17話
歩き始めて数分、コンビニの眩しい光を見た時、自然と安堵のため息がもれた。
中に入るなり、眠そうにあくびをしている店員に、唐揚げを頼む。その間、ちらちらと外に目をやった。
人影はなかった。当然、玄沢もまだ来ていない。
それから玄沢の車がコンビニの駐車場につくまでの数十分、時間がやけに長く感じられた。
「陽向!」
コンビニの自動ドアを押し開けるようにして、玄沢が入ってきた。
ダークスーツにネクタイ。早朝にしては、やけにきっちりとした格好だった。おろしたての白シャツがコンビニの蛍光灯の光の下、やけに鮮やかに映る。
「玄沢さんっ……!」
もつれる足で陽向は相手に駆け寄る。玄沢は伸ばされた陽向の腕をとると、自分の方へしっかりと引き寄せた。陽向の首の横で、声を潜める。
「大丈夫か? 姿は見たか?」
「ううん……でも、足音が……」
玄沢は頷いた。
「わかった。とにかく、ここから離れよう」
陽向は玄沢に手を引かれるまま、外へ出る。去り際、店員が「今のは何だったんだ」という目で見てきているのがわかった。
玄沢は助手席に陽向が乗ったのを確認すると、辺りを一瞥し、自らも運転席に乗り込んだ。
ブルル……と車が動き出す。
ここにきてようやく、陽向は指先まで体温が戻ってくるのを感じた。
車内は百合のような香りで満ちていた。見ると、白い大きな花束が後部座席にぽつん置かれていた。
「……ごめん……」
雪もようの道を車がしばらく走った頃、陽向は何とか言葉を絞り出した。
「もしかして、今日、何か予定があったとか……? そうだったら、何と言っていいか……」
玄沢のダークスーツを、ちらりと見る。フロントガラス越しに、玄沢と目が合った。
「それより、何がどうしてこうなったのか説明してくれ」
「それが……」
ここまでしてくれて、話さない訳にはいかなかった。
「海斗から連絡があったんだ」
ぴくりと玄沢の片頬が動く。
「いつ?」
「二時くらいかな? メールだけだけど、『たすけて』って」
陽向は信号待ちを見計らって、メール画面をかざして見せた。玄沢は眉をひそめ、
「で?」
と先を急かした。ペダルにおかれた足が苛立たしげに、貧乏ゆすりを繰り返している。
「で、アパートに行ったんだ。そこに海斗がいるような気がして。でもいなかった。その代わりに血が、床についてて……海斗のものかわからないけど。そしたらドアが——」
「お前は、一体、何をやっているんだ!?」
突然、車が道路の側溝に急停止した。玄沢がハンドルに拳を叩きつける。
「一体、何度言ったらわかるんだ!? カッとなって一人で動くなと、あんなに言っただろう!? 今日はたまたま無事で良かったが、犯人と鉢合わせしていたかもしれないんだぞ!」
「でも……」
「聞きたくない!」
玄沢が怒鳴った。
「どうして……どうしてメールがきた時点で、俺に連絡しなかった!?」
「よ、夜中で迷惑かと……」
「迷惑! 今こうしている方が迷惑だと思わないのか!」
玄沢の手が伸びてきた。胸倉を掴まれ、助手席のガラスに押しつけられる。おぼろげな街灯に照らされた玄沢の顔は、怒りで歪んでいた。
「どうして、お前はこうも俺をイライラさせるんだっ……! お前を見ていると時々、無性に殴りつけたくなる! わざとか、わざとやっているのかっ……! 」
玄沢はそれが陽向自身であるかのように、窓ガラスを拳で何度も殴りつけた。
「違っ——ただ俺は……」
距離を置きたかった。
玄沢のことが好きだとわかり、玄沢にとって自分は依頼人以外の何者でもないと知り、距離を置きたかった。
心の安定を取り戻すために。
いくら自分でも失恋したその日に、相手と平気な顔で会えるほど神経は図太くはない。
いたたまれず、視線を逸らす。すると後部座席の花束がまた視界に入ってきた。
百合。トルコキキョウ。かすみ草。白い花だけでつくられた大きな花束。
玄沢の黒いスーツに目を戻す。
(もしかして、今日は法事か何かだったのだろうか?)
さあっと血の気が引いた。パニックの波が頭を襲う。
「本当にごめんなさいっ……! 電話なんてするべきじゃなかった! 自分の勘違いだったかもしれないのに気が動転してて、思わず——」
「そういうことを言っているんじゃないっ! どうしてわからないんだっ……!?」
玄沢は窓ガラスに拳をつけ、顔を近づけてきた。
「俺はなぜ連絡せず、勝手に動いたんだと聞いているんだ……!」
「ご、ごめんな——」
「謝って欲しい訳じゃないっ! 理由を聞いているんだ!」
「理由って、理由なんか……」
好きだからに決まっている。
好きだから距離をおきたかったし、好きだから迷惑かけたくなかったし、好きだから危なくなった時思わず電話してしまった。
でもそんなこと、言えるはずない。
この気持ちは繭のまま、葬り去ると決めたんだ。
「…………」
頑なに押し黙っていると、玄沢の身体が離れた。
「……わかった」
一言いうと、玄沢は車を急発進させた。
車は、オレンジの街灯が灯る夜道を無言で走る。
陽向は潤みそうになる目に力を入れて、ただひたすら車窓を通りすぎる景色を見ていた。
車はアパートへとも事務所へとも違う、見慣れぬ道を走っていく。
「……どこに行くの?」
「…………」
「ねぇ、どこに——」
「お前は黙ってろ!」
玄沢の怒声が鼓膜を射る。
あの冷静沈着な玄沢とは思えない、怒りにまかせた声だった。
陽向は、泣き出したかった。
どうして自分は、好きな人をここまで怒らせてしまうのだろう。
虚しさと同時に、ほんの少しの怒りも湧いてきた。
自分だって、こんなことになってしまった理由は色々ある。
なのに、こんな頭ごなしに怒らなくてもいいじゃないか。
そもそも、自分は立派な大人の男だ。
何でも玄沢に許可を取らなくてはいけない義務はないし、自分の行動を何でもコントロール下におけると思っている玄沢は傲慢だ。
自分のやることが全て正しい、自分こそがこの世の全て(のゲイ?)を守っているヒーローだとでも思っているのだろうか。
思い上がりも甚だしい。
一瞬でも気を抜けば、泣き言か罵倒かが出てきそうで、陽向はグッと唇を噛みしめた。
冷え冷えとした沈黙で、車内が満たされる。それから車が止まるまでの間、陽向は今すぐここから逃げ出せるなら何だってすると、神に祈っていた。
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