第3話 噛み合わない会話
ウィリアム・エイデン氏に扉越しで挨拶を済ませた後、千晃は部屋に戻ってオリビアの本を手に取った。表紙に書かれたタイトルを指先でなぞりながら、感嘆の溜息を漏らす。
(憧れの作家が隣の部屋にいるなんて信じられない……)
まだ顔すら合わせていないのに、心臓の高鳴りが抑えられなかった。
オリビアの書く物語は、ロマンス小説だ。千晃の愛読していた本は、魔女と恐れられて塔に監禁されていた姫を、隣国の王子が連れ出す場面から始まる。
愛を知らない姫が、王子の優しさに触れて愛を知っていく場面には胸が熱くなった。想いが通じ合って身も心も結ばれる描写は、
そして王子の紳士的な所作にも、強く興味を惹かれた。屋敷に入る時にさりげなくドアを押さえたり、町を歩く時は道路側を歩いたりと、行動の端々に気遣いが見られる。そういう振る舞いをする人は、周りにはいなかったから新鮮だった。
自らの行動の手本となる人物が隣の部屋にいるのだから、浮かれてしまうのも無理はない。
(早く会いたいな。どんな人だろう?)
ウィリアム・エイデン氏については、顔はおろか年齢すら知らない。知っているのは、瑛国出身の貿易商という表面的な情報だけだ。だからこそ想像ばかりが膨らんでいく。
(もしかしたら、白髭とシルクハットが似合うような紳士かもしれないな)
貿易商として財を成しているのだから、それなりに年齢は重ねているだろう。優しい人ならいいなと、想像を膨らませていた。
◇◆
日が暮れる頃に、トヨから夕食の支度ができたことを知らされた。本に夢中になっていて手伝いができなかったことを詫びると、「アキさんにお手伝いさせるなんてとんでもない」と恐縮されてしまった。
書生として世話になるのだから、野菜の皮むきでも皿洗いでも任せてくれればいいものの、トヨからは雑用を頼まれることはなかった。不自然に思いつつも、初日だから遠慮されているのだろうと解釈した。
一階のダイニングに向かうと、テーブルには豪華な食事が並んでいた。その中でも目に留まったのは、厚切りのステーキだ。こんなご馳走は今まで食べたことがない。まるで晩餐会でも始まるような献立だ。
「凄く豪華ですね……」
「今日はアキさんがいらっしゃる日ですからね。腕によりをかけて作らせていただきました」
ここまでもてなされるとは思わなかった。テーブルの前で固まっていると、トヨから座るように促される。
「ささ、席に着いてください。旦那様からは先に召し上がっているようにと言われているので」
「はい……」
トヨに見守られながら、千晃は椅子に腰かけた。
皿の左右には、ナイフとフォークが並んでいる。テーブルマナーは、本を通して知っていたが、実践するのは緊張する。ぎこちない動きで、外側に置かれたスプーンを手に取った。
スプーンを持つ手が震えている。千晃が緊張しているのを察してか、トヨは笑顔を浮かべながら助言した。
「今夜は旦那様もいらっしゃらないことですし、あまりマナーにはこだわらず、楽にして召し上がってください」
トヨの優しさが心に沁みる。千晃の表情も自然と和らいだ。
「さあ、冷めないうちにお召し上がりください」
「はい。いただきます」
深いスプーンですくって、スープを口に運ぶ。温かなスープが喉を通ると、ほっと心が安らいだ。
「とても美味しいです」
素直に感想を伝えると、トヨは目尻にシワを作って穏やかに微笑んだ。
「それは何よりです」
温かな料理に、優しい笑顔。食事の時間を楽しいと感じたのは初めてだ。改めて帝都に来て良かったと感じた。
食事を続けていると、割烹着を脱いだトヨが台所から出てくる。
「私はそろそろお暇しますね。旦那様のお食事はお部屋に運んでおりますので、アキさんのお手を煩わせることはありません。食器も台所においていただければ、明日来た時に片付けますので」
事務連絡をしながら帰り支度をするトヨを見て、千晃は困惑する。
「トヨさんは、こちらの屋敷に住み込みで働いているわけではないのですか?」
「ええ、私は通いで働かせてもらっています」
「そう、なんですね……」
てっきりトヨも千晃と同じく住み込みで働いているものだと思っていた。トヨがいなくなるということは、夜はウィリアム・エイデン氏と二人きりで過ごすということだ。
緊張と心細さが相まって、千晃の表情が曇る。そんな変化にトヨも気付いた。
「不安そうなお顔をなさらないでください。近々、住み込みでお手伝いしてくださる方もいらっしゃると聞いているので、それまではご辛抱ください。……それに、初夜は二人きりの方がよろしいでしょう?」
最後の方はどこか恥じらうように声を潜めていた。
(初夜?)
確かにこの屋敷で世話になるのは今日が初めてだが、初夜と呼ぶのは違和感がある。理解が追い付かずにいると、トヨは話を進めていく。
「お風呂の支度も済ませてありますので、食事が終わったらお使いください。香りが良いと評判の石鹸とクリームもご用意していますので」
「ありがとう、ございます……」
風呂の支度だけならまだしも、石鹸や化粧品まで用意されているのは待遇が良すぎる気がする。戸惑いながらもお礼を伝えると、トヨは穏やかに微笑みながら荷物を手に持った。
「素敵な夜になると良いですね」
「はあ……」
どこか会話が噛み合っていないと思いつつも、千晃はトヨを見送った。玄関の扉が閉まると、途端に屋敷の中が静かになった。千晃は残りの食事を頂きながら、ぼんやり考える。
(旦那様はまだお仕事中か? 邪魔したら悪いから、直接ご挨拶するのは明日の朝にするか)
本来であれば、その日のうちに顔を合わせて挨拶するのが筋だろうが、集中しているところを邪魔するのは申し訳ない。明日の朝一番に挨拶することに決めた。
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