第4章: 小学校での苦悩

1. 新しい環境での不安


悠斗が小学校に入学する日が近づくにつれ、美奈と清志は、息子が新しい環境でどのように過ごしていくのかについて、希望と不安が交錯する思いを抱いていた。幼稚園時代の沈黙は続いていたが、小学校という新しい場所で、何かが変わるのではないかという期待を捨てきれなかったからだ。


悠斗自身もまた、新しい生活への期待を胸に抱いていた。新しい友達ができるかもしれない、先生が優しく見守ってくれるかもしれない、と心のどこかで希望を感じていた。しかし、その一方で、彼の中には深い不安が根付いていた。自分は本当に変われるのだろうか? 新しい環境でも、声が出せないまま過ごすことになるのではないかという恐怖が、心の奥底で彼を苛んでいた。


小学校初日の朝、悠斗はいつもより少し早く起き、ランドセルを背負った。清志は彼の背中を軽く叩きながら、「今日から新しいスタートだな」と微笑みかけた。美奈も、「悠斗、きっと素敵な一日になるよ」と励ましの言葉をかけた。悠斗はその言葉にうなずきながらも、どこか浮かない顔をしていた。


学校までの道を歩きながら、悠斗は何度も深呼吸をして、心を落ち着かせようとした。新しいクラスメートに会ったとき、何を言えばいいのか、どうやって話しかければいいのか、頭の中で何度もシミュレーションを繰り返していた。しかし、学校の門をくぐり、教室のドアを開けた瞬間、そのシミュレーションはすべて霧のように消え去り、胸の奥に冷たい不安だけが残った。


教室に入ると、すでに数人の子供たちが座っていた。みんなが新しい友達と楽しそうに話をしているのを見て、悠斗は自分の席に静かに座り、黙って教室を見渡した。クラスメートたちは次々に自己紹介を始めたが、悠斗は自分の番が来るのを恐れていた。先生が「次は悠斗くん、自己紹介をお願いします」と言った瞬間、彼はただ立ち上がり、何も言わずに再び座り込んでしまった。


教室の中が一瞬、静まり返った。クラスメートたちは何が起こったのか分からず、困惑した表情を浮かべていた。先生もまた、どう対応すべきかを考え込んでしまった。結局、先生は「大丈夫、また後でいいよ」と言って次の生徒に自己紹介を促したが、悠斗の胸にはその瞬間、言葉にできない不安と挫折感が重くのしかかった。


2. 学校での孤立


小学校生活が始まってから数週間が過ぎたが、悠斗の沈黙は続いていた。クラスメートたちは最初こそ彼に話しかけたり、遊びに誘ったりしていたが、彼が全く反応を示さないことに次第に気づき始めた。話しかけても返事がない、誘ってもついてこない悠斗に対して、他の子供たちは次第に距離を置くようになっていった。


特に、音楽の授業は悠斗にとって最も苦痛な時間だった。先生がピアノを弾きながら、クラス全員で歌を歌うという活動があったが、悠斗はその場で声を出すことができなかった。先生は「みんなで楽しく歌いましょう」と促すが、悠斗の口は固く閉ざされたままだった。


ある日の音楽の授業で、先生がクラス全員に歌うように指示したが、悠斗だけが声を出さないでいた。先生は彼に気づき、「悠斗くんも一緒に歌おう」と優しく言ったが、悠斗はただ首を振るだけだった。その様子を見た先生は少し苛立ちを感じ、「なんで歌わないの?」と声を強めた。クラスメートたちもその言葉に注目し、全員が悠斗を見つめる中、彼はただ下を向いて黙っていた。


その日を境に、悠斗はますますクラスメートたちから孤立していった。友達になりたいと思っていた子供たちも、次第に彼を避けるようになり、教室での交流がほとんどなくなった。悠斗は一人で過ごすことが当たり前になり、教室の片隅で黙々と机に向かうことが日常となった。


放課後、教室を出るときも、悠斗は他の子供たちと一緒に帰ることはなく、いつも一人で歩いて家に帰った。彼の心の中には、誰にも言えない寂しさと孤独感が広がっていったが、それを打ち明けることはできなかった。悠斗は次第に、自分が何かおかしいのではないか、自分だけが他の子供たちと違うのではないかという思いを抱くようになっていった。


3. 山城先生との出会い


小学校に入学して半年ほど経った頃、悠斗の母、美奈は彼の状態を心配し、知人の勧めで県内でも有名な小児科医、山城義晴先生の診察を受けることにした。山城先生は、子どもの心と体のケアに長年携わってきたベテランの医師で、その温かい人柄と独特の診察スタイルで知られていた。


