第4話 月下の出会い

 食事を終えた後は、台所に食器を運んで皿洗いを済ませた。トヨからはそのままで良いと言われたが、放っておくのは忍びない。書生としてやって来たのだから、家の雑用もできる限りこなさなくては。


(それにしても立派な台所だなぁ)


 千晃は台所を見渡しながら圧倒されていた。瓦斯がす式の調理器具や氷で食材を冷やす冷蔵庫など、最新鋭の設備が揃っている。こんなものは千晃の実家にはなかった。改めて裕福な家にやって来たことを思い知らされた。


 皿洗いを済ませた後は、風呂に入ることにした。浴槽に浸かると、疲れがじんわりと取れていく。長旅で疲れた身体が癒されていった。


 浴槽の湯を半分抜いてから、石鹸で身体を洗う。用意された石鹸は、トヨが言っていた通り上品で心地よい香りだった。


 着流しに袖を通した後も、石鹸の残り香が漂っている。癒されるのは間違いないが、ここまでする必要があるのだろうか?


 用意されていたクリームを恐る恐る手の甲に塗ってみると、肌が滑らかになった。身を清めて、香りづけをされて、肌を整えて……もしやこれから怪物にでも食べられるのではないかと身震いした。


(いや、そんなはずないか)


 馬鹿馬鹿しいと呆れながら、浴室から出た。


 湯に長く浸かり過ぎたせいで、身体が火照っている。夜風にあたるため、中庭に出た。


 ふわりと風に包まれると、火照った身体が冷えていく。大きく息を吸い込んで、身体の中に新鮮な空気を取り込んだ。


 夜空を見上げると、上弦の月が朧げに浮かんでいる。淡い月灯りが、瑛国式の庭園を照らしていた。


 月を見上げながらぼんやりしていると、カラカラと窓が開く音が聞こえる。振り返ると、洋装の若い紳士が佇んでいた。


 柔らかそうな金糸雀色かなりあいろの髪に、紅玉のような瞳。異国の血を引いているせいか、目鼻立ちがはっきりとしている。肌は雪国育ちの千晃よりも白く、透明感があった。年齢は二十代半ば、あるいは三十代にも見える。


 西洋の絵画から抜け出してきたような美麗な男だ。浮世離れした存在を見て、千晃は息の仕方を忘れた。


 男は肩に羽織っているロングケープを靡かせながら、こちらに近寄ってくる。ケープの下には、仕立ての良い三つ揃いのスーツを纏っていた。細身のズボンから伸びる足は、驚くほど長い。地面を踏みしめる一歩が大きく、あっという間に千晃の目の前まで辿り着いた。


 目の前に来ると、背の高さが際立つ。千晃とは頭一つ分くらいは違うだろう。紅玉の瞳は、じっとこちらを見据えていた。


 何か言わなければと頭では分かっているが、言葉が出てこない。それくらい目の前の男に見入っていた。


「アキ?」


 柔らかい言葉が紡がれる。千晃は声を発することもできず、こくんと頷いた。


 男は目を見開きながらこちらを凝視している。しばらく沈黙が続いた後、男は脱力したように息を吐いた。一度視線を落として俯いた後、もう一度千晃と向き合う。再び目があった時、男は肩を震わせて笑っていた。


