第6話:先斗町ますだ

 夜の木屋町をすり抜けて路地に入ると、先斗町だった。木屋町と隣接しているのに、明らかに違う空気感に少しだけ気圧されてしまう。木屋町は木屋町で、自分にはまだ早いという感覚があって圧迫感があるけど、先斗町はもっと自分には早いような気がして、縁遠い気がして強い圧を感じてしまう。

 気後れというか、なんというか、不思議な感覚だ。

 夢愛姉はそんなことを一切気にしていないかのように、ずんずんと目的の店に入っていく。


 いかにも京都の小料理屋といった風体の店構えに、内装。ヒノキのような自然な色のカウンターに、どこか古い印象のあるデザインの背の高めの椅子が並んでいる。カウンターの奥の方には、惣菜が所狭しと並んでいた。

 おばんざいだ。


 壁には「お銚子二本 門限10時」と書かれた札が掛かっている。料理を主体としているから、お酒はたくさん呑まないようにということだろうか。

 そしてメニューを見るに、お酒は賀茂鶴大吟醸樽酒だけ。思いきりがいい店みたいだ。


 ひとまず夢愛姉がお酒とお造り、白蒸しを頼む。俺は流石に遠慮して、飲み物はお茶にした。料理はおからと揚げ麩を注文。


「なんか上品なお店やね」


 夢愛姉が頬杖をついて、俺のほうを見て笑っている。普段は来ないような上品な店に圧倒されることなく、マイペースだ。


「似合わんなあ」

「あはは、確かに」


 言っている間にお酒が運ばれてくる。お銚子一本目だ。銚子とは何のことだろうとちょっと思ってたけど、徳利のことらしい。言い方が違うだけなんだろうか、何か差があるのかもしれないけど、俺にはわからないことだ。

 夢愛姉は嬉しそうにトクトクと注ぎ、カウンターの奥のおばんざいを眺めている。この光景を肴に飲める、というやつなんだろうか。

 俺にはわからない世界が、そこには広がっているんだろう。


「結愛くん、世界は狭くてほんの少しだけ広いんよ」

「それっぽいやん」

「やろ?」


 ニカッと笑って、お猪口をクイッと傾ける夢愛姉の横顔が綺麗に見えて、少しだけ見惚れそうになった。慌てて視線をお茶に落とし、俺もお茶を一口飲む。

 ホテルからの道のりでほんの少しだけ乾いていた喉が潤い、いい気持ちだ。


 運ばれてきた料理を見て、また夢愛姉の顔が綻んだ。白蒸しは少し時間がかかるようで、まずはお造りとおからが運ばれてきた。俺が頼んだおからはシンプルながらも、よく味が染みていそうな見た目をしている。

 これぞ京都のおばんざい、というような見た目に少しだけ心が揺らいだ。


 一口食べてみると、素朴だけどしっかりとした味で、とても美味しい。おからというのは豆腐を作るときに出来る副産物で、おまけのように思っていたが、十分に主役たり得るポテンシャルを持っているらしい。

 確かに、夢愛姉の言う通りなのかもしれない。世界は狭くて、だけどほんの少しだけ俺が思っているよりは広い。

 だとしても、俺はこの旅の目的を変えるつもりは今のところはないのだけれど。


 夢愛姉も、きっとそうなんだろう。


「ん? なんかついてる?」

「いや、お造りうまい?」

「美味しいで、食べ食べ」


 じゃあ遠慮なく、と一切れ貰った。なんの魚だろう。マグロじゃないのは確かだけど。食べてみると、その正体がわからなくても美味しいものは美味しいのだから面白い。


「おからも一口ちょうだい」

「ええよ」


 おからの入った小鉢を夢愛姉の前に差し出すと、ほんのちょびっとだけ箸でつまんで食べた。美味しそうに口元を緩ませているのが、昔の夢愛姉と重なって見える。

 この旅で、夢愛姉は随分と昔に戻ったみたいだ。


「これが……おから?」

「わかる」

「ボソボソ感あまりなくてうっま……世界広し」


 揚げ麩も運ばれてきて、これまたうまい。じゅわっとしている。自分の語彙力のなさを呪いたくなるけど、じゅわっとしているものはじゅわっとしているのだから仕方がない。


 少しして、白蒸しも運ばれてきた。白蒸しとはなんのことかと思ったら、ご飯だった。白いご飯に黒豆が見える。


「あ、これもち米や! 美味しい!」

「もち米なんか」


 御赤飯の白いバージョンみたいなものか。一口貰うと、確かにこれは美味しい。シンプルながらに、味わい深い。もち米の甘さがよくわかるし、食感も楽しい。黒豆が入ってるのも、いい感じだ。


