第10話 一番好きな場所
喫茶店を後にしてから、二人を乗せた車は海沿いの道を走った。もうじき陽が落ちる頃だから、屋敷に戻ると思いきや、車は港へと向かっている。
「もう一箇所、連れて行きたい場所があるんだ。付き合ってくれるか?」
「もちろん」
断る理由なんてない。ウィリアムにあちこち連れ回されるのは、案外楽しい。次はどこに連れて行ってもらえるのかと期待していた。
赤レンガ倉庫が立ち並ぶ港で、車が停車する。ウィリアムに手を引かれながら、千晃は車から降りた。海の方向へ視線を向けた途端、瞳を輝かせる。
「わぁ、綺麗……」
茜色の夕焼けが、海に映し出されている。波が立つ度に、海面が煌めいていた。赤レンガ倉庫の傍では、巨大な蒸気船が停泊している。この場所が異国との玄関口になっていると考えると心が弾んだ。
「この景色をアキにも見せたかったんだ」
咄嗟に視線を上げる。夕日に照らされた横顔は、いつもより神々しく見えた。
「この港は、私の一番好きな場所だ。不安に駆られた時、この場所で海を眺めると心が落ち着くんだ」
「ウィルも不安になることがあるんだ」
いつも堂々としているウィリアムが、思い悩む姿はあまり想像ができなかった。ウィリアムは自嘲気味に笑う。
「不安も後悔もたくさんあるさ。この身体になってからは余計にね。とてもじゃないが、人に話せる内容ではないけど」
この身体になってからというのは、吸血鬼になってからという意味だろうか? ウィリアムが吸血鬼であることは、人に明かしてはいけないと言われている。恐らく会社の人間も、ウィリアムの正体は知らないのだろう。
誰にも打ち明けられない秘密を抱えて、一人で思い悩んでいるのはとてつもなく苦しいことだろう。もしかしたら、彼はずっと孤独だったのかもしれない。
「ウィルは、どうして花嫁を迎えようと思ったの?」
ウィリアムの横顔を見据えながら尋ねる。以前、花嫁を迎えたのは、血を分けてもらうためだと聞かされた。だけど、それだけではないような気がしていた。
婚姻関係を結ばなくても、血を分けてもらうことはできるはずだ。少なくとも千晃が来るまでは、花嫁がいなくても生きながらえていたのだから。
茜色の海を眺めていたウィリアムが、視線を落とす。千晃と目が合うと、穏やかに微笑みかけられた。
「殺すのではなく、愛したかったからだ」
唇の端から鋭い犬歯が覗く。その瞬間、ゾクッと背中に寒気が走った。
吸血鬼とは、人の血を吸う化け物だ。先日血を吸われた時は、命までは奪われることはなかったが、意識を失う程度には血を持っていかれた。もしかしたら、過去には人を殺めた経験もあるのかもしれない。
「私のことが怖くなった?」
ウィリアムからの問いかけに、すぐには答えることができない。自分でも今の感情が理解できなかった。
生きながらえるためとはいえ、目の前に人を殺める化け物がいれば、恐怖心を抱くのが普通だ。自分も殺されるかもしれないと、戦慄してもおかしくはない。
だけど、ウィリアムのことはちっとも怖いとは思わなかった。その理由は、自分でもよく分からない。
沈黙が走る。ウィリアムの顔を見ることすらできず、揺らめく波をぼんやりと見つめていた。
そんな中、ドボンと水の中に何かが落ちる音が聞こえた。直後、女性の悲鳴が響き渡る。
「子供が! 子供が海に落ちて!」
咄嗟に周囲を見渡すと、海を指さしながら叫ぶ女性を見つける。堤防の下からは、激しく水をかく音が聞こえた。
子供が海に落ちた。その事実を知った瞬間、考えるよりも先に身体が動いた。
千晃はジャケットを脱ぎ捨て、走り出す。身軽になってから、海の中へと飛び込んだ。
ザブンと大きな水音が立つ。冷たい水が、身体中にまとわりついた。塩辛い海水も口の中に流れ込んでいく。身体が沈んでいくのを感じながら、両手両足で水をかき分けながら、子供の姿を探した。