「驚いた。まさか君のような子が来るなんてね。向こうの家が頑なに会わせなかった理由が分かったよ」


 なぜ笑われているのか分からない。拒絶されているわけではないことは、口調や表情から伝わって来るが、何か誤解があったような言い方だ。


「僕では、いけませんか?」


 不安を滲ませながら尋ねると、男は千晃と距離を縮めた。身構えていると、大きな手が千晃の頭に置かれた。


「いや、問題ない。君を迎えたのは、子を成すためではないからね」


 子を成すなんて、どうしてそんな話が出てくるのだろうか? 疑問に思っていると、男は千晃の頭から手を離す。一歩退くと、胸に手を当てながら紳士的に微笑んだ。


「私はウィリアム・エイデン。貿易業を営む傍ら、小説を書いている」


 小説の話題が出ると、ぼんやりとしていた千晃の思考が動き出す。


「あの、僕、先生の本が大好きで、ずっと愛読しておりました」


「ああ、昼間に君の話を聞いて驚いたよ。この国にも私の本を愛してくれている人がいたなんてね」


 穏やかに微笑みかけられる。美しい笑顔を目の当たりにして、胸の奥が狭まる感覚になった。


「ありがとう。好きになってくれて」


 ウィリアムの言葉が、肌を撫でるように伝わってくる。憧れの作家と対面している事実を認識すると、緊張が増した。


 煩いほどの心音を感じながら見上げていると、ウィリアムの薄い唇の端から鋭い犬歯が覗いていることに気付く。心なしか、最初に対面した時よりも目立っているように思えた。


「おいで」


 言われた通り距離を縮めると、不意に抱き寄せられた。逞しい胸板にこつんと頭をぶつける。突然の出来事に驚いていると、ウィリアムは千晃の耳元で囁いた。


「君の家が隠し事をしていたように、こちらにも隠し事があるんだ。本当はもう少し打ち解けてから明かそうと思ったが、君を見ていたら我慢できなくなってしまった」


 耳元に吐息が触れて脳が痺れる。腰が抜けそうになってよろけると、ウィリアムに支えられた。顔を上げると、熱を帯びた瞳に見下ろされている。


 その場から動けずにいると、驚くべきことが起きた。ウィリアムが千晃の着物の合わせを左右に開いた。着物はあっさりと剥がされ、肩まで露出させられる。


「なっ……」


 初対面の相手に脱がされて、羞恥心で燃え上がる。敷地内とはいえ、ここは野外だ。何が起きているのか分からず固まっていると、ウィリアムの唇がやんわりと弧を描いた。


「貿易商にロマンス作家。どちらも私の肩書だが、それだけではないんだ」


 唇の端から覗く犬歯は、先ほどよりも伸びている。真っ赤な舌がチロリと唇の端を舐めた。


 その直後、ウィリアムは再び千晃を抱き寄せる。身を強張らせていると、耳元で低い声が響いた。


「私はヴァンパイアだ。この国の言葉でいえば、吸血鬼だね」


 吸血鬼。以前本で読んだことがある。人の生き血を啜る西洋の鬼だ。


 目の前の男が吸血鬼というのは信じがたい。理解が追い付かずに固まっていると、ウィリアムの指先が千晃の首筋を這った。羽でくすぐられたような触れ方をされて、肌が粟立つ。


「私が花嫁を迎えたのは、血を分けてもらうためだ」


 花嫁? 聞き返そうとした瞬間、肩口に顔を埋められた。


「早速頂くよ」


 次の瞬間、首筋に痛みが走る。鋭い牙で肉を抉られた。耐え切れず、千晃は叫んだ。


「ああああぁぁ――っ」


 突き放したくても身体に力が入らない。ウィリアムに支えられて何とか立っている状態だ。反射的に涙が滲む。このまま化け物に喰い殺されるのではないかと想像した。


 痛みに襲われ絶望の淵にいたが、次第に違った感覚に支配される。全身の血が首筋に集まっていくような、ゾクゾクとした刺激を感じた。それは痛みや苦しさとは異なり、快楽にも似た感覚だ。


「ああっ……なに、これ……」


 ウィリアムの柔らかな髪が頬に触れる。そんな淡い刺激さえも快楽を増長させる材料になった。千晃は固く目を瞑りながら、事が済むのを待った。


 気が遠くなるほど長い時間が過ぎる。そうこうしている間に、視界がぼやけて意識が薄れていった。


(駄目だ……。意識が飛ぶ……)


 血を吸われ過ぎたせいだろうか? 限界が近付き、千晃は意識を手放した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る