 俺は追加で白米と赤だし、ひじきと青唐じゃこ煮と鴨ロースを頼んだ。これで、定食が完成した。夢愛姉もお酒をもう一本追加し、おからといわし山椒を注文していた。

 どうやら、おからがかなり気に入ったようだ。


「ガッツリ食べるねえ」

「こういうのって白米食べたくならん?」

「なるなる」

「おから食べた瞬間思ったんよ、これは白米やなって」


 白蒸しも美味しかったけど、俺はやっぱり白米がいい。お酒を飲むなら白米じゃなくてもいいんだろうけど、俺はお茶だから。

 ひじきは素朴な味で、こういうのが一番いいんだよと思えるようなうまさだった。言わずもがな、ご飯にすごく合う。青唐じゃこ煮もシンプルながら、ピリッとした青唐の風味がいいアクセントになっていて、これまたご飯に合う。

 鴨ロースは夢愛姉とシェアして食べたけど、これは白米よりお酒向きだと思った。夢愛姉はすごく美味しそうに食べていた。


 満足して店を出て、ホテルに戻った。


 ホテルの部屋で別々にシャワーを浴びて、二人一緒にベッドに入る。少し距離を空けて寝転がると、夢愛姉が距離を詰めてきた。


「おいで」


 手を広げる夢愛姉の胸元に顔を寄せると、そのまま抱きしめられた。今日は俺はお酒を呑んでいないのに、なぜだか素直にこうしたい気分だった。見透かされていたのかもしれないし、夢愛姉もそうだったのかもしれない。

 どちらにしても、俺にはありがたいことだ。


「ねえ結愛くん」

「んー?」

「好きやで」


 夢愛姉の湿った声が耳元で聞こえてきて、くすぐったくて、「うん」としか返せなかった。夢愛姉の腕の力が強くなって、俺もより深く夢愛姉の胸に顔を埋める。温かくて、妙にふわふわとしていて、なんだか昔を思い出すようだ。


「昔よくこうして貰っとったね」

「懐かしいなあ~」


 昔から、しょっちゅう夢愛姉の家に預けられていた。両親が家にいないことが多かったからだ。食事はカップ麺や菓子パンだけがほとんどで、栄養が足りていないことに気づいた隣の夢愛のお母さんが、親がいない日に預かると言ってくれた。

 両親にも話をつけてくれて、夢愛姉とおじさんおばさんには感謝しかない。家にいるときはよく暴力を振るわれて、それで泣いたり落ち込んだりしていると、夢愛姉がいつも寝るときに抱きしめてくれた。

 夢愛姉の胸に顔を埋めていると、自分がここにいていいんだと思えて、同時に情けなくも思えて幸せなのか辛いのかよくわからない気持ちになるんだ。


「夢愛姉」

「んー?」

「少しは気分晴れた?」

「こっちのセリフやけどね、晴れたかな」

「それは良かった」


 旅に出てからの夢愛姉は、まるで昔のようだった。昔は夢愛姉は夢をよく語っていて、なんだかハングリー精神旺盛な人だと思ったのを覚えている。実際、昔の夢愛姉はあれも欲しいこれも欲しい全部ぜんぶ欲しいと、そんな感じだった。

 それが要らないなにも、という感じになったのはいつ頃からだっただろうか。働くようになってからだったか、高校生になってからだったか。

 中高で虐められたという話を聞いたのは、夢愛姉が高校を卒業してからだった。

 高卒で入った職場でもひどいセクハラを受けたらしく、日に日に顔が暗くなっていって、食も細くなっていった。転職した後も、それは続いて、今ここにいる。


 夢愛姉は、今、なにを思っているんだろうか。

 俺のことを好きだと言ったけど、そう思ったその頭でなにを考えているんだろうか。


 考えていてもわからないので、俺は大人しく夢愛姉の胸の温かさに目を閉じた。

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