16話


(一体、今更、海斗が何の用だ? まさか、謝るつもりじゃないだろうな。そんなことしても絶対に許さないけど!)

怒りのままに、メールボックスを開く。


『たすけて』


絵文字も句読点もない。慌てて打ったような一文。

さあっと血の気が引くのを感じた。


たいしたことない。こんなの、いつものことだ。どうせまた、窮地に立っているふりをして同情を誘い、許してもらおうという魂胆なのだ。

そう頭では理解していても、胸の動悸は不安で大きくなるばかりだった。


カチコチ。

どれくらい固まっていただろう。時計の音が、やけにうるさく感じる。

(……やっぱり、これはおかしい)


むくりとソファから身を起こした。

たとえ同情を誘うのが海斗のやり口だとしても、今までだったらメールなどではなく、直接会いに来ていたはずだ。自分や他の従業員にどんなに冷たい目で見られたとしても、懲りずに毎回、仕事場まで金をせびりに来ていたのが、そのいい証拠だ。


急いでスウェットを脱ぎ、カーディガンとチノパンに着替える。コートをひったくるようして着て、急いで外へ飛び出した。

駅前でタクシーを拾い、自分のアパートへ向かう。


他の場所は思い浮かばなかった。海斗がいるとしたら、ここだ。

一年間、奴と過ごしてきた直感がそう告げていた。

たとえここに海斗がいなかったとしたら、それはもう自分の範囲外。あとは警察に連絡して任せようと自分に言い聞かせる。


深夜料金を払い、タクシーを下りる。

急ぎ足でアパートの階段を登り、ポケットから鍵を取り出す。鍵穴を探す自分の手が小刻みに震えているのがわかった。


ガチャリ。

早朝三時の澄んだ空気に、鍵の開く音が大きく響く。

そおっとノブを回した。自分の家だというのに、なぜか緊張した。心臓がバクバクと鼓動を増す。


しーん。部屋の中は真っ暗だった。

海斗は電球まで持っていったのだろうか。剥き出しの窓から入る月光と、月光が雪に反射した淡い光だけが頼りだった。


目をこらして見る。

特に、何の物音も人影もなかった。


はあっと大きなため息をつく。どうやら杞憂だったようだ。

憤慨しながらも少し安心して、玄関のドアを締めようとした。その時、あるものが目に入った。


玄関から部屋にいたるまでの廊下に、なにやら染みのようなものが点々と落ちている。

(何だ、これ? 前に来た時はなかったよな?)


ドアを手で押さえながら、身を乗り出して見る。

黒だと思っていた染みは、赤かった。


——血だ!

ギョッと身を引く。アドレナリンが、一気に身体を駆け巡る。ドクドクと心臓が痛いほどに鳴る。


足でドアを留め、手を伸ばしてみた。血は乾ききっておらず、触れると指先にねばりのある赤い染みがこびれついた。まだ温かい。

少なくとも、一時間以内についたものだろう。

(まさか、これ、海斗の!?)


「……海斗、海斗っ!」

ドアを開けっ放しにしたまま、部屋に駆け上がった。血の痕は廊下だけで、あとはどこにもついていなかった。


「海斗!? 海斗!? どこかにいるのかっ!?」

一通り部屋の中を探し回ったが、海斗の姿も、手がかりになりそうなものも見つからなかった。暗い部屋の中、呆然と立ち尽くす。


バタン!

その時突然、ドアが閉まる大きな音が鋭く響いた。ビクリと肩が竦む。

恐る恐る振り返ると、玄関のドアが閉まっていた。


(風でずれたのか……?)

ドアを開ける。今は雪こそ降っているが、風はまったくなかった。ドアにはストッパーもかかっていたはずなので、風で閉まったにしてはおかしい。


ぞわりと、戦慄が足下から上がってくる。

気のせいかもしれないが、誰かに見られているような視線を感じた。

バクバクと、心臓が肋骨の中で暴れ回る。


陽向は外に飛び出すと、階段を下りながら急いで携帯を取り出した。震える指で、コールボタンを押す。


ルルルルルル……。

呼び出し音が、鼓膜を虚しく通り過ぎる。


(お願いだ! 出てくれ!)

朝の四時。普通の人であれば出るはずもない時間帯だ。そう思いながらも、願わずにはいられなかった。


閑静な住宅街の通りは、夜明け前の一番深い闇と静寂に満たされていた。

ヒタヒタヒタ……。

コール音にまじって、自分のものとは別の靴の音が後ろから聞こえてきた。それはまるで陽向の後をついてきているかのように、つかず離れずの距離から響いてくる。


陽向は携帯をギュッと耳に押しつけて、靴音が聞こえないふりをした。

(……お願い! お願いだ! 出てくれ!)

コールが数十秒続いたのち、プツリと音が切れた。絶望が、身体を駆け巡る。

その時。


「──はい」

低いしっかりとした声が、耳を包んだ。


「陽向か? どうした? 何かあったのか?」

「玄沢さん……」

ほっと安堵が全身に広がる。言葉にならない気持ちで、胸がいっぱいになった。


「玄沢さん……あの、俺……」

陽向の声に潜む緊張を察したのか、玄沢がゆっくり力強い声で言った。

「落ち着け。大丈夫だ。ゆっくりでいい。話してみろ」


冷静なその声に勇気づけられて、陽向は深呼吸をした。目だけで後ろの暗闇を確認する。

「笑わずに聞いてもらえると嬉しいんだけど……たぶん、俺、つけられている……」


電話の向こうで、玄沢が息を飲んだ。

「つけられている? 今、どこにいるんだ?」

「アパートの近く」


玄沢が眉を顰めたのが、声からだけでもわかった。

「お前、何でこんな時間にそんなところにい——」


玄沢は状況を思い出したのか途中で言葉を切ると、険しい声で続ける。

「いいか。今すぐ人のいるところに向かえ。アパートの近くにコンビニがあっただろう? そこに行け。後ろは見るな。走ったりもするな。歩いて——ただし早足で向かえ。コンビニについたら、何でもいい、店員に話しかけて一緒にいろ。絶対に一人で、離れたりするな。今すぐそっちに向かう」


電話越しに、玄沢が車のキーを取ったのがわかった。

「いいか、一端切るが、焦らず真っ直ぐコンビニに向かえ。わかったか?」

「わかった……大丈夫」

「いい子だ。じゃ、切るぞ」


プッと通話が切れた。陽向は携帯をまるでお守りのようにギュッと胸の前で握ると、言われた通り早足で歩く。

心臓が、これ以上ないほどの速いリズムを刻んでいた。


だが、不思議と頭は冷静だった。

玄沢の力強い声が、まだ耳の奥にこだましているからだろうか。


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