第17話 大事な話

 ウィリアムは肩を震わせて笑っている。手元には、千晃が翻訳した原稿があった。そんな反応をされている理由は、千晃自身が一番よく分かっている。


 原稿を読み終えてから、ウィリアムは笑いを鎮めるように一度咳払いした。


「前半の描写はとても良かった。離れがたいと思っている二人の心情が伝わってきて、感情を揺さぶられた。だけど後半はどうした? まるでタキの書く報告書じゃないか」


 後半というのは言わずもがな。結局、官能描写をまともに翻訳することなんてできなかった。悩んだ挙句、端的に訳すだけになってしまったから、報告書と称されるのも頷ける。


「し、仕方ないだろ! 経験がないんだから!」


 せめてもの言い訳をすると、ウィリアムは声を押し殺して笑った。


「そういえば、キスも初めてだって言っていたね」


 経験のなさを馬鹿にされているようで、余計に恥ずかしくなった。赤くなった顔を隠すように俯いていると、ウィリアムが椅子から立ち上がり、千晃の耳元に顔を寄せた。


「それなら、経験すればもっと上手くなるということか?」


 耳元に吐息がかかり、ぶるりと身震いする。またしてもおかしな妄想をしてしまいそうになり、慌ててウィリアムと距離を取った。


「そういうことを言っているんじゃない!」


 ムキになって否定すると、再び笑われた。ウィリアムは千晃を揶揄って楽しんでいるようだ。これ以上、玩具にされないためにもさっさと部屋に戻ろう。


「寝る。おやすみ」


「ちょっと待ってくれ。大事な話があるんだ」


 扉に手をかけたところ、ウィリアムに呼び止められた。大事な話と聞いて、先日の九条家との一件を思い出す。


 九条家との婚約については気になっていたものの、表立って尋ねることはできなかった。自分が口を出してはいけない問題だと思ったからだ。先方と仕事上の関わりがあるなら尚更。千晃が立ち入ってはいけない世界だ。


 この数日間、ウィリアムも九条家の話は一切してこなかった。だけど、大事な話と改まって切り出されると身構えてしまう。


(まさか、結婚するとか言い出さないよな?)


 もしそんな話をされたら、どんな反応をすればいいのか分からない。ウィリアムが結婚することを想像すると、ギリッと胸が痛んだ。


 ウィリアムは先ほどまでの笑顔を引っ込めて、深刻そうな表情を浮かべる。あまり良い話ではなさそうだ。緊張感に包まれながら待っていると、意外な言葉が飛び出した。


「実は、仕事で一週間ほど屋敷を離れることになったんだ」


「…………は?」


 想像とは異なる話をされて、間抜けな声が飛び出す。一週間ほど屋敷を離れる。そんなのは、千晃からすれば大した問題ではなかった。


「なんだ、そんなことか……」


 肩の力が抜けてしまった。そんな千晃とは対照的に、ウィリアムは深刻そうに訴える。


「そんなことではない。一大事だ。一週間もアキに会えないんだぞ。考えられない」


 額を押さえながら悩まし気に頭を揺らす。そこまで嘆くようなことではないだろう。たったの一週間だ。戦地に行くわけでもない。一週間経てば、ちゃんと戻ってくる。


「ああ、いっそのこと、アキも連れて行きたいくらいだ」


「無理に決まってるだろ! 僕だって大学があるんだ」


「分かっている。アキの勉強の邪魔はしたくない」


 ひとまずは無理やり同行させられるわけではなくて安心した。


 ウィリアムは依然として浮かない表情をしている。千晃と離れるのがよっぽど辛いのだろう。気落ちした姿を見ていると、哀れに思えてくる。


 いつもウィリアムには親切にしてもらっているのだから、こういう時くらいは何かしてあげたい。ウィリアムが安心して仕事に臨めるように、勇気付けてあげることにした。


 千晃はウィリアムの前に立つと、そっと背中に腕を回す。ウィリアムを見上げると、穏やかに微笑んだ。


「アキ?」


 こんな風に千晃から行動を起こすのは初めてだ。案の定、ウィリアムは驚いている。目を丸くする彼に、千晃は物語の一節を口にした。


「離れていても、心は一つだ」


 戦場に向かう前夜、エイダンがアリシアに告げた言葉を真似してみた。原文の直訳ではなく、千晃なりに改編したものだ。ふざけ半分で始めたことだけど、いざ実行にすると小恥ずかしくなった。


 ウィリアムは、ごくりと喉を鳴らす。紅玉の瞳に熱が籠った。離れようと腕を解いたものの、今度はウィリアムに抱き寄せられる。太腿の間に脚を差し込まれると、下肢に淡い刺激を与えられた。


「それは誘っているのか? なんならこの後、二人でボートにでも乗りに行くか?」


 ボートに乗ることが何を意味しているかは、瞬時に理解できた。千晃はウィリアムの胸を押して抵抗する。


「乗るわけないだろ!」


 真っ赤になりながら拒否すると、ウィリアムは小さく笑いながら千晃から離れた。


「冗談だよ。私はエイダンよりは我慢が効く方だからね」


 その言葉を聞いて、余計に恥ずかしくなる。これ以上、この場にいたらおかしくなりそうだ。さっさと部屋に戻るためにも話をまとめる。


「で、屋敷を離れるのはいつ?」


「明後日だ」


「じゃあ、明日は血を吸っていいから」


 千晃が許可をすると、ウィリアムは驚いたように目を丸くする。別におかしなことは何も言っていないはずだ。離れている間に、ウィリアムが吸血衝動を起こしたら大変だから、出発前夜に血を与えおくのが得策だろう。


 千晃の言葉を聞いたウィリアムは、蕩けるように頬を緩ませる。


「明日はアキで満たせるのか」


「満たせるって……変な言い方するな!」


 恥ずかしい言い方をされて、顔が熱くなる。千晃は急いで部屋の扉に手をかけた。


「もう遅いから、おやすみ」


「うん。おやすみ、アキ」


 名残惜しそうに微笑むウィリアムに見送られながら、部屋を後にした。


 自室に戻ってから、ベッドに倒れ込む。血を吸われたわけではないのに、どっと疲れた。大きく息を吐いていると、あることを思い出す。


(結局、九条家の話は出てこなかったな)


 自分が関わることじゃないと思いながらも、どうにも気になってしまう。とはいえ、あまり不安には感じていない。あれだけ愛情表現をしてくれるウィリアムが、他の人と結婚するなんて考えられなかった。


 婚約の件は断ったのだろう。そう結論付けて、千晃は眠りについた。

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