第18話 花嫁襲来

 ウィリアムが屋敷を離れる前夜は、意識を失いそうになるまで血を吸われた。どうにか意識を保っていられたのは、ウィリアムの匙加減なのか、はたまた千晃の気力の問題なのかは分からない。視界が霞んできたところで、ウィリアムは千晃の首元から離れた。


 そこから先はキスの嵐だった。最初はいつも通り、唇に軽く触れるだけのキスをされる。いつもはそこで終わりだが、この日は違った。ウィリアムの唇は徐々に下に降りていき、首筋や鎖骨にまで及んだ。着物の合わせに手をかけられたところで、慌てて止めに入った。


 焦らされるように与えられた刺激で、千晃の身体はすっかり反応してしまった。それはウィリアムも同様だ。太腿にぐいぐいと押し当てられている熱いものが何よりもの証拠だ。


 このままではキスだけでは済まなくなる。自分のものより遥かに大きいそれを受け入れる準備は、まだできていなかった。


 泣きそうになりながらふるふると首を振りながら拒むと、ウィリアムは切なげに眉を下げながら、こめかみにキスをした。


 その後はウィリアムに腕枕をされながら眠りについた。素肌が触れ合う感覚が心地よくて、あっという間に眠りの世界に落ちて行った。


 夜だけでなく、朝になってもウィリアムは解放してくれなかった。


「はあ……行きたくない。ずっとアキと触れ合っていたい」


 後ろから千晃を抱きしめながら、泣き言を口にする。子供が駄々をこねるような反応をされて、千晃は溜息をついた。


「たったの一週間じゃないか」


「一週間もだ。私にとっては気が遠くなるほど長い」


 大袈裟な物言いに呆れてしまう。千晃は抱きしめられている腕を解き、ベッドから起き上がった。


「ちゃんと待ってるから。シャキとして行って来いよ」


 千晃が鼓舞すると、ウィリアムは切なげな表情をしながら渋々頷いた。


 その後、身支度を済ませたウィリアムを玄関で見送る。


「行ってくるよ」


「うん、行ってらっしゃい」


 大きなトランクケースを携えるウィリアムを見ていると、千晃まで寂しくなってきた。きゅっと口を閉じて胸の疼きに堪えていると、ウィリアムはトランクケースから手を離し、目の前までやって来た。


 千晃の前髪をかき上げると、ちゅっと音を立てて額にキスを落とす。唇を離すと、甘く蕩けた表情で忠告した。


「浮気したら駄目だよ」


 突然キスをされて、千晃の顔はみるみる赤くなる。恥ずかしさのあまり、ぶっきらぼうに叫んだ。


「さっさと行って来い!」


 ウィリアムを送り出してから、千晃も大学へ向かった。いつも通り、友人の森下と授業を受け、何事もなく一日を終えた。


◇◆


 ウィリアムが屋敷から離れて三日が経過した頃、事件が起きた。それは日曜日の朝の出来事だった。


 いつもより遅く起床した千晃が欠伸をしながら階段を下りていると、不意に玄関のベルが鳴る。


「はい、ただいま」


 千晃は急いで階段を下りる。トヨだったらベルを鳴らすことなく入って来るから、客人であることが分かる。身構えながら、玄関の扉を開けた。


 来訪者を見て、千晃は目を見開いた。目の前に佇んでいるのは、若草色の訪問着に身を包んだ美しい女性だった。濡羽色の長い髪に、色素の薄い瞳。肌の色は雪のように白く、儚げな雰囲気があった。歳は二十歳前後に見える。


 目の前の女性は、不安そうに視線を揺るがせながら頭を下げる。


「突然押しかけてしまって申し訳ございません。九条秋穂と申します」


 九条秋穂。その名前は千晃も知っている。ウィリアムの婚約者だ。


 なぜ突然屋敷にやって来たのか? 当然のことながら、婚約者が訪ねてくるなんて話は聞いていない。混乱の渦に飲み込まれながらも、千晃も挨拶を返した。


「僕は書生としてこちらでお世話になっている小宮千晃です。旦那様はしばらくの間屋敷を離れていて……」


「屋敷を離れて?」


「仕事の都合で留守にしております。四日後には戻る予定です」


「そうだったのですね。私ったら、何も知らずに……」


 秋穂は申し訳なさそうに目を伏せた。俯くと長いまつ毛が際立って美しさが増す。彼女の美貌は、千晃にとって脅威に感じた。


 言葉に詰まらせていると、秋穂の後ろから足音が聞こえた。「あらあら」と声を上げながらやって来たのはトヨだった。千晃は心の底から安堵する。


「お客様でしょうか?」


 トヨは目尻に皺を寄せながら、穏やかに微笑む。秋穂はトヨに対しても、丁寧に挨拶をした。


「お初にお目にかかります。九条秋穂と申します」


「まあ! 秋穂さん!?」


 トヨは、口元に手を添えながら驚きの声を上げる。どうやらトヨにも、秋穂の訪問は知らされていなかったようだ。


「ええっと、今日はどうされました? 旦那様は、ただいま留守にしておりまして」


「ええ、先ほど書生さんから伺いました」


 秋穂はチラッと千晃に視線を向ける。トヨからも視線を向けられたため、同意するように頷いて見せた。


 ウィリアムが不在と知れば、日を改めて訪問するかもしれない。千晃とトヨが反応を伺っていると、秋穂は胸に手を添えながら小さく息を吸った。その直後、信じられない言葉を口にした。


「突然のことでご迷惑なのは重々承知ですが、本日からこちらのお屋敷でご厄介になります」


 思考が停止する。彼女の言葉を理解するのに、数秒の時間を要した。


 トヨに視線を向けると、千晃と同じように固まっていた。理解が追い付かないのは同じようだ。


 こんな反応になるのも無理はない。ウィリアムからは、何一つ聞かされていなかったのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る