異国の吸血鬼は偽花嫁に愛を捧げる
南 コウ
第一章 予期せぬ血婚生活の幕開け
第1話 桜舞う異人館街
帝都の桜は、故郷よりひと月ほど早く咲く。話には聞いていたが、実際に目にすると不思議な感覚になった。
「もう、雪じゃないのか……」
北の地にある故郷の
一方、帝都の桜は、雪ではなく薄紅色の花びらで覆われていた。頬を撫でる風は暖かくて心地よい。同じ国にいるはずなのに、まるで異国を訪れた気分にさせた。
そう思わせるのは気候の違いだけではない。洋館が立ち並ぶ町並みも、海の向こうにある国を彷彿させた。
千晃が佇んでいるのは、異人館街にある洋式公園。ソメイヨシノが花開く先では、洒落た洋館が立ち並んでいた。
近代化の波が押し寄せて、異国の文化が浸透する時世でも、外国人居留地であるこの地区は、ひと際異国の趣を感じさせた。
とはいえ、千晃にとっては異国情緒溢れる街並みは、それほど珍しいものではない。港の赤レンガ倉庫も、鐘塔のある教会も、坂の多い地形も、故郷の函方とよく似ていた。そのせいか初めて訪れる場所だというのに、あまり心細くはない。
公園には洋装をしている人々が闊歩している。着古した藍色の袴を纏った千晃は、周囲から浮いていた。
みすぼらしいのはいつものことだ。千晃は小さく溜息をつきながら、自身の境遇を振り返った。
◇◆
千晃は、函方では名の知れた商家の長男として生まれた。父の
晃久は仕事に情熱を注ぐ一方、家庭にはほとほと無頓着な男だった。家のことにはほとんど口出しをせず、屋敷にいることすら珍しかった。
晃久が仕事にのめり込むようになったのは、最愛の妻である
それから一年足らずで、晃久は後妻として
しかし美しい妻を迎えても、晃久の心には前妻しか存在していない。形ばかりの結婚だ。梨都子は、幼い千晃を育てるためだけに迎えられた。
梨都子も愛されて迎えられたわけではないことは自覚していた。それでも夫である晃久の気を引こうと必死に努力していた。
身なりを整え、夫の好物を
晃久にとっては千世が最愛の人だ。死別しても、その事実が覆ることはない。梨都子にとっては屈辱的な状況だったに違いない。
そんな苛立ちや無力感は、前妻の忘れ形見である千晃にぶつけられた。梨都子から虐げられるのは日常茶飯事。ヒステリックに暴言を吐かれ、使用人以下の扱いを受けていた。
梨都子から強く当たられたのは、千晃の容姿も影響している。千晃は、千世の面影を色濃く残していた。
雪のような白い肌に、色素の薄い大きな瞳。濡羽色の髪は、女性にも引けを取らないほど艶やかで美しかった。整った容姿も、梨都子を苛つかせる要因となった。
千晃が十四歳の頃、梨都子からこう言われたことがある。
『あんたの顔を見ていると惨めな気分になる。千晃という名前も大嫌い。さっさと大人になって私の前から消えてちょうだい』
ヒステリックに泣き叫びながら浴びせられた言葉に、胸が押しつぶされた。自分の存在を否定されたのも辛い。だけどそれ以上に、梨都子の心情を想像すると余計に辛くなった。
『ごめんなさい』
千晃は畳に額を擦り付けながら、謝ることしかできなかった。
梨都子の要望通り、高等学校卒業後は家を出ることを決めた。当初は働きに出るつもりだったが、教師の勧めもあり、大学進学することになった。
千晃自身も、勉強することは好きだ。特に瑛文学に関心があった。
異国の言葉に興味を持つようになったきっかけは、一冊の小説だ。瑛国のロマンス小説家、オリビア・アレンの小説を読んだことで興味を持った。
オリビアの本は、父の仕事仲間から譲り受けた。翻訳はされておらず、原文のままだったため、一目見ただけでは内容を理解できなかった。それでも流れるような美しい文字に心惹かれ、瑛和辞典を頼りに冒頭の一節を翻訳した。
一単語ずつ辞書を引きながら、意味を帳面に書きこむ。一つひとつを解読する作業は容易ではなかったが、好奇心に駆られて辞書をめくった。
すべての単語の意味を書き出してから、言葉を繋ぎ合わせる。一節の言葉の意味を知った時、千晃は雷に打たれたような衝撃を受けた。
『私の人生における最大の幸福は、すべてを捧げられるほど愛する人に出会えたことだ』
情熱的な言葉に胸を打たれる。ずっと胸に秘めていた願望が、言語化されたような気がした。
幼い頃から、誰からも愛されずに育ってきた。そういう星のもとに生まれたのだから仕方ないと諦めていたが、本心は違う。
本当は誰かに愛されたかった。そして自分も、すべてを捧げても構わないと思えるほど誰かを愛したかった。
冒頭で心を掴まれた千晃は、瑛和辞典を頼りに物語を読み進めた。心温まり、時には涙しながら物語の世界に浸っていく。最後まで読み切った時、言いようもない達成感を得た。
一冊読み切った頃には、オリビアのファンになっていた。彼女の本がきっかけで、千晃は異国の言葉に興味を持つようになった。
異国の言葉を勉強すれば、オリビアの本をたくさん読める。そんな思いから、帝都大学 文学部 瑛文学科への進学を志望した。
受験勉強は容易ではなかったが、どうにか合格を掴んだ。その後、父の伝手で書生として世話になる家が決まった。瑛国の貿易商、ウィリアム・エイデン氏の屋敷だ。
書生とは、他家に住まい雑用をこなしながら勉学に励む若者のことだ。地方出身の学生にとっては珍しいことではないが、異国の主人のもとで暮らすというのは稀だった。言葉の壁や文化の違いから、生活に不便が生じることが目に見えているからだ。
千晃だって不安がないわけではない。だけど異国の文化に触れられることには興味があった。言葉の上達も早くなるに違いない。
実際には進学を理由に体よく家から追い出されたのだが、今更嘆くことはない。むしろ窮屈な家から離れられてせいせいしていた。
故郷には、もう二度と戻るつもりはない。帝都で新たな人生を切り開くのだ。
千晃は斜め掛けの鞄からオリビアの本を取り出す。ページをめくり、冒頭に書かれている一節を黙読した。
(見つけられるといいな)
僅かに頬を緩めてから、パタンと本を閉じる。淡い期待を抱きながら公園を飛び出して、異人館街の坂を登った。
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