美奈は悠斗を連れて病院に行き、診察室に入った。山城先生は悠斗の様子をじっと見つめ、微笑みながら「こんにちは、悠斗くん」と優しく声をかけた。悠斗はただ黙ってうつむき、何も言わなかった。美奈が「この子、ずっと話さなくて……学校でも辛そうなんです」と言うと、先生は深くうなずき、悠斗の肩に手を置いた。


「悠斗くん、頭が痛くなることがあるかな?」と先生は問いかけた。悠斗は一瞬戸惑ったが、わずかに首を縦に動かした。その反応を見た先生は、「頭が痛くなるのは、学校に行かないといけないと思っているからだよ」と静かに語りかけた。悠斗はその言葉に驚いた表情を見せたが、何も言わなかった。


山城先生は、美奈に「悠斗くんの行動や沈黙は、彼自身の個性であり、その個性を無理に変える必要はない」と伝えた。「学校が全てではないし、悠斗くんのペースで成長することが一番大事なんです」と付け加えた。この言葉は、美奈にとって大きな救いとなった。


「学校に行かないと頭が痛くなるのは、悠斗くんが無理をしている証拠なんです。無理をせずに、彼が安心できる場所で過ごすことが重要です」と先生は続けた。美奈はその言葉に涙ぐみ、「この子のことを理解してくれる人がいて、本当に救われました」と感謝の気持ちを伝えた。


山城先生との出会いは、悠斗と美奈にとって転機となった。先生の言葉によって、美奈は息子の沈黙を「問題」としてではなく、彼の「個性」として受け入れることができるようになった。悠斗もまた、山城先生が自分を否定せずに理解しようとしてくれたことに、どこか安心感を覚えた。


4. 父の単身赴任と悠斗の変化


悠斗が小学4年生になる頃、父親の清志が仕事の都合で単身赴任をすることになった。清志は、同じ会社内での転勤で、家からは遠く離れた地域への赴任だった。


清志はいつも厳格で、時には過度に厳しい態度をとることがあり、悠斗にとって彼との時間はあまり心地よいものではなかった。特に、父親の言葉や行動が彼に対して圧力をかけることが多く、悠斗はその影響でますます口を閉ざすようになっていた。


ある日の夜、悠斗が眠れずにいると、清志は「眠れないならベッドに縛りつけようか」と冗談めかして言ったが、その言葉が悠斗の心に深い傷を残したことを、清志は気づかなかった。また、外出先で家族から少し離れた場所にいた悠斗を一時的に置き去りにするなど、清志の行動はしばしば子ども心に不安と恐怖を与えた。


そのため、清志が単身赴任することが決まったとき、悠斗は内心、ほっとしていた。父親からのプレッシャーから解放されるという思いが強かったからだ。美奈もまた、清志がいなくなることで、悠斗が少しでもリラックスできる環境が整うのではないかと考えていた。


清志が赴任先に出発する朝、悠斗は特に感情を表すことなく、淡々とした様子で父親を見送った。美奈はその様子に少し驚いたが、無理に感情を引き出そうとはしなかった。悠斗にとって、この別れは解放の瞬間でもあった。


父親がいなくなった後、悠斗の生活は少しずつ変わり始めた。彼の表情にはわずかながらも穏やかさが戻り、家の中で過ごす時間が以前よりもリラックスしたものになっていった。清志がいなくなったことで、美奈と悠斗の関係もより親密なものになり、二人で過ごす時間が増えていった。


美奈は、悠斗が以前よりも少しずつ心を開いていることに気づき、その変化を大切に見守っていた。悠斗はまだ学校では言葉を発することはなかったが、家での時間が心地よいものになっていくことで、彼の心の中に少しずつ希望の光が差し込んでいるように感じられた。


5. 変わらぬ沈黙と不安


しかし、学校生活において悠斗の沈黙は依然として続いていた。新しい学年、新しいクラスメート、そして新しい先生との出会いがあったものの、悠斗の心の中にある壁は崩れることはなかった。


新しい担任の先生は、悠斗が話さないことに最初は戸惑っていたが、次第に彼の状況を理解し、無理に話させようとはしなかった。それでも、クラスメートたちの中には、彼をからかう子どもたちもいた。「あ」って言ってみて」と軽くからかうつもりの言葉が、悠斗にとっては鋭い刃のように胸に突き刺さった。


ある日の放課後、教室で一人残っていた悠斗は、窓の外をぼんやりと眺めていた。誰もいない教室の静けさが、彼の心に響いていた。そのとき、クラスメートの一人が「なんでいつも黙ってるの?」と突然話しかけてきた。悠斗はその言葉に驚き、思わず顔を上げたが、何も言うことができずにまた下を向いた。


