異国の吸血鬼は偽花嫁に愛を捧げる

南 コウ

第一章 予期せぬ血婚生活の幕開け

第1話 桜舞う異人館街

 帝都の桜は、故郷よりひと月ほど早く咲く。話には聞いていたが、実際に目にすると不思議な感覚になった。


「もう、雪じゃないのか……」


 千晃ちあきは着物のたもとを揺らしながら、細い腕を持ち上げる。手を伸ばした先には、八分咲きのソメイヨシノがあった。


 北の地にある故郷の函方はこがたは、四月初旬でも冬の空気に包まれている。庭先に植えられた桜の枝は、白銀の雪で覆われていた。春の訪れは、まだ遠く感じる。


 一方、帝都の桜は、雪ではなく薄紅色の花びらで覆われていた。頬を撫でる風は暖かくて心地よい。同じ国にいるはずなのに、まるで異国を訪れた気分にさせた。


 そう思わせるのは気候の違いだけではない。洋館が立ち並ぶ町並みも、海の向こうにある国を彷彿させた。


 千晃が佇んでいるのは、異人館街にある洋式公園。ソメイヨシノが花開く先では、洒落た洋館が立ち並んでいた。


 近代化の波が押し寄せて、異国の文化が浸透する時世でも、外国人居留地であるこの地区は、ひと際異国の趣を感じさせた。


 とはいえ、千晃にとっては異国情緒溢れる街並みは、それほど珍しいものではない。港の赤レンガ倉庫も、鐘塔のある教会も、坂の多い地形も、故郷の函方とよく似ていた。そのせいか初めて訪れる場所だというのに、あまり心細くはない。


 公園には洋装をしている人々が闊歩している。着古した藍色の袴を纏った千晃は、周囲から浮いていた。


 みすぼらしいのはいつものことだ。千晃は小さく溜息をつきながら、自身の境遇を振り返った。


◇◆


 千晃は、函方では名の知れた商家の長男として生まれた。父の晃久あきひさは、一代で財を成したやり手の経営者だ。頭の回転が早く、先見の明も備わっていた。


 晃久は仕事に情熱を注ぐ一方、家庭にはほとほと無頓着な男だった。家のことにはほとんど口出しをせず、屋敷にいることすら珍しかった。


 晃久が仕事にのめり込むようになったのは、最愛の妻である千世ちよを亡くしたことがきっかけだ。千世は、千晃を出産すると同時にこの世を去った。もともと身体の弱かった千世は、出産の負荷に耐えきれず、生まれてきた我が子を一度も抱くことなく息を引き取った。


 それから一年足らずで、晃久は後妻として梨都子りつこを迎えた。いつだったか使用人が噂をしていたが、花嫁としてやって来た梨都子は女学校を卒業したばかりの見目麗しい令嬢だったそうだ。


 しかし美しい妻を迎えても、晃久の心には前妻しか存在していない。形ばかりの結婚だ。梨都子は、幼い千晃を育てるためだけに迎えられた。


 梨都子も愛されて迎えられたわけではないことは自覚していた。それでも夫である晃久の気を引こうと必死に努力していた。


 身なりを整え、夫の好物をこしらえ、妻としての役目を果たそうとした。しかしいくら努力をしても、前妻である千世を越えることはできなかった。


 晃久にとっては千世が最愛の人だ。死別しても、その事実が覆ることはない。梨都子にとっては屈辱的な状況だったに違いない。


 そんな苛立ちや無力感は、前妻の忘れ形見である千晃にぶつけられた。梨都子から虐げられるのは日常茶飯事。ヒステリックに暴言を吐かれ、使用人以下の扱いを受けていた。


 梨都子から強く当たられたのは、千晃の容姿も影響している。千晃は、千世の面影を色濃く残していた。


 雪のような白い肌に、色素の薄い大きな瞳。濡羽色の髪は、女性にも引けを取らないほど艶やかで美しかった。整った容姿も、梨都子を苛つかせる要因となった。


 千晃が十四歳の頃、梨都子からこう言われたことがある。


『あんたの顔を見ていると惨めな気分になる。千晃という名前も大嫌い。さっさと大人になって私の前から消えてちょうだい』


 ヒステリックに泣き叫びながら浴びせられた言葉に、胸が押しつぶされた。自分の存在を否定されたのも辛い。だけどそれ以上に、梨都子の心情を想像すると余計に辛くなった。


『ごめんなさい』


 千晃は畳に額を擦り付けながら、謝ることしかできなかった。


 梨都子の要望通り、高等学校卒業後は家を出ることを決めた。当初は働きに出るつもりだったが、教師の勧めもあり、大学進学することになった。


 千晃自身も、勉強することは好きだ。特に瑛文学に関心があった。


 異国の言葉に興味を持つようになったきっかけは、一冊の小説だ。瑛国のロマンス小説家、オリビア・アレンの小説を読んだことで興味を持った。


 オリビアの本は、父の仕事仲間から譲り受けた。翻訳はされておらず、原文のままだったため、一目見ただけでは内容を理解できなかった。それでも流れるような美しい文字に心惹かれ、瑛和辞典を頼りに冒頭の一節を翻訳した。


 一単語ずつ辞書を引きながら、意味を帳面に書きこむ。一つひとつを解読する作業は容易ではなかったが、好奇心に駆られて辞書をめくった。


 すべての単語の意味を書き出してから、言葉を繋ぎ合わせる。一節の言葉の意味を知った時、千晃は雷に打たれたような衝撃を受けた。


『私の人生における最大の幸福は、すべてを捧げられるほど愛する人に出会えたことだ』


 情熱的な言葉に胸を打たれる。ずっと胸に秘めていた願望が、言語化されたような気がした。


 幼い頃から、誰からも愛されずに育ってきた。そういう星のもとに生まれたのだから仕方ないと諦めていたが、本心は違う。


 本当は誰かに愛されたかった。そして自分も、すべてを捧げても構わないと思えるほど誰かを愛したかった。


 冒頭で心を掴まれた千晃は、瑛和辞典を頼りに物語を読み進めた。心温まり、時には涙しながら物語の世界に浸っていく。最後まで読み切った時、言いようもない達成感を得た。


 一冊読み切った頃には、オリビアのファンになっていた。彼女の本がきっかけで、千晃は異国の言葉に興味を持つようになった。


 異国の言葉を勉強すれば、オリビアの本をたくさん読める。そんな思いから、帝都大学 文学部 瑛文学科への進学を志望した。


 受験勉強は容易ではなかったが、どうにか合格を掴んだ。その後、父の伝手で書生として世話になる家が決まった。瑛国の貿易商、ウィリアム・エイデン氏の屋敷だ。


  書生とは、他家に住まい雑用をこなしながら勉学に励む若者のことだ。地方出身の学生にとっては珍しいことではないが、異国の主人のもとで暮らすというのは稀だった。言葉の壁や文化の違いから、生活に不便が生じることが目に見えているからだ。


 千晃だって不安がないわけではない。だけど異国の文化に触れられることには興味があった。言葉の上達も早くなるに違いない。


 実際には進学を理由に体よく家から追い出されたのだが、今更嘆くことはない。むしろ窮屈な家から離れられてせいせいしていた。


 故郷には、もう二度と戻るつもりはない。帝都で新たな人生を切り開くのだ。


 千晃は斜め掛けの鞄からオリビアの本を取り出す。ページをめくり、冒頭に書かれている一節を黙読した。


(見つけられるといいな)


 僅かに頬を緩めてから、パタンと本を閉じる。淡い期待を抱きながら公園を飛び出して、異人館街の坂を登った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る