第13話 満たされていく
ウィリアムから翻訳を依頼された千晃は、翌日から作業に取り掛かった。渡された原稿は、冒頭の二十頁だ。内容は理解しているが、どのように翻訳すべきか頭を悩ませていた。
参考資料として、大学の図書館から有名どころの瑛文小説を借りてきた。原文で書かれたものと翻訳されたものを照らし合わせながら読んでいくと、文章の区切り方や主語を省略できる箇所などが大まかに把握できた。それでも実践するのは容易ではない。
(まずは冒頭の一節だけど、どう訳せばいいんだろう……)
物語は、主人公のアリシアが義理の母から悪態を吐かれる場面から始まる。直訳すれば、『貴方は悪魔の子、貴方の存在が周りに害を及ぼす』だ。そのままでも意味は通じるが、冗長な表現に思えた。
(台詞らしく訳してみるか)
単語の意味を書き出しながら文章を組み立てる。イメージを膨らませるため、義母になじられているアリシアの姿を想像してみた。
高圧的な態度でなじられている姿を想像すると、過去の自分と重なる。似たようなことを千晃も散々言われてきた。だからこそ、スッと台詞が浮かんできた。
(ああ、きっとこんな感じだろう)
千晃は真新しい原稿用紙にペンを走らせて、冒頭の一節を書き出した。
『お前は災いを振りまく忌み子だ』
若干意味が異なるが、こっちの方が分かりやすい。心に圧し掛かるような絶望感も伝わって来る。物語の冒頭としては、惹きつけられるだろう。
その後も翻訳を続けたものの、次々と壁が立ちはだかった。オリビアの小説には、この国には存在しない概念がたくさん登場する。それらを調べながら訳すのにも骨が折れた。
文化の違いから、共感しがたい台詞も数多く登場する。この国の人々からすれば、異次元の物語だろう。
頭を悩ませながら翻訳に没頭していると、部屋の外からトヨに呼ばれる。
「アキさん、お夕食の支度ができましたよ」
ハッと現実に戻ると、外がすっかり暗くなっていることに気付く。千晃は原稿をまとめて部屋を飛び出した。
「すいません。夕食の支度を手伝えなくて」
「いいんですよ。学生さんの本分は勉強なんですから、そちらを優先させてください」
トヨは手伝いを忘れていた千晃を咎めることなく、柔らかな笑顔で許してくれた。彼女の優しさにはいつも助けられてばかりだ。いつか恩返しをしないと罰が当たるような気がした。
「ささっ、ダイニングに行きましょう。旦那様もお待ちですよ」
「はい」
トヨの後に続いて、千晃もダイニングに向かった。
◇◆
今夜の献立はオムライスだ。薄く焼いた玉子が、チキンライスを綺麗に包んでいる。卵の上にはデミグラスソースがかかっていた。洋食屋で出されてもおかしくない料理を前にして、千晃は感心する。
「トヨさんって、料理がお上手ですよね。どこかで修行をされていたんですか?」
「修行なんて大層なことはしておりませんよ。洋食の作り方は、すべて旦那様に教えていただきました」
「ええ!? ウィルから!?」
トヨの作る洋食がウィリアム直伝だったというのは驚きだ。そもそもウィリアムが料理をできることにも驚かされた。目を丸くする千晃を見て、ウィリアムはおかしそうに笑う。
「そんなに驚くことか? 昔から料理は得意なんだ。最近は忙しくてトヨに任せきりになってしまっているけどね」
「ウィルが台所に立つこともあるんだね。家のことは全部使用人に任せていると思っていたから」
ウィリアムほどの資産家が自ら料理をするとは思わなかった。瑛国にいた頃も、使用人に囲まれた生活をしていたとばかり思っていたから。
「昔は売れない作家だったからね。今のような生活ができているのは、ごく最近だよ」
昔というのが、いつのことを示すのかは疑問だ。吸血鬼だから常人離れした年月を生きている可能性もある。トヨがいる前では真相を確かめることはできないが。
ウィリアムの過去については、いまだ未知数だ。いつか聞いてみたいけど、話してくれるかは謎だった。
あれこれ想像していると、ウィリアムが目を細めながら微笑む。
「いつかアキにも、私の作った料理を食べてもらいたい。アキは痩せすぎだから心配になる」
ウィリアムの言葉に、トヨも大きく頷いて同意する。
「そうですよ、アキさん。育ち盛りなんですから、たくさん栄養を摂って大きくなってくださいね」
千晃は自分の身体を観察する。この屋敷に来たばかりの頃は、千晃の身体は枯れ枝のように痩せ細っていた。だけど最近は、栄養価の高い食事を出してもらったこともあり一般体型に近付いていた。
「気を遣わせてしまって、すいません……」
遠慮がちに頭を下げると、二人は気にすることはないと言うように首を振った。
「アキが元気に過ごしてくれることが一番の望みだからね。そうでないと、私も困る」
確かに千晃が健康を害したら、ウィリアムにとっても死活問題だ。血を与えるためにも、しっかり栄養を摂らなければ。
「ウィルのためにも、ちゃんと食べるよ」
そう約束すると、ウィリアムは蕩けるような笑みを浮かべた。
「いい子だ」
またしても子供のような扱いを受けて気恥ずかしくなる。ふと、トヨの顔を見ると口元に手を添えながら笑っていることに気付いた。
「では、私はこれで失礼します。お二人の邪魔をしてしまってはいけませんからね」
そう告げると、そそくさと帰り支度をして去って行った。またしてもいらぬ気を遣わせてしまったようだ。
「それじゃあ、いただこうか」
「うん。いただきます」
