第2話 憧れの人
千晃は地図を頼りにウィリアム・エイデン氏の屋敷に訪れた。板張りの白い外壁に、深緑色の天然ストレート葺きの屋根。塔屋の付いた木造二階建ての洋館だ。
屋敷の周りは薔薇園が広がっている。今はまだ蕾だけど、あとひと月ほど経てば開花するだろう。庭園の薔薇が一気に開花したら、さぞかし美しい光景になるに違いない。
流石は異国の貿易商の屋敷というべきか、豪華な佇まいだ。あまりに立派だから中に入るのを憚られる。門の前で立ち尽くしていると、玄関の扉が開いた。
「あら?」
屋敷の中から出て来たのは、着物に割烹着を合わせた白髪交じりの女性だ。千晃の存在に気付くと、「まあ、まあっ」と声を弾ませた。小走りで駆け寄ってくると、にっこりと微笑みかけられる。
「もしかして、アキさん?」
アキ。そのように呼ばれたことはないが、
「はい、今日からお世話になります」
緊張感を纏いながら挨拶する。正直、女性と関わるのは苦手だ。幼い頃から梨都子に虐げられてきたせいで、女性は怖いものという印象を植え付けられてきた。千晃がいつまでも頭を下げていると、目の前の女性は慌てたように声を上げる。
「お顔をあげてください。いいんですよ、そんなにかしこまらないで」
一呼吸おいてから顔を上げると、女性は人の良さそうな笑顔を浮かべていた。その笑顔で、緊張が少し和らぐ。
「私は、こちらでお手伝いをしているトヨと申します。御用があれば何なりとお申し付けくださいね」
手伝いをしているということは、書生である千晃の仕事仲間にあたりそうだ。屋敷でのしきたりは、彼女から教わることになるのだろう。
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
挨拶を済ませると、トヨは笑顔を浮かべたまま千晃をまじまじ見つめていた。
「あの……何か?」
「あっ、申し訳ございません。少し驚いたものですから」
「驚いた?」
「ええ、まさか男性がいらっしゃるとは思いませんでしたから。……これもお国柄でしょうか?」
「はい?」
千晃は瞬きを繰り返す。トヨの反応から、屋敷にやって来るのは女学生だと勘違いされていたのかもしれない。事情がなんにせよ、ここで帰されたら困る。帰る家などもう存在しないのだから。
「男では、いけませんか?」
遠慮がちに尋ねると、トヨは大きく首を振った。
「とんでもございません! 愛に性別は関係ありませんからね」
「愛?」
随分壮大な話になってきた。戸惑いを隠せずにいると、トヨは下駄を鳴らしながら玄関へ向かった。
「ささっ、立ち話もなんですから、中へお入りください。屋敷を案内します」
「はい。よろしくお願いいたします」
かしこまった返事をしてから、千晃はトヨに続いて屋敷に入った。
◇◆
予想はしていたが、屋敷の中も相当豪華だ。掃除もきちんと行き届いており、板張りの床は、照明が反射して輝いている。下駄のまま上がるのが申し訳なくなった。
ざっと見渡した限り、一階にはタイニングと応接間があるようだ。ダイニングには八人掛けのテーブルセットがあり、天井には鈴蘭の形をしたランプが吊るされていた。
応接間には、布張りのソファーがローテーブルを囲むように並んでいる。重厚感溢れる雰囲気で、客人を通すにはちょうど良さそうだ。
応接間の奥には、中庭に面しているサンルームがある。こちらにも二人掛けのテーブルセットが置かれていた。窓の外からは、柔らかい光が差し込んでいる。この場所で読書でもしたら気分がいいだろう。
豪華な内装に見惚れてしまったが、書生として世話になるのだから自由に振舞えるわけではない。失礼にならないように、大人しく過ごさなければ。
「アキさんのお部屋は二階にご用意しております。ご案内しますね」
「はい」
トヨの後に続いて螺旋階段を上る。二階には三つの部屋があった。
「正面の部屋は、旦那様の寝室兼書斎です。右手の部屋がアキさんのお部屋になります」
トヨは扉を開けて、中に入るように促す。案内されるまま、部屋に足を踏み入れた。
簡素な部屋を与えられると思いきや、部屋の中も想像以上に豪華だ。床には小花柄の赤い絨毯が敷かれており、歩くたびにふかふかとした感触が伝わってくる。下駄ではなく素足で歩いたほうが気持ちが良さそうだ。
部屋には一人掛けのソファーが二つと、立派な鏡台が置かれていた。鏡の前が机になっているから、この場所で勉強できそうだ。壁際には本がぎっしり収まった棚がある。
「必要なものがあれば、お申し付けくださいね。すぐにご用意いたします」
「ありがとうございます……」
まるで客人のような扱いをされて困惑する。こんなに優遇してもらえるとは思わなかった。呆然としながら部屋を見渡していると、トヨから微笑みかけられる。
「旦那様のお仕事が終わるまでは、こちらのお部屋でお待ちくださいませ」
「旦那様は外出されているのですか?」
