第3章: 声を失った日々

1. 声を失う過程


悠斗が声を出すことに対して恐怖を感じるようになったのは、保育園での違和感が強まり始めた頃からだった。最初は、友達や先生に対して言葉が詰まることが増えただけだったが、そのうちに、言葉を発すること自体が怖くなり、口を開こうとすると身体が硬直するようになった。


ある日の朝、保育園の教室で、みんなが自由に遊ぶ時間があった。友達はそれぞれ自分の好きな遊びに夢中になっていたが、悠斗は一人、隅の方で積み木を触りながら、ぼんやりとしていた。先生が彼に気づき、「悠斗くん、今日は何して遊ぶ?」と優しく声をかけた。しかし、悠斗はその問いかけに対して返事をすることができなかった。頭の中では「砂場で遊びたい」と思っていたが、その言葉がどうしても口から出てこなかったのだ。


先生はしばらく待っていたが、悠斗が何も言わないことに気づくと、「無理しなくていいから、好きなところで遊んでね」と微笑みかけた。悠斗はその微笑みに対しても返すことができず、ただ黙ってうなずくだけだった。その日、彼は一度も友達と遊ぶことなく、一人で静かに過ごしていた。


時間が経つにつれて、悠斗はますます言葉を失っていった。友達が遊びに誘っても、先生が話しかけても、彼はただ黙っていることが増えた。声を出そうとすると、喉が締めつけられるような感覚に襲われ、胸が苦しくなった。悠斗は次第に、言葉を発すること自体を避けるようになり、そのことが彼の中で新たな恐怖となっていった。


家では相変わらず両親と会話を交わすことができていたが、保育園ではその沈黙が支配的になっていった。彼の中で、外の世界に対して声を出すことが恐ろしいものとなり、次第にその恐怖は彼の心全体を覆っていくようになった。


2. 家族の変化


悠斗が保育園で声を失っていく中、家庭でもその影響が徐々に表れるようになっていった。美奈と清志は、悠斗が保育園で言葉を発することができないという話を聞き、深い不安を感じていたが、どうすればよいのかを考えることができずにいた。悠斗が抱える心の重荷を軽くするためには、どのように接するべきなのか、二人は悩み続けた。


ある晩、美奈と清志は食卓で静かに話し合っていた。「悠斗がこんなに話さなくなるなんて……どうしてしまったんだろう?」と美奈が問いかけると、清志は「俺もわからない。でも、彼に無理をさせるのはよくないと思う」と応じた。二人はできる限り、悠斗にプレッシャーをかけずに過ごさせることを心に決めたが、それでも彼の沈黙が家族全体に影を落としていることは避けられなかった。


休日になると、家族での外出も少なくなっていった。かつては動物園や公園、博物館に出かけることを楽しんでいたが、悠斗がそれらに興味を示さなくなったため、清志と美奈は無理に連れ出すことをやめるようになった。家の中で過ごす時間が増えるにつれ、家族全体の会話も少なくなり、静かな時間が増えていった。


清志は、仕事から帰宅するときも、以前のように悠斗が「おかえり」と迎えてくれることが少なくなったことに気づき、心の中で寂しさを感じていた。彼は仕事のストレスを家に持ち込まないように努めていたが、それでも家族全体が抱える不安が次第に彼自身の心にも重くのしかかるようになっていた。


美奈もまた、悠斗の変化にどう対処すべきかを考え続けていた。彼女は絵本の読み聞かせを続けることで、少しでも彼の心を安らげたいと思っていたが、悠斗の反応が日に日に薄くなっていくのを感じていた。彼女は夜になると、一人で眠りにつく前に「どうしてこうなってしまったのか」と自問し、涙をこぼすことが増えていった。


家族の中でのコミュニケーションが減り、沈黙が支配する時間が増えていく中で、悠斗が感じる孤独感もまた深まっていった。彼は自分の心の中で何かが変わってしまったことを理解していたが、それを言葉にすることができず、ますます自分の殻に閉じこもるようになっていった。


3. 保育園での孤独


保育園での悠斗は、次第に他の子供たちと距離を置くようになっていった。かつては友達と一緒に遊び、楽しそうに笑い合っていたが、今ではその輪の中に入ることができなくなっていた。彼は一人で過ごすことが多くなり、友達が楽しそうに遊んでいる姿を遠くから見つめるだけだった。


