11話
パチリと目が覚め、伸びをして身体を起こす。数日ぶりに感じる健やかな目覚めだった。
横を見ると、折りたたみベッドの近くにはオイルヒーターが置かれていた。どうりで寒くないわけだ。
薄暗い部屋をカーテンからもれる朝の光が、ぼんやりと照らし出す。
家具らしきものは一切なく、直接床にオーディオや新聞、ファイル、本などが散らばっていた。寝室、というよりは仮眠室に近い雰囲気だ。
部屋の端にあるサイクリングマシーンだけが、唯一生活感を漂わせている。
陽向はそろりとベッドから抜けだし、裸足で部屋から出た。
隣の部屋は、二十畳ほどあるひと続きの広い空間だった。
大通りに面した窓側には、木製のデスクと資料棚。その右側には応接用のソファセットが置いてあり、デスクと応接間を観葉植物と籐製のパーティションが仕切っていた。
陽向は、一目でここが気に入った。
おしゃれとは少し違うが、田舎のおばあちゃんちのような温かみがあり、親近感が湧く。家具が木目調や自然素材のもので統一されているのも、居心地がいい。
視界の端で、もぞりと何かが動いた。見ると、茶革のソファの上にこんもりとした山ができている。山はスースーと音をたて、規則正しく上下を繰り返していた。
陽向は足音をたてないように、そっとソファに近づく。
思った通りの人物が、そこにはいた。
寒いのか玄沢は顔半分くらいまで毛布をかぶり、窮屈そうに身体を丸めて眠っていた。
まるで子供のような寝方に、くすりと笑みがこぼれる。ソファの前に膝をついて、しばらくの間眺めた。
どうやらここは、玄沢の探偵事務所で間違いなさそうだ。きっとあのあと、ここに連れてきてくれたのだろう。
(あ~! 本当っ、何であんなことになってしまったんだっ……!)
突然、昨日の出来事がぶり返してきて、自分の腕の中に顔を埋めた。
だが、気持ち良かったのも確かだ。それも、ものすごく。
おかげで身体も軽いし、頭もすっきりしている。腹の中にわだかまっていた怒りや失望なども、欲望とともに吐き出されてしまったらしい。
(……これはもう、荒療治だと思って割り切るしかない。お互いのためにも)
壁時計を見ると、五時半だった。今から出れば、一回ホテルに帰っても、仕事には間に合う。
陽向は置き手紙をソファ前のテーブルに置き、そろそろと部屋を出ようとした。
「……どこへ行くんだ?」
もぞりと山が動いたと思ったら、ソファの上で玄沢が寝返りをうっていた。毛布から顔だけだして、ジッと陽向を見つめてくる。
「え~と、おはよう?」
「……どこへ行くんだ?」
寝ぼけているのか、玄沢の声はかすれてやけに甘ったるかった。陽向を見つめる両の目も、夢心地ようにぽやぽやしている。
今までの厳格な玄沢からは考えられない姿だ。陽向は、笑いを抑えるのに必死だった。
「ええっと、今日は仕事だし、帰ろうかと」
「仕事……」
長い沈黙のあと、玄沢はあぁ、と呟いた。
「そうか……今日は月曜だった……」
玄沢はよろよろと起きあがると、あくびをしながら大きく伸びをした。そのまま立ち上がるのかと思いきや、膝に肘をつけたまま、ぼおっと陽向を見ている。
「あの……大丈夫?」
思わず聞くと、玄沢は眠たそうに瞬きを繰り返し、
「……あぁ」
と、ガシガシと自らの頭をかき回した。
どうやら、玄沢は朝が弱いらしい。
陽向は心の中のメモ帳にそれをしっかりと書き込み、今度こそ部屋を出ようとした。昨日のことがまたぶり返してきて、知らず早足になる。
「色々と、ご迷惑おかけしました。お礼は今度、必ず。じゃ」
「待て」
振り返ると、玄沢がこっちへ来いというように、ちょいちょいと人差し指で合図をしてきた。
普段ならば、こんな傲慢な呼び方されたら即怒るところだが、寝起きだということに免じて許してやる。
ソファの前まで行くと、
「お前……なに、考えてる?」
玄沢は舌足らずな口調ながらも、陽向がたじろぐくらい真っ直ぐな瞳で聞いてきた。
「何って、何が?」
「昨日の話、まだ終わってない、だろう……?」
「あ、あぁ」
そうだった。昨日の夜、海斗の件で玄沢と一悶着あったのだ。
だが、陽向は自分の意見を変えるつもりはなかった。「自分で探す」。これは絶対に譲れない。
しかし、こんな清々しい朝——近年まれにみる清々しい朝に、口論などしたくはない。
陽向は両手を上げた。
「わかった。わかったよ。一人じゃ動かない。それでいいんだろう?」