「いえ、書斎にいらっしゃいますが、お仕事中に声をかけられるのを嫌う方なので、ご挨拶は終わってからがよろしいかと」
ウィリアム・エイデン氏の人柄は分からないが、トヨの言い方から気難しい性格だと予想できる。ここは素直に従うとしよう。
「分かりました。お仕事が終わった後にご挨拶させていただきます」
「ご不便をおかけしてしまい、申し訳ございません。……そうだわ、お待ちいただいている間、本を読まれますか?」
「本? いいんですか?」
「ええ、本棚にあるものはご自由に読んでいただいて構いません」
トヨに促されて本棚を覗く。洋書だけでなく、児童書や婦人雑誌なども並んでいたが、千晃が興味惹かれるのはやっぱり洋書だった。本を選んでいると、見覚えのある背表紙を見つける。
「これ、オリビアの本じゃ……」
手に取って表紙を確認すると、やはりオリビア・アレンの本だった。千晃が持ち歩いている本と同じだ。驚いていると、トヨから衝撃的な事実を聞かされた。
「こちらの本は旦那様が書かれたものですよ。貿易業を営む傍ら、小説家としてもご活躍されております」
「ええ!?」
まさかそんな偶然があるのか? これから世話になる屋敷の主人が、オリビア・アレンだなんて。
「オリビア・アレンって女性なんじゃ……」
千晃は、オリビア・アレンを女性作家だと思っていた。オリビアは女性名だし、書いているのも女性向けのロマンス小説だ。心理描写が繊細で美しく、女性的な表現だと感じていた。
「作品のイメージを損ないたくないから、性別を偽っていると仰っていました」
「そう、なんですね」
作家が性別を隠すのは珍しいことではない。作品の印象を壊さないようにあえて性別を偽ることもある。男性が書いていたとしてもイメージが崩れるというわけではないが、少し見え方が変わってくるような気もした。
オリビア・アレンが男性だったという事実も衝撃的だが、それ以上に屋敷の主人が憧れの作家であることの方がよっぽど衝撃的だ。大好きな作家が、同じ屋敷にいる。その事実を認識すると、胸の高鳴りを抑えきれなかった。
「あの、トヨさん!」
「はい、なんでしょう?」
柔らかな笑顔で尋ねられる。こんなことを言ったら図々しいと思いつつも、衝動は抑えられなかった。
「旦那様とほんの少しだけお話することはできませんか? 僕、オリビア・アレンの本が大好きで、一言だけでもお話できれば」
「まあ、旦那様のファンだったのですね!」
仕事の邪魔をしてはならないと咎められるかと思いきや、トヨは千晃の想いを汲み取ってくれた。
「そう言うことでしたら、ぜひお声がけしてください。その方が旦那様のお仕事も捗るでしょうから」
トヨから許可を貰えて感情が昂る。これから憧れの作家と言葉を交わすことができると考えると高揚感に包まれた。
トヨに続いて部屋を出て、扉の前に立つ。心を落ち着かせるように深呼吸していると、トヨが書斎の扉を叩いた。
「お仕事中、申し訳ございません。アキさんがいらっしゃいました」
トヨは弾むような声で伝える。部屋の中からは返事がなかった。声をかけられたことが不快だったのではと想像してしまう。視線を落としていると、トヨは不安を吹き飛ばすような明るい笑顔を浮かべた。
「いつものことなのでご心配なく。旦那様は一度集中すると、声をかけても反応がないので」
「そう、なんですね」
「ええ。ですが、こちらの話はちゃんと聞いてはいるはずです」
トヨは千晃の肩に手を置くと、扉の前に寄るように促した。
「アキさん、旦那様のご本のファンなんですって。一言ご挨拶がしたいそうですよ」
千晃が固まっていると、トヨから「どうぞ」と促された。
憧れの作家に話しかけるのは緊張する。だけど、それ以上の喜びがあった。千晃は、高鳴る胸を押さえながら思いの丈をぶつけた。
「突然こんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、僕、先生のファンなんです。先生の著書は何度も読み返しました」
大袈裟などではない。息苦しい屋敷の中では、あの本だけが救いだった。心が折れそうになった時も、あの本に書かれていた言葉を思い出すだけで励まされた。
美しく愛のある言葉は、心の拠り所だった。だからこそ、伝えたいことがある。
「大好きです。貴方の傍にいられることを幸運に感じております」
溢れ出した感情を、言葉に乗せて伝える。感極まって涙が滲んできた。
部屋の中からは依然として返事がない。反応が読めなかった。やっぱり迷惑だったかと肩を落としていると、トヨがもう一度肩に触れた。
「大丈夫ですよ。旦那様にはちゃんと伝わっているはずです」
振り返ると、トヨは目尻にシワを寄せながら優しく微笑んでいた。その笑顔で不安が薄れていく。
「はい」
安堵から千晃も柔らかく微笑み返した。
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