先生たちも、悠斗の変化に困惑していた。彼が言葉を失い、他の子供たちと関わろうとしなくなったことは、先生たちにとっても悩みの種だった。彼らは悠斗に優しく接し、何度も話しかけようとしたが、悠斗はただ静かにうつむき、何も答えようとしなかった。


ある日、保育園で音楽の時間があった。先生がピアノを弾き、子供たちが一緒に歌うという活動だったが、悠斗はその場で声を出すことができなかった。周りの子供たちが楽しそうに歌う中で、彼はただ黙って座り、手元の絵本をめくるだけだった。先生が「悠斗くんも一緒に歌おう」と声をかけたが、彼は何も言わずに首を横に振っただけだった。


その様子を見た先生は、次第に苛立ちを覚え始め、「どうして歌わないの?」と少し強い口調で問いかけた。その言葉に、悠斗は驚いて顔を上げたが、すぐにまた下を向き、何も言わなかった。彼の心の中で、声を出すことへの恐怖がさらに強まっていったのを感じた。


保育園での活動がますます苦痛なものになっていく中で、悠斗は次第に登園すること自体を嫌がるようになっていった。朝になると、美奈が「今日は保育園に行こうね」と優しく声をかけても、彼はただ首を横に振るだけで、泣き出すことが増えていった。美奈はその姿を見て心を痛めながらも、どうすれば彼の気持ちを軽くできるのかを考え続けていた。


一方で、他の子供たちは次第に悠斗を避けるようになっていった。彼が話さないこと、遊びに誘っても応じないことに対して、理解できない感情が生まれていたのだ。友達が「どうして悠斗くんは話さないの?」と尋ねることもあったが、その問いに答えることができない悠斗は、ますます孤立していった。


悠斗はその孤独感の中で、自分がどこにも居場所がないと感じるようになっていった。保育園でも、家でも、彼は自分の心を開くことができず、ただ静かに過ごす日々が続いていった。


4. 心の壁


悠斗が声を失ってから、彼の心の中には大きな壁が築かれていった。その壁は、外の世界とのつながりを遮断し、彼自身を孤立させるものだった。言葉を発することができないという現実が、彼の中でますます重くのしかかり、心の中で膨れ上がっていった。


彼は夜になると、ベッドの中で目を閉じ、今日一日何があったのかを思い出そうとしたが、それはただ苦痛な記憶としてしか蘇らなかった。保育園での出来事、先生の言葉、友達の視線――すべてが彼を苦しめるものであり、逃れようのない現実として彼に迫ってきた。


美奈が絵本を読み聞かせる時間も、悠斗にとってはもう安らぎの瞬間ではなくなっていた。彼はただ黙ってその声を聞きながら、心の中で「どうして僕は話せないんだろう?」と問いかけ続けていた。答えの出ないその問いが、彼の心をますます追い詰めていった。


両親もまた、悠斗の心の壁を感じ取り、その壁をどうやって乗り越えさせることができるのかを考え続けていた。清志は「何かきっかけがあれば、彼はきっとまた話せるようになるはずだ」と信じていたが、そのきっかけが何なのかを見つけることができずにいた。


ある晩、美奈は清志に「もしかしたら、悠斗を専門の先生に診てもらった方がいいかもしれない」と提案した。清志は少し考えた後、「そうかもしれないな。僕たちだけでは、もうどうすることもできないかもしれない」と同意した。二人は翌日、悠斗を専門のカウンセラーに連れて行くことを決めた。


カウンセラーの元に連れて行かれた悠斗は、最初は戸惑いを隠せなかった。知らない場所、知らない人に囲まれ、彼の心はさらに固く閉ざされた。しかし、カウンセラーは穏やかに接し、彼が自分の気持ちを少しでも話せるように促した。


悠斗はその時も、言葉を発することができなかったが、カウンセラーの優しい声と態度に少しだけ心を開くことができたように感じた。彼はまだ、自分の中で何が起きているのかを理解できていなかったが、少しずつ、自分が話せなくなった理由を探ろうとする気持ちが芽生えていた。


両親は、悠斗が再び声を取り戻すことができるように、時間をかけて彼の心の壁を取り除く努力を続けていくことを決意した。しかし、その道のりは険しく、容易なものではないことを、二人は痛感していた。悠斗の心の中にある壁は、そう簡単には壊すことができないほど強固なものだったのだ。


5. 沈黙の中のサポート


悠斗が言葉を失い、心の中に強固な壁を築いていく中で、美奈と清志は、彼にどのように接していくべきかを模索し続けていた。悠斗の沈黙は彼らにとっても辛いものであり、家族の時間が以前のように明るいものではなくなってしまったことを実感していた。それでも、彼らは決して悠斗を見放すことなく、彼が再び笑顔を取り戻すために、どんな小さな手助けでもしようと心に誓っていた。


