第30話 翌朝の出来事

 目を覚ますと、見慣れた天井が視界に飛び込んだ。紛れもなく千晃の部屋だ。


 随分長く眠っていたような気がする。窓の外からは日が差し込んでいた。ぼんやりとした頭で掛け時計を見ると、十一時を過ぎていることに気付く。そこで意識が覚醒した。


「大学!」


 もうとっくに講義が始まっている。寝坊してすっぽかしてしまったようだ。千晃は溜息をつきながら枕に顔を埋めた。


 意識が覚醒すると、昨夜の出来事も思い出してくる。羞恥心がじわじわと湧きあがり、顔が燃え上がりそうになった。


 結局あの後、ウィリアムに意識を失うまで生気を吸い尽くされた。最後の方はあまり記憶がない。


 視線を落とすと、清潔なシャツに身を包んでいることに気付く。昨日着ていたスタンドカラーシャツは、見るに堪えない姿になっていたから新しい服に着替えさせてくれたのだろう。寝ている間に後処理をしてもらったのかと想像すると、余計にいたたまれなくなった。


 枕に額を擦り付けて悶えていると、部屋の扉が叩かれる。千晃は慌ててベッドから起き上がった。


「はい!」


 この時間なら、ウィリアムはもう出勤しているだろう。やってくるとしたらトヨか秋穂だ。扉を開けて出迎えようとしたものの、シャツの下には下履きしか履いていないことに気付き、慌ててベッドに引き返した。


 しばらくすると、遠慮がちに扉が開かれる。扉の隙間から顔を出したのは秋穂だった。


「失礼します。今、よろしいでしょうか?」


 秋穂は戸惑いの色を浮かべながら尋ねる。千晃は、笑顔を取り繕いながら何度も頷いた。


「か、構いませんよ。どうぞ」


 入室の許可をすると、秋穂はお盆を持って部屋の中に入ってくる。お盆の上には、ガラスカップに入ったカスタードプリンが乗せられていた。


「こちら、エイデン様からアキさんに召し上がって頂くようにと」


「ええ? ウィルが買ってきたんですか?」


「いえ、エイデン様がお仕事に行かれる前にお作りになられました」


「手作り!?」


 まさかお手製カスタードプリンだとは思わなかった。料理はできるとは聞いていたが、まさか菓子まで作れるなんて。


「食べられそうですか?」


「はい」


 千晃が頷くと、秋穂は安堵したようにプリンと銀スプーンを差し出す。カップを受け取ると、さっそく頂いた。昨夜から何も食べていなかったせいで空腹だった。


「いただきます」


 スプーンでカスタードをすくって口に運ぶ。ぷるんとした柔らかい食感が舌に伝わると、優しい甘さが広がった。


「甘くて、美味しい」


 頬を緩ませながら素直に感想を口にすると、秋穂はほっと胸を撫でおろした。一度食べ始めると、手が止まらなくなる。ウィリアムが自分のために作ってくれたという事実も嬉しくて、気付けば完食していた。


「ご馳走様です」


「食欲があるようで安心しました」


 千晃から空のカップを受け取ると、秋穂は穏やかに微笑んだ。


 用事が済んで部屋から出ていくと思いきや、秋穂はなかなか出ていこうとしない。ベッドの脇に佇みながら、困ったように視線を泳がせていた。


「どうされました?」


 千晃が尋ねると、秋穂は遠慮がちに口を開く。


「えっと、私がこんなことを聞くのは失礼かと存じますが……」


「は、はい」


 戸惑いながら頷くと、秋穂は耳まで真っ赤にしながら千晃に尋ねた。


「アキさんとエイデン様は、その……こ、こっ、こ、こ、恋人同士なのでしょうか?」


「へ?」


 唐突な質問に素っ頓狂な声を上げてしまった。固まっていると、秋穂は視線をあちらこちらに巡らせながら、言葉を続けた。


「昨夜、エイデン様の寝室から聞こえてしまったものですから……。その、アキさんとエイデン様の、声が……」


 サアアと血の気が引いていく。昨日は夢中になるあまり声を抑えることができなかった。よく考えれば、屋敷には秋穂もいたのだ。千晃のあられもない声も、全て聞かれていたことになる。


