第四章 屋敷を飛び出して
第25話 灰色の空
偽物は本物には敵わない。ウィリアムと秋穂が微笑み合う姿を目の当たりにして、思い知らされた。本物が現れたら、偽物なんて用なしなのだろう。
あのまま屋敷に留まっていたら、ウィリアムが秋穂に愛情を注ぐ姿を見る羽目になる。そんなのは耐えられなかった。
ウィリアムからは、傍にはいられないと言われてしまったのだから、屋敷に留まっていることすら疎まれるように思えた。
これ以上、傷を負う前にさっさと離れた方が良い。千晃は部屋の荷物をまとめることすら忘れて、鞄一つで屋敷から飛び出した。
洋館の立ち並ぶ異人館街の坂を、無我夢中で駆け下りる。頭の中では先ほどの光景何度も蘇る。その度に頭を殴られたような感覚になった。
気付けば、赤レンガ倉庫のある港に辿り着いていた。以前、ウィリアムと訪れた場所だ。
前回は夕日に照らされて水面が茜色に染まっていたが、今日はどんよりとした灰色に染まっている。空は分厚い雲で覆われていた。
勢い余って屋敷を飛び出して来たけど、行く宛なんてない。無計画な自分を呪いながら、淀んだ瞳で海を見つめていた。
頼れる親戚なんて帝都にはいない。友人の森下を頼るという手もあるが、向こうも親戚の家に下宿している。一日くらいだったら何とかなるかもしれないが、ずっと世話になるわけにはいかなかった。
故郷の函方に帰るという選択肢もない。やっと地獄から抜け出して来たのに、再び戻るなんて御免だ。
もうとっくに大人になったと思っていたけど、帝都で一人放り出されると何もできない。自分は想像していたよりもずっと子供だったらしい。千晃は深く溜息をついた。
弱り目に祟り目とはよく言ったもので、分厚い雲からは雨が降ってきた。まだ小雨だからあまり濡れることはないが、これからもっと強まるかもしれない。千晃は赤レンガ倉庫に駆け寄って、雨宿りできる場所を探した。
倉庫の壁にもたれ掛かり、雨音を聞きながら空を見上げる。予想していた通り、雨は次第に強まっていった。
どんよりとした空を眺めていると、汽笛の音が聞こえる。蒸気船が港に到着したようだ。船の中からは、上等な身なりの乗客が降りて行く。通り過ぎる人の波を、千晃はぼんやりと眺めていた。
ほとんどの乗客は、千晃に見向きもしなかった。しかし白スーツを着た派手な身なりの男だけは、千晃の存在を見逃さなかった。年齢は四十代だろうか。男はにやりと笑うと、千晃のもとに近付いてきた。
「君、こんなところで何をしている?」
突然話しかけられたことに驚きつつも、やけっぱちでありのままの事実を伝える。
「行く宛がなくて、途方に暮れているんです」
千晃の返事を聞くと、男はやけに楽し気に笑った。
「可哀そうにねぇ。この雨の中、行く宛がないなんて」
同情しているような言葉だが、小馬鹿にしているようにも聞こえる。嫌悪感を抱きつつも、雨が降っているせいでその場から離れることができなかった。
すると、男が馴れ馴れしく千晃の腰に腕を回す。突然のことで肩を跳ね上がらせて驚くと、男は目元を半月状に歪ませながらねっとりした口調で誘った。
「行く宛がないなら、うちに来なさい」
「は?」
なぜそんなことを言われているのか分からない。見ず知らずの男を家に招くなんてどうかしている。警戒心を露わにしていると、男は千晃の耳元で囁いた。
「私と一緒に楽しいことをしよう。値段はそうだねぇ」
男は庶民には考えられないほどの金額を口にする。そこで男の目的に気付いてしまった。
「僕は男ですよ?」
「そんなの見れば分かるさ。男だから気楽に誘えるんだ」
男がにやりと笑うと、寒気が走った。行く宛がないとはいえ、この男に好き勝手されるのは御免だ。逃げ出そうとしたところで腕を掴まれた。
「おいおい、逃げることはないだろう? 悪いようにはしないさ」
「離してください!」
「金が足りないなら、さっき言った倍は払ってもいい。こんな上玉、なかなか捕まらないからな」
ここまで強引に迫られるとは思わなかった。腕を振り払おうとしても、千晃の細腕では敵いそうにない。頭が真っ白になっていると、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「おい、オッサン。買春は立派な犯罪だ。捕まりたくなかったら、さっさとそいつから手を離しな」
振り返ると、蔑んだ眼差しで男を見つめる周作がいた。
◇◆
「周作さん、ありがとうございました。助かりました」
「気を付けろよ。あんた、妙に色気があるからな」
「そんなことは……」
同じことを森下からも指摘されたが、いまだに実感が湧かない。気を付けろと言われても、予防法も対処法も分からなかった。
周作が声をかけてくれて助かった。あのままだったら強引にどこかに連れていかれた可能性もある。最悪の事態を想像すると、恐怖で身体が震えた。
周作は小さく息をつくと、肩にかけていた藍色の羽織を千晃にかける。
「寒いだろ。これ着とけ」
「悪いですよ」
「遠慮すんな。つーか、なんでこんな所にいるんだよ? 雨で着物も髪もびしょ濡れじゃねーか」
先ほどから横殴りの雨が降っているせいで、屋根のある場所にいても濡れてしまっていた。寒くはないが、濡れた着物や髪が肌に張り付いて気持ち悪い。
周作は懐から手ぬぐいを取り出すと、わしゃわしゃと千晃の髪を拭き始める。
「じっとしてろ。風邪でも引いたら大変だ。あんた弱そうだしな」
「あの、いいですって……」
「いいから」
慣れた手付きで髪を拭く姿は、弟の世話を焼く兄のようだ。自分にも兄がいたら、こんな風に世話を焼かれていたのかもしれない。そう考えると、少し笑えてきた。
「何笑ってんだよ?」
「あ、すいません。面倒見の良い兄のようだと思って」
「まあ、兄だからな」
「三男坊って言ってませんでしたっけ?」
「七人兄弟の三男坊だ」
「ああ、なるほど」
それなら納得だ。下に四人も弟妹がいるから慣れているのだろう。周作は千晃の頭を拭きながら質問の続きをする。
「で、何かあったのか?」
千晃は笑いを引っ込める。先ほど正直に明かしたせいで、危険な目に遭った。周作が同じようなことをするとは思えないが、どうにも警戒してしまう。俯いたまま黙り込んでいると、頭上から大きな溜息が聞こえた。
「だんまりか……。まあいい」
周作はそれ以上、追求することはなかった。頭を拭き終わると、周作は白い歯を見せて笑った。
「腹減ってるだろ? 俺んちに飯食いに来いよ」
まさかそんな誘いを受けるとは思わなかった。腹が減っているのは事実だか、そこまで甘えるわけにはいかない。
「悪いですよ。そこまでしていただく理由がありません」
「遠慮すんな。うちは大家族だから一人増えたところで大して変わんねえんだよ。騒がしいけど、それで良ければ」
まるで旧知の友を招くように誘ってくる。初対面の相手にここまで親切にしてもらえるとは思わなかった。先ほどの男のような下心があるとは思えないが、何か別の理由があるようにも思える。
「どうしてそんなに親切にしてくれるんですか?」
正直に疑問をぶつけると、周作は目を細めながら切なげに微笑んだ。
「放っておけないからだ」
その言葉からは、悪意なんて微塵も滲んでいなかった。
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