ある日、美奈は図書館で、子どもの心のケアについて書かれた本を手に取った。そこには、言葉を失った子どもたちがどのようにして再び自分の声を取り戻していくのか、そのプロセスが丁寧に書かれていた。美奈はその本を読みながら、悠斗がどのような状況にあるのか、少しずつ理解し始めた。


本には、子どもが安心できる環境を整えることが重要であると書かれていた。子どもが言葉を発しなくても、周囲がそのことを責めたり、無理に話させようとしたりしないようにすることが大切だという。美奈は、悠斗が心の中で感じているプレッシャーを少しでも軽減させるために、彼が安心して過ごせる場所と時間を作ることを決意した。


彼女はまず、家の中で悠斗がリラックスできるスペースを作ることにした。彼の好きな絵本や、国旗カード、そしてお気に入りのぬいぐるみを並べた小さなコーナーを作り、そこが彼の安心できる場所になるように工夫した。美奈は「ここは悠斗の秘密基地ね」と微笑みながら言い、そのスペースを特別なものとして大切に扱った。


清志もまた、仕事の合間を見つけては、悠斗と過ごす時間を増やそうと努めた。彼は以前のように積極的に会話をしようとはせず、ただ一緒に絵本を読んだり、国旗カードを見ながら静かに過ごす時間を大切にした。清志は、悠斗が再び声を取り戻すためには、まず安心感を持たせることが重要だと感じていた。


週末には、家族全員で近くの公園に出かけ、ただ静かに散歩をすることが増えた。公園の中で、清志と美奈は悠斗に無理に話しかけることはせず、ただ一緒に歩きながら、彼が自然と心を開くのを待った。悠斗はその時間を心地よく感じていたようで、少しずつ表情が穏やかになっていくのが見て取れた。


また、保育園でも、先生たちは悠斗に対する接し方を見直し、彼が少しでも安心して過ごせるように工夫を凝らした。彼を無理に活動に参加させるのではなく、彼が興味を持ったものに自然と引き寄せられるような環境を作り、彼のペースに合わせて対応することに努めた。


先生たちは、美奈と清志と定期的に連絡を取り合い、悠斗の変化について話し合いながら、少しずつ状況を改善していくための手段を模索した。彼が再びクラスメートたちと楽しんで過ごせるようになる日を目指し、みんなで支え合いながら進んでいくことを確認し合った。


このように、家族や先生たちのサポートによって、悠斗の周囲は少しずつ安心できる環境へと変わっていった。悠斗はまだ言葉を発することができなかったが、その沈黙の中で、彼が少しずつ心を落ち着かせていく様子が感じられた。彼にとって何よりも重要なのは、言葉を失っても、周囲が自分を受け入れてくれているという安心感であった。


両親や先生たちの努力は、悠斗の心の中に小さな変化をもたらしていた。彼が再び声を取り戻すまでには、まだ時間が必要だったが、彼がその第一歩を踏み出すための環境が少しずつ整えられていった。悠斗は、まだ自分の心の中で何が起きているのかを完全に理解していなかったが、それでも周囲の温かいサポートが、自分にとって大きな支えとなっていることを感じ始めていた。


家族や先生たちの支えを受けて、悠斗が再び声を取り戻し、自分自身を表現できるようになる日は、少しずつ近づいているように思えた。それはまだ先の話かもしれないが、彼がその道を歩んでいくための土台が確かに築かれつつあった。


6. 孤独の中での気づき


悠斗が沈黙の中で過ごす日々が続く中、彼の心の中である種の変化が生じ始めていた。彼が言葉を失ってから、周りの友達と疎遠になり、一人で過ごすことが増えたが、その孤独の中で彼は自分自身について考える時間が増えていた。言葉が出なくなった理由を考え、どうして自分だけがこんなにも苦しいのか、理解しようと努めていた。


実際、悠斗は保育園の中では特に目立つ存在だった。彼は痩せ型で顔立ちも整っており、その大人びた雰囲気が同年代の女の子たちの間で人気を集めていた。彼が無口になってもなお、クラスの女の子たちは彼のそばに寄ってきて、一緒に遊ぼうと誘ってくることが多かった。特に、保育園での行事や遊びの時間には、自然と女の子たちが彼の周りに集まってくることがよくあった。


