第24話 離れる決意

 洋館の立ち並ぶ異人館街をの坂を駆け上る。上り坂をひたすら駆け上がるのは容易ではなかったが、千晃の足は止まることはなかった。


 今日はウィリアムが帰ってくる日だ。たったの一週間と甘く見ていたけれど、実際にはとてもつもなく長く感じた。今なら寂しがっていたウィリアムの気持ちが分かる。


 早く会いたくて、講義が終わるとすぐさま大学を飛び出した。ウィリアムが既に帰宅しているかは分からないが、一刻も早く屋敷に戻りたかった。


 ウィリアムが帰って来たら「おかえり」と出迎えて、胸に飛び込みたい気分だ。ウィリアムからも抱きしめ返されたら、胸の中に渦巻いている不安も消えるような気がした。


 坂を登りきると、深緑色の屋根が見えてくる。ウィリアムの屋敷だ。一気に駆けてきたせいで、すっかり息切れしている。千晃は額に滲んだ汗を拭ってから、屋敷の門を通り過ぎた。


 薔薇園を見渡すと、ウィリアムの姿があった。久々に見るウィリアムは、やっぱり格好良くて胸がときめいた。三つ揃いスーツを着て薔薇園で佇む姿は、西洋の絵画のようだ。


 ウィル、と声をかけようとした瞬間、隣にもう一人いることに気付く。若草色の着物を着た秋穂が、ウィリアムの隣で微笑んでいた。千晃は咄嗟に門の影に隠れる。


 二人は庭の植物を眺めながら歩幅を合わせて歩いている。会話までは聞こえないが、ウィリアムが花の種類を秋穂に教えているようだった。


 美男美女が花に囲まれながら微笑む姿は、驚くほど絵になる。相思相愛の夫婦と説明されても、疑う余地がなかった。


 浮かれていた心が、みるみるうちに萎んでいく。二人を見ているだけで、胸が苦しくなった。


 門の陰から様子を伺っていると、秋穂が石畳で躓いてバランスを崩す。前方に倒れかけた秋穂を、ウィリアムが支えた。秋穂が申し訳なさそうに何度も頭を下げると、ウィリアムは首を振りながら紳士的に微笑んだ。


 頭が真っ白になる。今すぐ二人の間に入って、引き割いてやりたかった。


 だけどすぐに我に返る。自分の攻撃的な一面に気付いた時、どうしようもないほどの嫌悪感に襲われた。


 門の影で立ち尽くしていると、秋穂がこちらの存在に気付く。


「アキさん、お帰りなさい」


 秋穂は花が綻ぶような愛らしい笑顔を浮かべる。その隣で、ウィリアムが紳士的に微笑んだ。


「早かったね、アキ」


 遠くから、そう声をかけるだけだった。これまでのウィリアムなら、迷いなくこちらにやって来て、千晃を抱きしめていた。子供を宥めるように何度も頭を撫で、額や頬にキスをしていたに違いない。


 それなのに、ウィリアムは秋穂の隣に立ったままだ。心の距離が一気に遠ざかってしまった気がした。


「ただい、ま」


 動揺しながらも、何とか返事をする。上手く笑えている自信がなかった。


「エイデン様、そろそろ中に入りましょう」


「ああ、そうだね」


 二人は並んで屋敷の中に入る。千晃は二人の背中を眺めながら、重い足取りで屋敷に入った。


 応接間にやって来ると、秋穂はジャケットを脱ごうとするウィリアムの補助をする。脱いだジャケットを受け取ると、大切そうに抱き寄せた。


「お洋服はお部屋にかけておきますね」


「ありがとう。助かるよ」


 ウィリアムが秋穂を労う。二人は今日初めて会ったはずなのに、何年も連れ添った夫婦のようだった。


 秋穂が二階に上がると、ようやくウィリアムと二人きりになる。紳士的に微笑んでいた表情が緩み、深く息を吐いた。ウィリアムは眉を下げながら微笑む。


「ごめんね、アキ」


 突然謝られて面食らう。それは何に対しての謝罪なのだろう? 千晃が固まっていると、ウィリアムは目を細めて切なげな表情を浮かべた。


「今は、アキの傍にいることはできそうにない」


 千晃は目を見開く。こうまではっきりと拒絶されるとは思わなった。


 傍にいることはできないということは、もう自分は用なしだということなのだろうか? もう既に、ウィリアムの心は秋穂に奪われてしまったとでもいうのか?


 ウィリアムの心が離れてしまったのは辛い。だけどそれ以上に、ほんの数時間でウィリアムを魅了した秋穂に嫉妬していた。


 自分の中に潜む攻撃的な一面が、再び牙を剥く。このままでは、秋穂に噛みついてしまいそうだ。そんなことになれば、千晃だって義母である梨都子と同類になってしまう。それはどうしても避けたかった。千晃は笑顔を取り繕う。


「そっか、仕方ないよね……」


 秋穂が魅力的な女性であることは、千晃だって知っている。ウィリアムも彼女の魅力に気付いただけだ。


 おかしなことは何もない。誰だって平凡な男子学生より、秋穂のような可憐な女性に惹かれるはずだ。


 仕方のないことなのだ。比べられて選ばれるほど、魅力がなかっただけだ。そうやって自分を納得させた。


 このままウィリアムの傍に居たら、もっと醜い姿を見せてしまいそうだ。それならいっそ、物わかりのいい書生として彼の傍から離れた方が良い。千晃は精一杯の笑顔を浮かべながら、祝福の言葉を口にした。


「良かったじゃないか。素敵な花嫁さんを貰えて。お幸せに」


 多分、ちゃんと笑えているはずだ。ボロが出ないうちに立ち去ろう。


「今までお世話になりました」


 恭しく頭を下げてから、千晃は屋敷を飛び出した。


「アキ! どこに行くんだ!?」


 ウィリアムが叫んでいる。突然の言葉に困惑しているようだ。心が締め付けられたが、千晃は振り返ることなく全速力で坂を下った。


 この先も書生として屋敷で世話になれば、ウィリアムと秋穂が夫婦になっていく様を傍で見届ける羽目になる。大学を卒業するまでにはあと三年以上はあるから、二人の間に新しい命が宿ることもあるだろう。二人が三人になり、三人が四人になる。そうやって本物の夫婦になった二人を、見続けるなんて地獄でしかなかった。


 大好きな人が、他の誰かと愛を育む姿なんて見たくない。千晃は、屋敷を離れる決意をした。

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