第8話 洋装に身を包んで

 千晃は自動車に揺られながら帝都の街並みを眺める。二人を乗せた車は、帝都の中心街へ向かっていた。


 車に乗った直後は、物珍しさから子供のようにはしゃいでしまったが、今はもう落ち着いている。高速で流れていく景色をぼんやりと見つめていた。


 大通り沿いには、レンガ造りの高い建物が並んでいる。歩道には洋装で着飾る人々が闊歩していた。きっとここは、この国で一番ハイカラな町だろう。


 着古した袴で歩いたら、自分のみすぼらしさが際立ちそうだ。服装には特段興味はなかったが、この格好でウィリアムの隣を歩くのは忍びなかった。


 車は帝国百貨店の前で停車する。ショーウィンドウを眺めていると、先に車から降りたウィリアムに手を差し伸べられた。


「足もとに気を付けて」


 こちらを気遣うウィリアムを見て、千晃はハッと気付く。


(これ、オリビアの小説と同じ展開だ……)


 小説では王子が姫の手を引いて、馬車から降りる場面があった。物語に登場する場面が目の前で再現されて胸が躍る。


「どうした? 早くおいで」


「うん」


 千晃はおずおずと手を伸ばし、ウィリアムの手に触れる。大きな掌に包まれて、車の外まで誘導された。


 車から降りたものの、なんだか気恥ずかしい。俯いていると、ウィリアムに顔を覗き込まれた。


「まだ怒っている?」


「怒ってはない……けど」


「けど?」


 ウィリアムは、長い睫毛を揺らしながら瞬きをする。不思議そうにこちらを見つめるウィリアムを見上げながら白状した。


「こんな風に扱われたのは初めてだから、どうしていいか分からなくて……。さっきも言ったけど、僕は男だ……」


 手を引かれて車から降りるなんて、女性がされることだ。自分がされているのは違和感がある。戸惑いを露わにすると、ウィリアムは目を細めながら微笑んだ。


「そんなことか」


 ウィリアムは大きな掌が、千晃の頭に触れる。見上げると、さも当然と言うように告げられた。


「大切な人を大切に扱う。当然のことだ。そこに性別は関係ない」


 はっきりと言い切る姿を見て、格好いいと思ってしまった。またしても胸の奥がむず痒くなる。心を乱されたせいか、つい思ったことを口にしてしまった。


「ウィルは格好いいな」


 ウィリアムは、目を見開きながら固まる。我に返った千晃が「しまった」と狼狽えていると、ウィリアムはやけに嬉しそうに笑った。


「好きになった?」


 薄い唇の端から、鋭い犬歯が覗く。反射的に血を吸われた日のことを思い出して、顔が熱くなった。


「そういう意味じゃない!」


 強く否定して、恥ずかしさを振り払う。そんな千晃の反応をおかしそうに眺めながら、ウィリアムは千晃の肩に手を添えた。


「いいよ、ゆっくり好きになってくれれば」


 まるで子供を宥めるような言い方をされて、余計に恥ずかしくなった。


◇◆


 ウィリアムに誘導されながら百貨店に入る。最初に連れてこられたのは、紳士服売り場だった。店内には、ぱりっとした上質なスーツが陳列されている。シャツや帽子、ネクタイなどの小物類も充実していた。


 店に入った途端、店員がウィリアムのもとまで飛んでくる。


「エイデン様。いらっしゃいませ。今日は何をお探しで?」


「彼に似合う服を身立ててもらおうと思ってね」


「ええ!?」


 二人の会話を聞いていた千晃は、大声を上げてしまう。ここに来たのは、ウィリアムの服を身立てるためだと思っていた。


「ウィルの服を買いに来たんじゃ……」


「今日はアキの服を買いに来たんだ」


 当然のことのように言われる。呆気に取られていると、店員の案内のもと試着室へと連れていかれた。採寸を済ませると、いくつかのスーツが運ばれてくる。ウィリアムは、真剣にスーツを吟味していた。


「フォーマルなブラックもいいが、柔和なブラウンもいいな」


「最近では、ホワイトも人気ですよ」


 ウィリアムはしばらく熟考していたが、選び切れなかったのか驚くべき発言をする。


「よし、全部頂こう」


「待て、待て」


 千晃が慌てて止めに入る。正確な値段は分からないが、スーツ一式なんて相当高価な代物だろう。百貨店に入っている店なら尚更。それを一度に三着も購入するなんてありえない。


「いいって。僕、持ち合わせがないし」


「私からのプレゼントだ。気にする必要はない」


「そんな高価なものを貰う理由がないって」


 屋敷で世話になっているだけでもありがたいのに、服まで買ってもらうわけにはいかない。遠慮していると、ウィリアムはやけに色気のある表情を浮かべながら、千晃の耳元で囁いた。