しかし、言葉を発することができなくなった悠斗にとって、それは次第にプレッシャーとなっていった。友達や先生の期待に応えられないこと、女の子たちからの視線を浴びることが、彼にとって大きな負担となっていた。彼はその注目を避けるようにして、次第に一人で過ごすことを選ぶようになっていった。


ある日、保育園での活動中、先生がクラス全員に自分の好きなものを発表する機会を与えた。悠斗もその場にいたが、彼は自分が発表することはできないと感じ、黙っていた。クラスメートが次々と自分の好きなものを発表していく中で、悠斗は自分がその輪の中に入れないことに対して、強い疎外感を感じた。


しかし、その孤独感の中で、悠斗は初めて、自分が変わりたいという思いを抱いた。彼は、かつてのように友達と笑い合い、保育園で楽しい時間を過ごしたいと心から願うようになった。言葉を失った自分に対しての不安や恐怖は依然としてあったが、その思いが彼の心の中で新たな希望として芽生え始めていた。


家に帰った悠斗は、その日の出来事を考えながら、自分の部屋で静かに過ごしていた。彼は、母親が用意してくれた「秘密基地」で、自分の好きな国旗カードを眺めながら、自分がどうしたいのかを考えていた。彼は、再び声を出してみたい、友達と話したいという思いを感じるようになっていた。


その夜、悠斗はいつもよりも早く眠りについたが、その眠りの中で、かつての自分が保育園で友達と楽しく遊んでいた頃の夢を見た。彼はその夢の中で、自分が大声で笑いながら友達と走り回っている姿を見て、目が覚めたときに涙が頬を伝っていたことに気づいた。


美奈がその様子に気づき、そっと彼の頭を撫でながら「どうしたの?」と優しく尋ねたが、悠斗は何も言わずにただ美奈を見つめるだけだった。しかし、その目には確かな決意が宿っていた。彼は、再び声を取り戻し、友達と話せるようになるために、自分自身と向き合う覚悟を決めたのだ。


7. 小さな一歩


翌日、悠斗はこれまでとは違う心持ちで保育園に向かった。彼はまだ言葉を発することに対しての恐怖心を完全に克服したわけではなかったが、少しずつその恐怖に立ち向かう準備ができていることを感じていた。保育園の門をくぐるとき、美奈は彼の手を優しく握り、「今日も頑張ろうね」と声をかけた。悠斗は小さく頷き、母親の手を離して教室に入っていった。


教室に入ると、すでに友達が集まって遊んでいるのが見えた。悠斗はその様子を少し遠くから眺めながら、勇気を振り絞って一歩ずつ友達の方に近づいていった。友達の一人が彼に気づき、「悠斗くんも一緒に遊ぼうよ」と声をかけてくれた。悠斗は一瞬ためらったが、その言葉に心が温かくなるのを感じ、思わず頷いた。


友達が用意していたのは、ままごとのセットだった。悠斗はその遊びに加わることにしたが、最初はただおもちゃを手に取り、黙ってその場に座っているだけだった。しかし、友達が楽しそうに遊ぶ姿を見ているうちに、次第に自分も声を出してみたいという気持ちが強くなっていった。


しかし、結局その日は一言も発することはできなかった。彼の中で、言葉を出そうとするたびに心の奥底から恐怖が湧き上がり、その感情に押しつぶされそうになったのだ。友達と一緒に過ごしながらも、悠斗の中には常にその恐怖が渦巻いており、どうしてもその壁を乗り越えることができなかった。


家に帰った悠斗は、美奈にその日の出来事を話そうとしたが、言葉にならなかった。彼は母親の前でも何も言えず、ただうつむいていた。美奈はそんな悠斗をそっと抱きしめ、「大丈夫、いつかきっと話せる日が来るよ」と優しく囁いた。悠斗はその言葉に少しだけ安心を覚えたが、それでも自分自身の中にある恐怖心とどう向き合えばいいのか分からないままだった。


悠斗は、まだまだこれからも乗り越えなければならない壁がたくさんあることを理解していたが、それでも心の中で希望を持ち続けることだけは決して諦めなかった。彼は再び、自分の声を取り戻し、友達と話し、保育園で楽しい時間を過ごせるようになる日を夢見て、これからも前に進んでいく決意を固めた。


家族や先生たちの支えを受けて、悠斗が再び声を取り戻し、自分自身を表現できるようになる日は、少しずつ近づいている。彼の心の中に宿った希望の光は、彼を支える人々の愛情によって、確実に育まれていくのだった。

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