第19話 優しさに触れて
秋穂から詳しい話を聞くために、屋敷に案内した。しんと静まり返る応接間で、千晃と秋穂は向かい合わせで座る。トヨは台所で茶を入れていた。
会話をした方が場の空気が和むと思いつつも、どんな話題を振ればいいのか分からない。本題に入るのはトヨが来てからの方が良いだろう。かといって雑談するほど呑気な空気ではない。二人はテーブルの木目を眺めながら、トヨが戻ってくるのを待った。
「お待たせしました」
トヨはお客様用の湯飲みを持って、応接間に入ってくる。秋穂は小さく会釈をしながら湯飲みを受けっとった。トヨが千晃の隣に座ると、ようやく話が動き出す。
「今日から屋敷で暮らすというのは本当なんですか? 旦那様には秋穂さんが居らっしゃることは伝わっているのですか?」
最初に口を開いたのはトヨだった。秋穂はかぶりを振って否定する。
「いえ、伝わっていません。今朝、エイデン様の屋敷に行くように父から指示されたので……」
「まあ、それは随分急な話ですね……」
今朝指示されたというのは驚きだ。通常であれば、双方が合意した日取りで越してくるものだろう。話し合いをすっ飛ばしていきなり押しかけるなんて、非常識にもほどがある。
とはいえ、秋穂自身は非常識な性格には見えなかった。屋敷に来てからは、ずっと申し訳なさそうに目を伏せていたからだ。
もしかしたら本人の望まぬまま、この場に送り込まれたのかもしれない。ウィリアムと秋穂が政略結婚であることは間違いないから、痺れを切らした親族が強硬手段に出た可能性もある。
このような状況になった原因は、秋穂の立場が弱いことも少なからず影響しているような気がした。千晃は恐る恐る会話に交じる。
「ご実家には、もう戻れないのですか?」
秋穂は小さく頷く。やはり思った通りだ。彼女は半ば追い出されるような状態で、嫁いできたのだろう。彼女の境遇を想像すると、胸が痛んだ。
同情する千晃の傍らで、トヨは戸惑いの色を浮かべる。
「ご事情があるようですが、急にこちらに越してくるというのは……。旦那様も留守にしている状況ですし……」
トヨが渋るのも無理はない。ウィリアムのいない状態で、勝手に秋穂を屋敷に住まわせるわけにはいかないのだろう。だけど、このまま秋穂を追い出したら途方に暮れてしまうような気がした。
こんな時、ウィリアムならどうするか? いきなりやって来るなんて非常識だと、追い返すだろうか?
いや、そんなことはしない。ウィリアムなら、話がまとまるまでは責任を持って秋穂を保護するだろう。彼はそういう男だ。ウィリアムが優しいことは、これまでの暮らしで十分過ぎるほど思い知った。
ウィリアムが優しさを向けるのは、千晃だけではない。屋敷に仕えるトヨに対しても、仕事仲間の滝沢に対しても、見ず知らずの他人に対しても、丁寧に応対をしていた。
誰に対しても優しい紳士なんだ。だからこそ、秋穂を見捨てるような真似をするはずがない。
「あの……」
千晃が意を決して口を開いた瞬間、ぎゅるるる~と腹の虫が鳴いた。千晃は咄嗟に腹を押さえる。
そう言えば、今朝は起きてから何も食べていなかった。腹を空かせていたが、腹の虫を鳴かせてしまうとは思わなかった。
大事な話し合いに水を差してしまい、真っ赤になりながら俯く。最初は驚いていた秋穂とトヨだったが、鳴ったのが腹の音だと分かると緊張の糸が切れたかのように笑い出した。
「アキさん、お腹が空いていたのですね」
「申し訳ございません。私が朝早く来てしまったので、朝食を摂り損ねてしまったのですよね」
「ああ、えっと、はい……。すいません……」
二人の顔を見ることができずに俯いていると、トヨがソファーから立ち上がった。
「待っていてください。今、朝食の支度をしますね」
「ああ、いえ。自分でやるので」
千晃がそう申し出た直後、秋穂が遠慮がちに手を挙げた。
「あの、もしよろしければ、私がお作りいたしましょうか?」
千晃とトヨは顔を見合わせる。まさか屋敷に来て早々に、家事を買って出るとは思わなかった。