 記憶にある限りでも、随分はしたない言葉を叫んでいた気がする。それを全て聞かれていただなんて、考えただけで死にたくなった。


「誤解です! 僕とウィルはそういう関係では……」


「ですが、あれは明らかに。……はっ、まさかエイデン様に無理やり迫られて!?」


 恥じらっていた表情が、みるみるうちに恐怖に染まっていく。桜色の唇は、小刻みに震えていた。


「無理やりだとしたら許せません。学生であるアキさんを欲の対象にするなんて。そんな人だとは思わなかった! 私、エイデン様に抗議いたします!」


「待ってください! そういうわけでもなくて!」


 ウィリアムを悪人に仕立て上げようとする秋穂を何とか宥める。確かに昨夜は、強引に迫られた。千晃の浅はかな嘘がウィリアムの感情を逆撫でし、ベッドに押し倒されたのだ。


 だけど無理やりだったのは最初だけだ。嘘が見抜かれた後は、安堵の色を滲ませながら優しく抱きしめられた。そこから先は、激しくお互いを求め合った。そんな一連の出来事を、ウィリアムだけが悪いと片付けるつもりはない。


「無理やりではないです。だから、その……ウィルを責めないでください……」


 千晃は視線を落としながら、ウィリアムの無実を主張する。こんなことを口にするのは恥ずかしくて仕方がない。これではまるで、自分もウィリアムとの行為を愉しんでいたと主張しているようなものだ。だけど千晃が弁解しなければ、ウィリアムの疑いが晴れないのも事実だった。


 千晃の言葉を聞いた秋穂は、怒りを引っ込めて再び頬を染める。


「そ、そうでしたのね……。無粋なことを聞いてしまって申し訳ございません」


 秋穂は戸惑っているものの、千晃を拒絶しているわけではなさそうだ。婚約者と書生が不貞を働いている知れば、怒りや軽蔑の感情を向けられても不思議ではない。蔑まれることもある程度覚悟していた。


 だけど秋穂がこちらに向けている感情には、攻撃性は感じられなかった。戸惑いはみるみるうちに自責の念へと変わっていく。


「ごめんなさい。私が屋敷に来たことで、お二人の仲を裂いてしまったのですよね……」


 秋穂は視線を落としながら謝罪する。そんな反応をされるとは思わなかったから驚いた。秋穂は俯きながら言葉を続ける。


「アキさんが屋敷を出て行った日の夜、エイデン様は心ここに在らずでした。よっぽど心配だったのでしょうね。夕食を終えてからは、所用があると屋敷を飛び出していきましたが、恐らくアキさんを探しに行ったのかと」


「そう、だったんですね」


 そこまで心配をかけていたとは思わなかった。ウィリアムの気持ちを想像すると、罪悪感が募っていく。


「好きな人と結ばれなくて苦しい気持ちは、私も分かっているつもりです。知らなかったとはいえ、アキさんにも同じ想いをさせていたなんて……。本当に申し訳ございません」


「そんな……秋穂さんが気に病むことでは……」


 秋穂は政略結婚でこの屋敷に来たに過ぎない。千晃とウィリアムの仲を引き裂こうだなんて、まったく考えていなかった。何も知らなかったのだから、罪悪感を与えてしまうのは忍びない。


 視線を落とす秋穂を見つめていると、秋穂は思いがけないことを口にした。


「私、エイデン様に相談してみます。今回の結婚を白紙に戻せないか」


「え……」


 そんな提案がされるとは思わなかった。呆気に取られていると、秋穂から意思の籠った瞳を向けられた。


「花嫁にも花婿にも、心の中には別の人がいる。そんな状態で結婚なんて馬鹿げています」


 控えめな印象だった秋穂が、ここまではっきりものを言う性格だったとは思わなかった。呆気に取られていると、秋穂に両手を握られる。


「これはもう、私だけの問題ではありません。私達の問題です。アキさん、一緒に頑張りましょう」


 凛とした声に、奮い立たされる。目の前の秋穂がとても頼もしく見えた。


 秋穂の提案は嬉しい。だけど、その手を素直に握り返すことはできなかった。

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