千晃は席について、食事を始めた。
◇◆
オムライスを堪能していると、ウィリアムから翻訳の件を尋ねられる。
「今日は部屋に籠っていたようだけど、さっそく翻訳をしてくれているのか?」
「うん。まだ冒頭の一頁だけどね」
「仕事が早いね。やってみてどうだ?」
「凄く勉強になるし楽しいんだけど、難しくもあるかな。直訳しただけだと冗長になるし、かといって原文から変えたら別ものになりそうだし、匙加減が難しい」
率直な感想を伝えると、ウィリアムは目を細めながら大きく頷いた。
「二つの言語を繋ぐのは難しいことだ。文法も違うし、この国には馴染みのない言葉も出てくるから、直訳しても意味が通じるとは限らない」
「そうなんだよね……」
ウィリアムの真似をするように目を細めると、ふふっと笑われた。
「原文に忠実でなくても構わない。アキが読んで、感じ取ったことを、素直に言葉にしてくれればいいから」
「……それで怒らない?」
「怒るはずないだろう。世に出すものでもないのだから、自由にやってくれて構わないよ」
その言葉で気が楽になった。下手な翻訳をして全然違うと怒られたら、どうしようかと心配していたから。
「預かっている分の翻訳ができたら、一度ウィルに見せるよ」
「うん、楽しみにしているよ」
ウィリアムから心待ちにされると、俄然やる気になった。それから会話は、小説の内容に移る。
「主人公の境遇がさ、なんだか他人事には思えないんだよね。読んでいてこっちまで苦しくなった」
何気なく感想を漏らすと、スプーンを持つウィリアムの手が止まった。紅玉の瞳が驚いたようにこちらを凝視している。そこで余計なことを口にしたことに気付いた。
「ごめん。今のは忘れて……」
重苦しい空気にしたくなくて話題を変えようとしたが、ウィリアムから深刻そうに追求された。
「異様なほどに痩せ細っていたから不審には思っていたが、アキは満足な食事も与えられないほどに冷遇されていたのか?」
千晃は言葉に詰まらせる。ウィリアムの指摘は事実だが、同情されるのは避けたかった。可哀そうだから優しくされるというのは、惨めだ。
「そういうわけじゃない。単純に食事を摂るのが面倒だっただけだよ」
苦しい言い訳だと思いつつも、怪しまれないように堂々と受け流す。ウィリアムは何か言いたげに唇を動かしていたが、それ以上追及してくることはなかった。
義母である梨都子から憎まれていたのは、仕方のないことだ。梨都子にとって、千晃は劣等感を刺激する存在でしかなかったのだから。
苦しいのは自分だけではない。梨都子だけを悪人にして、被害者ぶるつもりはなかった。
何食わぬ顔で食事を続けていると、ウィリアムから真剣な眼差しを向けられていることに気付く。スプーンを持つ手を止めて固まっていると、ウィリアムははっきりとした口調で告げた。
「アキ、約束させてくれ」
「何を……?」
瞬きを繰り返しながら聞き返すと、熱を込めて伝えられた。
「これからは私がアキを満たす。足りなければいくらでも与える。満たされるまで注ぎ込むから、覚悟しておきなさい」
どうしてそんなことを言われているのか分からない。ウィリアムには、過去の話なんて何一つしていないのに。まるで心の中を見透かされたような気分だ。
ウィリアムの言葉は、心の一番弱い部分に沁みていった。
千晃はずっと満たされないまま生きてきた。足りないものを補うように知識を詰め込んできたけど、本当に満たしたい器は空っぽのままだった。その器だけは、自分ではどうしても満たすことができなかったから。
だけど、この屋敷に来て変わった。ウィリアムやトヨと過ごす中で、空っぽの器に少しずつ温かなものが注ぎ込まれた。今はもう、寂しくはない。
胸が締め付けられる。嬉しいやら恥ずかしいやらで顔が熱くなった。
「何だよ、それ……」
視線を泳がせながら、はぐらかす。ウィリアムの想いを真正面から受け止めるのは気恥ずかしかった。すると、正面から小さく溜息をつく音が聞こえる。
「分からないか。それなら、もっと分かりやすく伝えないといけないね」
ウィリアムは穏やかに微笑んでいる。緩く弧を描いていた唇が動くと、千晃が最も欲していた言葉を捧げられた。
「アキ、愛してるよ」
カラン、とスプーンを床に落とす。動揺のあまり、手元が狂った。
ウィリアムは余裕のある態度で微笑んでいるけど、千晃はとてもじゃないけど冷静でなんていられない。ガタン、と音を立てながら椅子を引き、床に落ちたスプーンを拾った。
「替えのスプーンを取ってくる」
そう言い残して、千晃はダイニングから飛び出した。台所まで逃げると、千晃は胸を押さえながら俯く。
(驚いた……)
心臓が暴れまわって仕方がない。当然だ。何の前触れもなく「愛してる」なんて言われたのだから。
そもそも「愛してる」なんて台詞を口にする男性も初めて見た。千晃の周りでは、そんな言葉を口にする男性はいない。
そういえば、オリビアの小説に登場する男性も、女性に惜しみなく愛の言葉を囁いていた。もしかしたら、これもお国柄なのかもしれない。
愛されたいと望んできたが、あんなに真っすぐ想いを伝えられたらどう振舞っていいのか分からなくなる。これでは心臓がいくらあっても足りない。
千晃はスプーンを握ったまま溜息をつく。心が鎮まるまでは、ダイニングには戻れそうになかった。
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