。
「そもそもなんで僕なんだよ! 秋穂さんの方がずっと魅力的だろ? 秋穂さんと結婚すればいいのに」
恥ずかしさのあまり、思ってもいないことを口にしてしまう。チラッと振り返ってウィリアムの反応を伺うと、悲しそうに眉を下げていた。
「アキは随分酷いことを言うんだね」
傷つけてしまった。謝ろうとしたところ、ウィリアムは深々と溜息をついてベッドから立ち上がった。
「さっきも伝えたが、私の花嫁はアキだけだ。それだけは何があっても変わらない」
いつもより声のトーンが低い。返事ができずにいると、ウィリアムは振り返ることなく部屋から出ていった。
「おやすみ、アキ」
パタン、と扉が閉まるのを見届けてから、千晃は深く溜息をつく。
(秋穂さんと結婚すればいいなんて、言わなければ良かった)
ウィリアムを傷つけるつもりなんてなかったのに、酷いことを言ってしまった。すぐに弁解すれば良かったものの、それすらもできなかった。
どうして上手くいかないのだろう? 昨日の一件で、愛されていることは自覚できた。今だって秋穂ではなく、千晃を花嫁にしたいとはっきり宣言してくれた。
相思相愛なのだから不安になる必要などない。それなのに、どうにも踏み出せずにいた。
(そういえば、カスタードプリンのお礼も言えなかったな……)
昼間にウィリアムお手製のカスタードプリンを貰った。美味しかったと伝えたかったのに、それすらもできなかった。以前なら、もっと素直に伝えられただろうに。
屋敷を飛び出して以降、ウィリアムとの関わり方が分からなくなってしまった。一線を越えてしまったせいで、変に意識してしまったというのもあるが、理由はそれだけでない。
ウィリアムに近付くことに足踏みしている自分がいる。一度手にしたものを失う怖さを知ってしまったからだ。
ウィリアムと想いが通じ合っても、永遠に続くとは限らない。何かの拍子に、ウィリアムの心が離れていってしまうことだってある。
失う恐怖と隣り合わせだからこそ、手を伸ばすことに躊躇していた。
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