「対価なら身体で払ってもらっているじゃないか」


 ふしだら言い方をされて、悲鳴を上げそうになる。真っ赤になって固まっていると、ウィリアムはポンと頭に手を乗せてきた。


「贈り物をする権利くらい、くれたっていいだろう?」


 そんな言い方をされたら、断る方が難しい。せめてもの妥協点として、スーツは一着に留めてもらった。何着も購入されても来ていく場所がないと説明すると、渋々納得してもらえた。


 ウィリアムから勧められたのはブラックのスーツだ。千晃は恐る恐る袖を通す。洋装に身を包むのは初めてのことだ。鏡に映った姿は、まるで別人のように思えた。ぎこちないけど、これならウィリアムの隣を歩いていても不自然ではない。


「ああ、思った通りだ。よく似合っている」


 ウィリアムは蕩けるように頬を緩ませる。褒められると気恥ずかしかった。


「ネクタイは臙脂が合いそうだな。結んでみなさい」


 臙脂のネクタイを差し出されるも、受け取るのを躊躇ってしまう。俯いていると、ウィリアムは怪訝そうに眉を顰めた。


「どうした? 臙脂は好みじゃないか?」


 好みの問題ではない。もっと根本的な問題だった。恥を忍んで、千晃は正直に申し出た。


「その……結び方が分からなくて……」


 洋装なんて初めてだから、ネクタイを結んだ経験だってない。無知な自分が恥ずかしくなった。


「そういうことか。こっちにおいで」


 視線を落としながら近付くと、首の後ろにネクタイを回される。


「結んであげるから、じっとしていなさい」


 しゅるしゅると布が擦れる音が聞こえる。結び終わるまで、千晃は身を固くして待っていた。


「はい、できた。これで立派な紳士だ」


 胸元に視線を落とすと、臙脂のネクタイが綺麗に結ばれていた。鏡を見ると、先ほどよりもずっと洒落て見えた。まるで自分も瑛国紳士になったようだ。


「ありがとう、ウィル」


 瞳を輝かせながら素直にお礼を告げると、ウィリアムは穏やかに微笑む。


「せっかくだから、その服装でデートをしよう。着飾っているアキを、もっと見ていたい」


 上質なスーツを着ていれば、ハイカラな町を歩いていても見劣りしないだろう。着古した袴よりも、堂々と町を歩けそうな気がした。その後、ウィリアムは丸襟のスタンドカラーシャツを手に取った。


「これも買っておこう。大学に着ていくといい」


「大学に?」


 突然勧められて、戸惑いの色を浮かべる。最近は袴にスタンドカラーシャツを合わせる装いが流行っているから、気を遣ってくれたのだろうか? 勧められた真意が分からずにいると、不意に首筋に触れられる。


「ひっ……」


 突然のことに驚き、声を上げる。指先でなぞるように触れられているのは、先日ウィリアムに噛みつかれた場所だ。


「その格好だと首元の傷が目立つ。立て襟のシャツで隠しておきなさい」


 千晃は慌てて首元に触れる。自分では見えないから気に留めていなかったけど、周囲から見たら痛々しい傷だろう。迂闊だったと反省していると、ウィリアムは意味ありげににやりと笑う。


「そんな傷をつけていたら、執着心の強い恋人にマーキングされているみたいだからね」


「マーキング?」


「彼は私の所有物だと、周囲に知らしめることだ」


 その言葉で、森下の言葉を思い出す。そういえば彼は、千晃のことを執着されていると言っていた。もしかしたら首元に傷があるせいで、とんでもない誤解を与えてしまったのかもしれない。


「隠す! 明日から隠す!」


 執着心の強い恋人がいるなんて誤解されたら堪ったものじゃない。いらぬ詮索をされる前に、傷跡は隠したほうが良さそうだ。大袈裟に反応する千晃を見て、ウィリアムは目を細めながら耳元で囁いた。


「まあ、執着心の強い男が傍にいるというのは事実だけどね。アキのことは誰にも渡すつもりはない」


 甘い言葉に、ばくんと心臓が跳ね上がる。顔が熱くなるのを感じながら、跳びはねるように距離を取った。


「単に血が欲しいだけだろ!」


 ぶっきらぼうに言い放つと、ウィリアムが声を押し殺しながら笑っていた。どうにも良いように弄ばれているように思えてならない。これ以上揶揄われないためにも、売り場の隅に移動した。


 しばらくむくれていると、会計を済ませたウィリアムに声をかけられる。


「それじゃあ、次の場所に行こう」


「ん」


 千晃はウィリアムに続いて店を出た。

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