藻掻く力を失ったのか、子供は海底へと沈んでいる。千晃は両手を伸ばし、子供のもとまで泳いだ。
沈んでいたのは、五歳前後の男の子だ。小さな身体を抱きかかえると、海面に向かって泳いだ。両脚を使って水を蹴ると、海面まで辿り着く。顔を出して、大きく息を吸い込んだ。
「アキ!」
堤防でウィリアムが叫んでいる。その表情は、今まで見たことがないほどに青ざめていた。堤防に向かって泳ぐと、男の子をウィリアムに託す。
「この子を引き上げて」
「ああ」
手を伸ばしたウィリアムによって、子供は引き上げられる。堤防に横たわった子供は、ゲホゲホと咳をしながら水を吐き出した。どうやら意識はあるらしい。安堵していると、ウィリアムが千晃に手を伸ばす。
「アキも早く!」
差し出された手を掴むと、一気に堤防まで引き上げられた。地面から起き上がると、すぐさま子供のもとへ駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「ええ。おかげさまで命に別状はないようです」
母親と思われる女性は、子供を抱えながら涙ながらに告げた。海に落ちた男の子は、さぞかし恐ろしい思いをしたのか、わんわんと泣き喚いていた。
小さな命が助かって良かった。安堵の溜息をついていると、突然背後から抱きしめられた。
「無茶をするな。心臓が止まるかと思った」
耳元で囁かれる。背中から伝わる温もりと、くすぐるような吐息を感じて、カアアと顔が熱くなった。
「人前で何を……。離して!」
抵抗するも、ウィリアムは腕の力を強めるばかり。目の前の女性は、ぽかんと口を開けて二人を見つめていた。
「恥ずかしいから離して!」
「嫌だ」
「嫌って……」
口で言っても聞いてもらえないなら、身をよじらせて抵抗する。そこでようやく離してもらえた。
これ以上注目を集めないためにも、早足で車に向かう。その途中で、地面に落ちたジャケットと鞄を拾う。車に近付くと、滝沢が駆け寄ってきた。
「アキさん、大丈夫ですか? お怪我は?」
「大丈夫です」
滝沢は、ホッと胸を撫でおろす。するとウィリアムに腕を掴まれた。振り返ると、今にも泣き出しそうな顔をしていることに気付く。
「ああいうのは、やめてくれ」
「泳ぎは得意なんだ。あれくらい平気だよ」
強がりではない。千晃は港町で生まれ育ったこともあり、泳ぎは人並み以上に得意だった。
だけどそんな事情を知る由もないウィリアムからすれば、心臓が止まりそうになるほど衝撃的な光景だったのかもしれない。そう考えると、申し訳なくなった。
「心配かけて、ごめんなさい。それに、せっかく買ってもらった服も濡らしちゃって……」
視線を落としてシャツとズボンを見つめる。海水で濡れただけだから駄目になったわけではないが、せっかく買ってもらった服を一日で汚してしまったのは申し訳ない。
「服なんてどうでもいい。アキが無事ならそれで……」
泣き出しそうなウィリアムを前にして戸惑っていると、海風で身体が冷えたせいでくしゃみが出た。すんと洟を啜った直後、ウィリアムはおもむろにシャツのボタンに手をかける。
「濡れたままだと風邪をひいてしまう。シャツを脱ぎなさい」
「ああ、うん。……って、自分で脱げるから!」
ぽちぽちとボタンを外されて、シャツを剥ぎ取られてしまう。上裸になることなんてなんでもないのに、ウィリアムの前だと妙に気恥ずかしくなる。千晃は急いで鞄から着物を取り出して、肩から羽織った。
「ズボンも濡れている」
「あー! 自分で脱ぐから! 触らないで!」
ズボンのホックまで外されそうになったが、何とか阻止して車に乗り込んだ。
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