その子はしばらく悠斗のそばに立っていたが、やがて諦めたように教室を出て行った。悠斗はその後もただ静かに座り続け、自分の心の中で何が起こっているのかを必死に理解しようとしていたが、答えを見つけることはできなかった。


家に帰ると、いつものように美奈が優しく声をかけた。「今日はどうだった?」と尋ねると、悠斗は何も答えずにうなずくだけだった。美奈はその様子に不安を覚えたが、無理に話を引き出そうとはしなかった。彼女はただ、悠斗が少しでも安心できるようにと、彼の好きな夕食を用意し、温かく見守ることに徹していた。


6. 父との別れ


小学6年生の11月、悠斗の生活に大きな転機が訪れた。清志が単身赴任先で心筋梗塞を起こし、急死したという知らせが届いたのだ。その知らせは突然であり、家族全員が深いショックを受けた。


美奈は泣き崩れ、悲しみに打ちひしがれていたが、悠斗はその知らせを聞いたとき、ただ無表情でそれを受け止めた。彼の心の中には、何かを感じる余裕もなく、ただ静かにその現実を受け入れるだけだった。


父親の葬儀の日、親族や知人たちが集まり、涙を流しながら清志を見送っていたが、悠斗はその場で涙を流すことができなかった。彼にとって、清志は父親でありながら、常に圧力を感じさせる存在だった。清志の厳しさや過度な言葉が悠斗に与えた影響は大きく、悠斗は父親の死に対して、どのように感情を表現すべきか分からなかった。


悠斗はその場で、ただじっと棺を見つめていた。周囲の人々が涙を流し、悲しみの声を上げる中で、彼は心の中で「どうして涙が出ないんだろう?」と思いながらも、答えを見つけることができなかった。


葬儀が終わり、家に戻った後も、悠斗は何も言わず、静かに自分の部屋にこもっていた。美奈は彼の様子を心配し、何度も声をかけたが、悠斗はただ「大丈夫」とうなずくだけだった。美奈はその答えに安堵することはできず、彼が感じているであろう複雑な感情にどう向き合えばよいのか、悩み続けていた。


清志の死は、悠斗にとっても大きな出来事であったが、その影響が彼の心にどのように表れているのか、誰にも分からなかった。彼はただ、自分自身の中でその出来事を受け止めることに必死であり、周囲にその感情を伝えることはできなかった。


7. 父の影響とその葛藤


悠斗が父親の死後も、彼との記憶や感情に悩まされ続けたのは、父親が彼に与えた影響が深く残っていたからだった。清志は、外では優れた仕事ぶりで知られていたが、その裏では厳しい性格と失言癖を持っていた。仕事場での失敗や嫌われることが多く、常にストレスを抱えていた清志は、そのストレスを家庭内で発散することが少なくなかった。


清志が発達障害を抱えていたのではないかという疑念は、悠斗が大人になるにつれて、徐々に明確になっていった。清志の行動や言葉の裏にある原因を理解しようとするたびに、悠斗は彼の厳しさや暴言に対して、ただ憎しみを感じるだけではなく、複雑な感情を抱くようになっていった。


父親との記憶は、悠斗にとって辛いものであったが、その一方で、父親が抱えていた問題を理解しようとする気持ちも芽生えていた。彼は次第に、父親が自分を傷つけたのは、単なる意図的な行為ではなく、彼自身が抱えていた悩みや苦しみの一環であったのだと理解するようになった。


それでも、悠斗の中にある父親への感情は複雑であり、その死をどう受け止めるべきか、答えを見つけることはできなかった。父親がいなくなったことで感じる解放感と、彼の存在が残した影響との狭間で、悠斗は苦しみ続けた。


8. 孤独な卒業式


小学校生活の最後を迎える頃、悠斗の中で一つの恐れが現実のものとなった。卒業式でのスピーチが予定されていたが、悠斗はその日が近づくにつれて、ますます不安を募らせていた。彼はまだ一言も話すことができず、その不安が日に日に大きくなっていった。


卒業式の日、悠斗はスピーチをしなければならないことを知っていたが、彼にはその場に立つ勇気がなかった。美奈は彼を励まそうとしたが、悠斗はただ首を横に振るだけだった。結局、悠斗はその日、学校を欠席する決断を下した。


数日後、学校では「第二卒業式」と呼ばれる、欠席者のための小さな卒業式が開かれた。そこに参加した悠斗は、少人数の中で静かに卒業証書を受け取り、誰にも見られずにその場を後にした。


その帰り道、悠斗は自分がこの先どこに向かうのか、何をするべきなのかを考えながら歩いていたが、答えは見つからなかった。ただ一つ言えることは、自分がまだ「声」を取り戻せていないという現実だった。家に帰ると、悠斗はその卒業証書を机の上にそっと置き、無言で窓の外を見つめ続けた。

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