第9話 甘く溶けていく

 千晃は洋装に身を包み、ウィリアムに案内されるまま喫茶店に入った。


 扉を開けた瞬間、ふわりと珈琲の香りが漂ってくる。店内には、テーブルやソファーなどの西洋家具が並んでいる。カウンターの奥には、華やかなティーカップが収められた食器棚があった。


 着物に白いエプロンを合わせた女給に案内され、二人は席につく。喫茶店に初めて訪れた千晃は、緊張のあまり置物のように固まっていた。そんな姿を見て、ウィリアムがおかしそうに笑う。


「そんなに緊張しなくていいよ」


「でも、場違いな気がして……」


 周りにいる客は、貫禄のある男性や容姿の整った女性ばかりだ。ただの学生には分不相応に感じた。


「気にすることはない。それより何が食べたい?」


 ウィリアムが御品書きを開いて千晃に差し出す。促されるまま御品書きに目を通した。ライスカレー、オムレツ、チキンカツレツ、サンドイッチなどの洋食が並んでいる。ページをめくって飲み物の欄を眺めていると、あるものに目を奪われた。


「アイスクリームソーダ?」


 御品書きにはイラストが添えられている。細長いグラスに飲み物が注がれていて、てっぺんに丸いものが乗っていた。こんな飲み物は見たことがない。首を傾げていると、目の前にいるウィリアムに微笑みかけられる。


「ソーダ水にアイスクリームを乗せた飲み物だよ。それにするかい?」


 うん、と頷こうとしたものの、御品書きに書かれている値段を見てギョッとした。庶民には贅沢過ぎる代物だ。


「いや、いいよ。僕は水で十分」


 御品書きを閉じてウィリアムに突き返したものの、彼は目を細めながら口元を緩ませた。それからすぐに手を挙げて女給を呼び、注文をした。


「アイスクリームソーダにコーヒー、それと玉子サンドとチキンライスと……」


「ちょっと、ちょっと!」


 咄嗟にウィリアムを止めるも、中断することなく淡々と注文を済ませる。その間、千晃は脳内でそろばんを弾いて気が遠くなった。女給が去ったところで、ウィリアムに抗議する。


「そんなにあれこれ注文しなくたって」


「心配なんだ」


 千晃の言葉を遮るように、ウィリアムが告げる。前方から伸びてきた手は、千晃の腕を掴んだ。


「こんなに細い腕をして、栄養失調で倒れてしまわないか心配だ。アキはもっとたくさん食べた方が良い」


 眉を下げて心配そうに顔を覗き込まれたら、何も言い返せなくなる。千晃は一般的な成人男性と比べるとかなり細い。実家にいた頃に出されていた食事は、育ち盛りの男子に与えるにはあまりに少ない量だったからだ。


 気遣ってくれるのは、正直嬉しい。ここは素直に従うことにした。


「分かった。ちゃんと食べる」


 気恥ずかしさから俯き加減で約束する。ウィリアムは安堵を滲ませながら微笑んだ。


「いい子だ」


◇◆


 しばらくすると、飲み物が運ばれてくる。テーブルに置かれたアイスクリームソーダを前にして、千晃は瞳を輝かせた。


「わあ、綺麗な色」


 グラスには、鮮やかな黄色のソーダ水が注がれている。檸檬の果汁が入ったソーダ水のようだ。氷の上には、丸いアイスクリームが乗せられていた。こんなにハイカラな飲み物は初めて見た。


「アイスクリームが溶ける前に飲みなさい」


「うん」


 グラスに触れるとひんやりとした感触が伝わってくる。グラスの中の氷が揺れて、カランと音を立てた。


 ストローに口を付けてソーダ水を含む。その瞬間、口の中で弾けた。


「しゅわしゅわで甘い!」


 まるで子供のような感想だが、そうとしか言いようがなかった。爽やかなソーダ水とアイスクリームの甘さが口の中で溶け合って弾けていく。食感も味も心地よい。世の中にはこんなに美味しいものがあるのかと驚かされた。


 正面で珈琲を含んでいたウィリアムが頬を緩める。


「気に入ったようだね」


 その眼差しは、親が子に向けるような温かさがあった。飲み物ひとつではしゃいでいる自分に恥ずかしくなる。羞恥心を隠すように俯きながら頷いた。


「ありがとう、ウィル」


 感謝の気持ちを伝えると、ウィリアムの表情はさらに緩んだ。


 その後も次々と料理が運ばれてきて、ウィリアムに食べるように促された。どれもこれも美味しいのだけれど、量が多すぎる。すぐには完食できそうにないから、時間をかけながら頂くことにした。


 食事をする中で、ウィリアムは話を振ってくる。


「アキは、大学で瑛文学を学んでいるんだったね」


 唐突に尋ねられて面食らう。千晃は食べかけのサンドイッチを一度皿に置いて、話をする姿勢になった。


「うん、そうだけど」


「どうして瑛文学を学ぼうと思ったんだ?」


 そう聞かれると答えに困る。瑛文学を学びたいと思ったきっかけとなる人物が目の前にいるからだ。


 本当のことを伝えるのは気恥ずかしいが、上手い嘘が思いつかない。ここは正直に白状することにした。


「オリビアの本を読んで興味を持ったんだ」


 千晃の言葉を聞いたウィリアムは、珈琲カップを片手に固まる。赤い瞳は、大きく見開かれていた。


「以前、私のファンだと聞いた時から気になっていたんだが、私の本はこの国では翻訳されていないはずだ。原文で読んだのか?」


「うん、辞書を引きながら読んだ。大変だったけど楽しかったよ。オリビアの本をもっと読みたくて、異国の言葉を学びたいと思ったんだ」


 まるで意中の相手に告白をしているような気分だ。顔は燃え上がりそうなほど熱い。ウィリアムの顔を見ることさえできなかった。俯きながら身を固くしていると、ふわりと大きな手が頭に触れた。


「凄いな。アキは」


 憧れの人から褒められて、胸の奥がくすぐられるような感覚になる。


「別に凄くなんてないよ」


「卑下することはない」


 謙遜するも、即座に阻まれる。顔を上げるとウィリアムは穏やかに微笑んでいた。


「誇りを持ちなさい。賢くて勤勉な君は立派だ」


 それは持ち上げ過ぎだ。とはいえ卑下するなと言われた直後に、謙遜するのはかえって失礼な気がした。ここは素直に受け入れてみる。


「そういってもらえると嬉しい。僕もウィルみたいな紳士になりたい」


 正直に伝えると、正面に座っていたウィリアムが目を見開きながら固まる。かと思えば、口元に手を据えて視線を逸らした。


「まったく、君は……」


「ん?」


 まるで呆れられているような口調だが、そういうわけでもなさそうだ。ウィリアムの顔が、いつになく赤くなっているから。


「そんな笑顔を見せられたら、何でもしてあげたくなる」


「ええ? いいよ、そんな……。子供じゃないんだし」


「子供扱いしているわけではない。大切だから何でもしてあげたくなるんだ」


 今まで大切に扱われたことのない千晃には、どうにもむず痒かった。恥ずかしさを振り払うように、ストローでソーダ水を飲む。上に乗っかっていたアイスクリームはソーダ水と混ざり合い、胸焼けするほど甘くなっていた。

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