第12話 翻訳の依頼

 週に一度、ウィリアムに血を捧げる。そんな関係を一ヶ月ほど続けていた。


 ウィリアムに血を吸われると、起き上がれないほどの激しい眩暈に襲われる。意識がある時はまだ良い方で、意識を飛ばされるほど吸い尽くされることもあった。


 そのせいで血を吸われた翌日は、ウィリアムのベッドで目を覚ますのが恒例になっていた。朝、ウィリアムから「おはよう」と微笑みかけられると、眠気が一瞬で吹き飛ぶ。


 整った顔立ちに見つめられるだけでも緊張するのに、ウィリアムはベッドに入る時は何も身につけていない。毎回目のやり場に困っていた。これではまるで、情事の後のようだ。血を吸われる以上のことは、何もされていないのだけれど……。


 いや、何もされていないというのは嘘だ。血を吸われた後は、キスをされていた。二度目に血を吸われた時と同じく、唇に軽く触れるだけのキスだ。一度ならまだしも、啄むように何度も何度もキスの雨が降ってくる。


 本当は恥ずかしくて仕方ないのに、毎回拒むことができずに受け入れていた。抵抗できないからではない。キスをされている間は、深い幸福感に包まれるからやめられなかった。


 昨夜も血を吸われた後に、散々キスをされた。ふと思い出してしまい、全身が熱くなる。


(うう……駄目だ。また思い出して……)


 大学から戻った千晃は自室で課題をしていたが、余計なことを思い出してしまい勉強どころではなくなってしまった。少し息抜きをしようと椅子から立ち上がったところで、部屋の扉を叩かれる。


「はい」


 トヨかと思いきや、部屋を訪ねて来たのは意外な人物だった。


「アキ、頼みたいことがあるんだ」


 やって来たのはウィリアムだ。千晃は急いで扉を開けて、部屋に招き入れた。


「どうしたの? ウィル」


 ウィリアムが部屋を訪ねてくるなんて珍しい。扉の前に立つ彼は、少し疲れているように見える。何事かと身構えていると、ウィリアムが紙の束を手に持っていることに気付いた。


「なにそれ?」


「新作の小説だ」


「小説!? もしかしてオリビア・アレンの?」


「そうだ」


 千晃は声にならない悲鳴を上げる。まさか憧れの作家の原稿が目の前にあるなんて感激だ。一人で興奮していると、思いがけない言葉が飛び出す。


「もしよければ、冒頭だけ読んで感想をくれないか?」


「良いの!?」


「ああ。正直な感想を聞かせてくれ」


 オリビア・アレンの新作小説の読者第一号になれるんて、ファンとしてこれほどまでに光栄なことはない。千晃はありがたく原稿を受け取った。


「さっそく読ませてもらうね。僕、読むの遅いから、読み終わったらウィルの部屋に行くよ」


「いや、アキが読んでいるところを見たいんだ」


 そんな要求をされるとは思わなかった。本人の目の前で読むというのは緊張する。だけど真剣な眼差しで頼まれると、拒めなくなった。


「うん。分かったよ」


「ありがとう。それじゃあ、サンルームに移動しよう」


 預かった原稿と辞書を持って、サンルームに移動する。二人はテーブルを挟んで向かい合わせに座った。


 窓ガラスから夕日が差し込む。少し開けた窓からは、春の柔らかな風に乗って薔薇の香りが漂ってきた。


 原稿を黙読していると、次第に周囲の刺激が気にならなくなる。物語の世界に没頭していた。


 新作の小説は、悪女と蔑まれていた令嬢が王国騎士に見初められる物語だ。冒頭では令嬢の生い立ちと騎士との出会いが書かれていた。


 分からない単語を辞書で引きながら、時間をかけて読み進める。その間、ウィリアムから声をかけられることはなかった。


 最後の一文まで読み終わると、千晃は瞳を輝かせながら感想を伝える。


「面白かった! とくに令嬢と騎士の出会いが最高!」


 千晃が絶賛すると、ウィリアムは安堵するように深く息をつく。


「良かった。アキがそう言ってくれるなら、安心して書き続けられるよ」


 続きを書いてくれると知って、胸の内で歓喜する。オリビア・アレンの新作は、ここから生まれようとしているのだ。


「続きが書けたら、また読ませてくれる?」


「もちろん。アキの反応を見ながら書けるのは、私にとっても有意義だからね」


 喉の奥で悲鳴を上げる。またひとつ楽しみができた。原稿を眺めながら、千晃は何げなく尋ねる。


「そういえばさ、オリビアの小説は原文しかないけど、翻訳版は出さないの?」


 千晃から質問を受け、ウィリアムは困ったように眉を下げた。


「この国の書き言葉は、難解過ぎる。読むことと話すことはできても、書くことだけはどうにも上手くできないんだ」


「ウィルが書けなくても、別の人に頼めばいいんじゃない?」


「それも以前試したことがあったんだけど、どうにもしっくりこなくてね。いかにも翻訳調で、リズムも悪い。納得のいく仕上がりではなかったから、こちらからお断りしたんだ」


「そうだったんだ……」


 ファンとしては、オリビアの本をもっと世に広めたい。だけど言葉の壁がある以上、どうしても敷居が高くなる。手軽に読めるとは言い難かった。


 勿体ないなぁと嘆いていると、ウィルは何かを思いついたかのようにテーブルから身を乗り出した。


「良いことを思いついた。アキが翻訳すればいいじゃないか。アキは私の小説のファンで、瑛語も理解できる」


「ええ!?」


 突拍子のない提案に驚き、声を上げる。翻訳家でも何でもない、ただの学生に頼むなんてどうかしている。


「僕には務まらないよ」


「大学で勉強していることだろう?」


「そうだけど、さ……」


「そのまま売り出すわけではないんだから、プレッシャーに感じる必要はない。勉強のひとつだと思って取り組んでくれればいい」


 あくまで二人の間で完結する話なら、そこまで身構えるものではないのかもしれない。ウィリアムの言う通り、勉強になるのは事実だ。


「もちろん大学の勉強に差し支えるようなら、断ってくれていい」


「いや、やってみたい! ちゃんとできるかは分からないけど」


 千晃の返事を聞くと、ウィリアムは嬉しそうに目を細める。


「ありがとう。早速、先ほど渡した冒頭から翻訳してくれ」


「分かった」


 千晃は原稿を手元に引き寄せる。上手くできる自信はないけど、今は不安よりも高揚感の方が勝っていた。


 もともと翻訳には興味があったから、これは良い機会なのかもしれない。完成した原稿はウィリアムに見てもらえるわけだし、真剣に取り組もうと心に決めた。

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