「本当だな?」
「本当、本当。誓いま——わっ!」
いきなり手首を引かれ、そのまま玄沢とともにソファにダイブしてしまう。二人分の体重を受け止め、ソファがギシリと鳴った。
「ちょっ、玄沢さん!?」
気がつくと、すぐ目の前に玄沢の顔があった。玄沢の逞しい腕が、自分の身体の上に乗り上げた陽向の体重を支えるよう腰に回る。
「——良かった」
ふっと、玄沢は穏やかに笑った。目じりを弛ませた、蕩けんばかりの笑顔。
一瞬にして陽向の心臓が、大気圏を突破したみたいに無重力状態になった。
「ぷ、あはははっ……!」
頬にかかる陽向の髪がくすぐったかったのか、玄沢がいきなり陽気に笑い始めた。
陽向はだんだん怖くなってきた。
「く、玄沢さん……もしかして、まだ寝ぼけてるの?」
「ははは……さあな! ははははっ……!!」
こりゃ、完全に寝ぼけてるな。
玄沢の腕は陽向の腰にがっしりと回り、ちょっとやそっとじゃ外れない。ただでさえ体格差がある上に、あのベッドの周りにあったトレーニングマシーンを見ても、陽向に勝ち目がないのはわかりきっている。
ふと、玄沢の指が陽向の首裏に回った。無骨な指は感触を楽しむかのように、ゆっくりと陽向の肌の上をすべる。
「く、玄沢さん……?」
慌てて顔を上げると、真剣な色味をたたえた玄沢の黒い目と目があった。
「お前が……」
玄沢は、舌を湿らせるようにゆっくりと喋る。
「お前が今まで、自分一人の力で生きてきたのはわかっている。おばあ様がなくなってから、いや、おばあ様と一緒に暮らしていた時から、彼女に心配かけまいと、彼女を守ろうと必死になってやってきたのだろう。彼女を亡くし都会に出てきてからも、誰も自分のことを知らない土地で、気を張って生きてきた。……でもな」
玄沢の喉仏が、ゆっくり隆起する。
「辛かったら、誰かに頼っていいんだ。甘えてもいいんだ」
玄沢の眉が切なげにきゅっと寄り、腰に回った腕に力がこもる。
「昨日も言ったが、お前を見ていると甘やかしたくてたまらなくなる。だからお願いだ。俺をもっと頼ってくれ」
命令でも、叱責でもない。乞うような声に、陽向はぐらりと目眩を覚えた。
何が起こったのか、わからなかった。
気がついた時には、玄沢と唇を重ねていた。
どちらからかは、わからない。ただお互い、吸い寄せられるように近づいていた。
自然に。林檎が木から落ちるように、太陽が東から登るように、何の違和感もなく。
「んっ、ふ……」
触れる程度だけだったものが、徐々に深くなっていく。寒さのせいで冷えきっていた舌が絡みあい、吐息が溶けていく。
その間も玄沢の手のひらが煽るように、陽向の髪をまさぐる。
心地よさに、陽向の喉が鳴る。陽向は少しでも今の距離を崩したくなくて、玄沢の肩口の服をぎゅっと握り締める。
ガンガンと頭の中で警鐘が鳴っていた。このキス一つで、今まで自分が必死に積み上げてきたもの全てが、崩れてしまうような気がした。
人を頼らない自立心。誰かの役に立たないといけない、価値あるものにならなければいけないという強迫観念。
それなのに、玄沢の腕の中にいるとどうしても思ってしまう。
できるなら、このまま何もかも、彼の広い胸やたくましい腕に身も心も委ねてしまいたい、と。
ふと腰に回る玄沢の腕がさらに締まり、二人の身体が密着する。互いの腰骨が当たり、陽向はずくりと身体の奥が疼くのを感じた。
「あっ、玄沢さんっ……俺……」
わずかに身を引いた瞬間、陽向は信じられないものを目撃した。
スー。スー。スー。
なんと玄沢は健やかな寝息をたてて、眠っていた。
陽向はあんぐりと口を開け、何が起こったのかを理解しようとした。ゆっくりゆっくり、笑いが身体の中からこみあげてくる。そして最後には、盛大に吹き出していた。
(そうだ、そうだよなっ! 寝ぼけていただけだよなっ……!)
考えてみれば、当たり前のことだ。
玄沢はゲイではない。酔っていたり、今みたいに寝ぼけていない限り、こんなことはまずありえないのだ。
きっと玄沢も仕事が忙し過ぎて、自分と同じく欲求不満だったのだろう。それが寝ぼけて暴走してしまったに違いない。
陽向は玄沢の身体の上で脱力し、相手の額にデコピンをくらわせた。
「ほんと、あんたが一番ひどい男だよ」
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