第22話 焦燥感に駆られる中で
秋穂の作ったオムライスは、見栄えも味付けも完璧だった。玉子が破れてチキンライスが飛び出すこともないし、玉子がパサパサになることもない。傍でトヨが教えていたからだとは思うが、洋食屋で出せるほどの代物だった。
完璧なオムライスを口にして、千晃は内心焦りを感じていた。このままでは本当に、ウィリアムの胃袋を掴んでしまいそうだ。
動揺しながらも秋穂には悟られないように「美味しいです」と感想を口にする。千晃の言葉を聞くと、秋穂はホッと安堵の溜息を漏らした。それを見て、千晃も胸を撫でおろす。
自室に戻った千晃は、机に向かいながら考える。秋穂の完璧な姿を目の当たりにするたびに、自分の至らなさが浮き彫りになった。駄目な自分を比べてしまい、どんどん卑屈になっていく。
親切にされているのに、素直に喜べない。このままでは自分がどんどん嫌な人間になっていくような気がした。
嫉妬は人を狂わせる。嫉妬心に支配された成れの果てを千晃もよく知っていた。
義母の梨都子は、前妻に嫉妬したせいで千晃に攻撃的になった。自分も梨都子と同じ運命を辿ることを想像するとゾッとした。
秋穂は何も悪くない。この屋敷で居場所を作ろうと頑張っているだけだ。それでもウィリアムと秋穂が仲睦まじくしている姿を見せつけられたら、冷静でいられる自信はなかった。
(今ここに、ウィルがいたらなぁ……)
ウィリアムに抱きしめてもらえば、淀んだ気持ちも晴れるような気がした。愛されていることを自覚できれば、闇に引き摺り込まれることもない。しかし千晃が願ったところで、ウィリアムの帰宅が早まるわけではない。
(いつまでも考えていたって仕方ないか。気を紛らわせるためにも、ウィルが帰ってくるまでに預かっていた分の翻訳を終わらせよう)
千晃は引き出しから原稿を取り出して、翻訳作業に取り掛かった。今翻訳しているのは、主人公のアリシアが戦地に向かったエイダンの帰りを待つ場面だ。エイダンに会えずに苦しむ姿は、今の千晃と重なった。
(会えない日々が長引くほどに、彼の中から自分の存在が消えてしまう気がする……分かる! 分かるよ、その気持ち!)
アリシアの気持ちが理解できるからこそ、迷うことなく文字に起こせる。集中力を高めて、預かっていた分を全て翻訳した。
最後の一文まで訳した時には、脳が焼ききれそうになっていた。妙に目が冴えてしまって、すぐには眠れそうにない。
頭を冷やすために、外の空気を吸うことにした。秋穂は既に部屋で休んでいるようだ。千晃は音を立てないように玄関の扉を開けた。
夜風に乗って薔薇の香りが漂ってくる。庭先に植えられた薔薇は、既に見頃を終えて勢いを失っているが、存在を示すかのように馨しい香りを放っていた。
散歩をしようと門を出た時、近くに人影があることに気付く。まさかこんな時間に屋敷の周辺をうろついている人間がいるとは思わなかったから驚いた。咄嗟に身構えると、門の脇にいたのが昼間見かけた青年であることに気付いた。
「貴方……昼間もここにいましたよね?」
昼間逃げた男が、また戻ってくるとは思わなかった。千晃が声を開けると、男は驚いたように目を見開いた。
後退りして逃げ腰になっていたが、易々と逃がすわけにはいかない。悪意を持って屋敷に忍び込もうとしているのなら、追い払わなければ。そうでないと、ウィリアムにも危害が加わる可能性がある。
「ここで何をなさっているんですか?」
気を強く持って尋ねると、男はギリッと奥歯を噛んで顔を顰める。ジリジリと睨みつけていると、男はおずおずと口を開いた。
「ウィリアム・エイデンは、まだ帰っていないのか?」
やはり男の狙いはウィリアムだったようだ。警戒心が一気に高まる。
「はい」
千晃は正直に答える。いると嘘をついたら、余計に厄介なことになりそうだ。数日間屋敷を空けていることまでは告げるつもりはないが、不在であることだけは伝えた。
男の表情が僅かに緩む。安堵しているようにも見えた。男の出方を伺っていると、今度は思わぬ人物の名を口にする。
「秋穂は元気か?」
千晃は眉を顰める。まさか秋穂について尋ねられるとは思わなかった。
「なぜ秋穂さんのことを? 貴方は何者なんですか?」
正体を知らぬまま話を続けていても埒が明かない。千晃は思い切って尋ねてみた。
男は言葉に詰まらせたものの、千晃の眼力に屈したのか名乗りを上げた。
「俺は北里周作。北里酒蔵の三男だ」
北里酒蔵の名は知っている。帝都でも有名な酒蔵だ。だけどそれ以上に、周作という名前に引っかかった。どこかで聞いたことがある名前だ。記憶を辿っていくと、憂いを帯びた秋穂の顔を思い出す。
「秋穂さんの駆け落ち相手……」
千晃が言い当てると、周作はぎょっと目を丸くする。
「あんた、知ってるのか?」
「幼馴染と駆け落ちしたという話は聞いています」
相手の素性が分かると、目的も見えてくる。秋穂の身を案じて様子を伺いに来たのか、はたまたウィリアムの留守中を狙って秋穂を連れ出そうとしているのか。警戒しながら反応を伺っていると、周作はフッと吹き出すように笑い始めた。
「事情を知っているなら話は早い。ちょいと面を貸してくれないか?」
周作は坂の下を指さしてから歩き出す。ついてこいと言っているのだろう。
千晃としても、周作がどこまでのことを望んでいるのかは把握しておきたかった。秋穂を奪うだけでなく、ウィリアムにまで危害を加えようとしているのなら、食い止めなければ。緊張した面持ちで、千晃は周作の後を追った。
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