驚きはしたものの、秋穂の行動原理は理解できる。突然屋敷を訪ねてしまったことへの罪滅ぼしとして、できることをこなしたいのだろう。千晃が屋敷に来たばかりの頃、雑用を任せてくれとせがんだのと同じだ。
沈黙が走ったことで、秋穂は慌てたように頭を下げる。
「申し訳ございませんっ! 図々しいことを言って! よく知りもしない女の作る食事なんて、口にしたくないですよね」
自らを卑下する秋穂を見て、千晃は咄嗟に首を振る。
「いえ、そんなことはありませんよ」
俯いていた秋穂が顔を上げる。千晃はウィリアムの笑顔を真似するように、穏やかに微笑んだ。
「秋穂さんの作る食事を、食べてみたいです」
驚くように瞬きをしていた秋穂だったが、言葉の意味を理解すると柔らかく微笑んだ。
「はい! 少々お待ちください!」
それは菫の花が綻ぶような愛らしい笑顔だった。
◇◆
トヨと秋穂は、台所に移動して朝食を作る。その間に千晃は、二階の空き部屋の掃除をしていた。
窓を開けて、部屋の空気を入れ替える。普段使っていなかったから少し埃臭くなっていたが、掃除をすればすぐに使えるようになる。後は寝具を用意すれば、ここで住まうこともできるだろう。
一通り掃除を終えたところで、トヨからお呼びがかかる。
「アキさーん、ご飯ができましたよー」
「はーい、ただいま」
千晃は急いで一階のダイニングへ向かった。
テーブルには、塩結びと味噌汁が用意されている。ウィリアムがいる時は洋食が多かったから、こういった和食は久々だ。
「美味しそうですね」
「どちらも秋穂さんが作ったんですよ。とても手際が良いので驚きました」
トヨが絶賛すると、秋穂は「そんな、そんな」と恥ずかしそうに首を振って謙遜した。
秋穂は九条財閥の令嬢だと聞いている。屋敷には使用人だって大勢いたに違いない。それにも関わらず、料理が得意というのは意外だった。もしかしたら嫁入り前に家事全般を仕込まれたのかもしれない。
「いただいてもよろしいでしょうか?」
「はい。もちろん」
秋穂から許可を貰い、味噌汁に手を伸ばす。小松菜と油揚げの入った味噌汁を一口啜ると、ホッとするような温かさが伝わってきた。優しい風味が口いっぱいに広がって、思わず笑みが零れる。
「美味しい」
正直に感想を伝えると、秋穂は安堵したように微笑んだ。
「お口に合って良かったです」
塩結びもいただく。こちらも絶妙な塩加減だった。黙々と食べる千晃を見て、トヨと秋穂は「いい食べっぷりですね」「育ち盛りですからね」とほのぼのと会話をしていた。あっという間に平らげて、千晃は両手を合わせる。
「ご馳走さまでした」
「はい。お粗末様でした」
空になった皿を見て、秋穂は嬉しそうに微笑んだ。屋敷に来たばかりの不安そうな表情が嘘のようだった。
食事を終えてから、改めて秋穂と話し合う。千晃の中では、既に結論は出ていた。
「秋穂さん、帰る場所がないならここに居てください」
「え……」
秋穂は目を丸くする。判断を仰ぐように、トヨにも視線を向けた。トヨは遠慮がちに千晃に告げる。
「アキさん、旦那様の留守に勝手に決めてしまうのは……」
「ウィルには僕が説明します」
トヨの言葉を遮って、はっきり伝える。いつになく強気な態度の千晃を見て、トヨは驚いていた。
ウィリアムだったら、困っている人を放っておかない。ずっと屋敷に居て良いとは言わないまでも、婚約話に決着がつくまでは屋敷に置いてくれるだろう。事情を話せば分かってもらえるような気がした。
しばらく考え込んでいたトヨだったが、真剣に訴える千晃に根負けした。
「では、もし旦那様が機嫌を損ねたら一緒に怒られましょうか」
「ですね」
千晃とトヨは、顔を見合わせながら笑う。そんな二人を見て、秋穂は瞳の奥を潤ませた。
「ありがとうございます……!」
こうしてウィリアムの屋敷に、秋穂が住まうことになった。ウィリアムが帰ってくるまでの四日間は、きちんと彼女を保護しようと決意した。
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