第三章 本物の花嫁
第15話 青天の霹靂
大学から帰宅すると、屋敷の前にウィリアムの車が停まっていることに気付く。普段は会社に停めていると聞いていたため、屋敷に車があること自体が珍しかった。
車の前にはスーツ姿の滝沢が立っている。千晃の存在に気付くと、滝沢は恭しく頭を下げた。
「お帰りなさいませ。アキさん」
「ただいま戻りました。滝沢さんはこちらで何をされているのですか?」
「労働です」
「ろうどう……」
千晃の目には、車の前で突っ立っているようにしか見えない。労働と言われてもピンとこなかった。滝沢は千晃の言わんとしていることを察してか、眼鏡のつるを押し上げながら堂々と告げる。
「この場で立っているだけでもお給金が発生するので、立派な労働です」
「そうですか……」
随分気楽な労働ですねと言いかけたが、言葉を飲み込んだ。それを口にするのは、あまりに失礼だ。
「滝沢さんがこちらにいらっしゃるということは、ウィル……いえ、旦那様も屋敷に戻られているんですか?」
「ええ。何でも九条財閥の社長と急遽話し合いをすることになったとか」
九条財閥とは国内有数の財閥だ。海運、鉄道、紡績、製紙など多岐にわたる事業を手掛けている。九条財閥の存在は千晃も知っているが、九条という名はもっと別の場所で聞いたような気がする。
「九条……九条……あっ!」
思い出した。九条家は、ウィリアムの婚約者の家だ。
「九条家って、旦那様のご婚約者の……」
「あ……」
滝沢は無表情のまま固まった。表情からは分かりにくいが、マズイと焦っているようにも見える。
千晃とウィリアムの関係を、滝沢がどこまで知っているのかは分からないが、少なくとも目にかけていることは知っているだろう。婚約者が現れたら良い気はしないと想像しているのかもしれない。
「アキさん、ご心配には及びません。社長は日頃から、アキさんのことばかりお話しているので」
「僕の話を?」
「ええ。『早く仕事を終わらせてアキに会いたい』だとか『今日はアキを抱いて寝る日だな』とか小恥ずかしいことを仰っています。まったく、聞かされるこっちの身にもなってください」
「……すいません」
励まされているのかと思いきや、いつの間にか愚痴に変わっていた。まったく忙しい人だ。
「そういうわけなので、恋敵が現れてもご心配なさることはありません」
「恋敵って……」
随分大袈裟な物言いだ。ウィリアムの婚約者が現れたのだからもっと焦ってもいいはずだが、正直実感が湧かない。恋敵と言われてもピンとこなかった。
「とにかく、僕は中に入りますね」
「ええ。ご武運を」
滝沢は折り目正しく頭を下げると、車の前で突っ立っているだけの労働を再開した。
千晃は玄関に向かうと、そーっと扉を開ける。応接間の扉は閉まっていたが、中から二人の男性の声が聞こえた。一人はウィリアムの声だ。扉の硝子窓から中の様子を伺うと、ウィリアムと恰幅の良い中年男性が口論していた。
「それで秋穂さんは納得しているのですか?」
「娘の意思など関係ない。婚約は既に決まっていたことじゃないですか。やっとの思いで連れ戻したのだから、約束通り嫁がせますよ」
「それは……あまりに横暴だ」
ウィリアムは悩まし気に額を押さえる。何が起こっているのか探ろうとしたところ、紅茶を運ぶトヨと鉢合わせた。
「まあ……アキさん……」
トヨは気の毒そうに千晃を見つめている。千晃は声を潜めながらトヨに尋ねた。
「もしかして婚約者の親族の方ですか?」
「どうしてそれを……」
「滝沢さんから九条家の方がいらしていると聞きまして」
正直に伝えると、トヨは「もうっ、あの人ったら余計なことを!」と怒り始めた。恐らくトヨも、婚約者が現れたら千晃が気分を害すると思っているのだろう。これ以上、この場にいたらみんなに気を遣わせてしまいそうだ。
「あの、僕は部屋にいますので」
話し合いが終わるまで部屋で待機していた方が良さそうだ。そそくさと階段を登っていると、トヨに階段下から声をかけられた。
「旦那様の御心はアキさんだけですから、お気を落とさず」
ぐっと拳を握って励まされる。千晃は曖昧に笑ってから階段を登った。
◇◆
部屋に入ってから、小さく溜息をつく。最初はまったく気にしていなかったが、滝沢やトヨから励まされるとかえって心配になった。
ウィリアムの婚約者は、幼馴染の男と駆け落ちしたと聞かされている。しかし、先ほどの会話から察するに、駆け落ちに失敗して家に連れ戻されたのだろう。
(婚約者が見つかったということは、予定通り結婚するのか?)
ウィリアムが結婚。まるで想像がつかなかった。
机に向かっていても、ウィリアムのことばかりが頭に浮かぶ。その度にモヤモヤとした感情が募っていった。
(駄目だ。別のことを考えよう)
余計なことを考えてしまう時は、別のことに集中するといい。ちょうど昨夜、ウィリアムから新しい原稿を預かっていた。翻訳作業に集中して、気を紛らわせよう。
引き出しから原稿を取り出し、読み始める。物語は、騎士のエイダンが戦地に向かう前夜から始まった。エイダンが戦地に行っている間、主人公のアリシアと離れ離れになる。二人は人目を盗んで湖畔へ訪れ、別れの言葉を交わしていた。
エイダンの身を案じる描写では、アリシアの心情がありありと伝わって来る。行ってほしくないというのが本音だが、そんなことは口が裂けても言えない。エイダンに心配をかけまいと、笑顔で送り出そうとしていた。
アリシアの本心を察したエイダンは、彼女を強く抱きしめる。感極まって泣き出したアリシアにエイダンは告げた。
『私の心は君の傍にある。どんなに遠く離れていても』
直訳するとそんな感じだろう。別れの場面では、この台詞が肝になりそうだ。翻訳する時は、しっかり練ろうと決めた。
感動的な別れのシーンだが、徐々に雲行きが怪しくなる。抱き合っていた二人は、激しくキスを交わし始めた。それだけに留まらず、湖に浮かんだボートに移動して、身体を重ねた。情熱的な描写だが、初心な千晃には刺激が強すぎた。
(これを訳すのか? 僕が?)
そういえば、ウィリアムの書く小説は官能描写がやけに生々しかった。翻訳を引き受けた時はすっかり忘れていたが、一冊分翻訳するということはそういう描写も含めて訳すことになる。
(ウィルはどういうつもりでこれを僕に渡してきたんだ……。いや、向こうはいつも通り書いているだけか……)
過剰に反応しているのは自分だけだと気付くと、余計に恥ずかしくなる。ウィリアムはこんな描写も書きなれているだろうから、心乱さずに書いているに違いない。
(そういえば、前にウィルは物語に登場する人物は自分の分身だと言っていたような……)
ということは、エイダンもウィリアムの分身といえる。そのことに気付いた瞬間、作中の行為をウィリアムと重ねてしまった。それだけではない。ウィリアムに組み敷かれている相手が、千晃自身に置き換わってしまった。
(……って、何を考えてるんだ僕は!)
身体中に熱が籠っていく。ドクドクと下半身に血が集まっていくのも感じた。邪念を追い払おうと試みたものの、一度昂ってしまった欲は簡単に鎮めることはできなかった。
◇
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