第3話:楽天地のモツ鍋とベッド
寿司を食べてしばらく腹ごなしに歩き、大濠公園のベンチで休んだ後、なぜか今度は中洲にいて、しかもモツ鍋を前にしている。
おかしい。僕は食べなかったけど、夢愛姉は大濠公園でもホットドッグを食べたんだ。寿司を食べてからは時間が経ったけど、モツ鍋なんて……。
グツグツ煮える鍋を見て、夢愛姉はご満悦といった様子だ。頭をゆらゆらと横に揺らし、今か今かと煮えるのを待っている。
「やっぱ博多に来たらモツ鍋やね~」
「わかるけど食いすぎやろ」
「モツ鍋は別腹や」
だから、スイーツじゃないだろ。
鍋は一人ひとつずつ用意されており、もう煮えているようだ。普通鍋と言えばひとつの鍋を大人数で囲むものらしいが、モツ鍋は一人鍋だ。
俺としては、一人鍋のほうが落ち着く。
「よっしゃ! 食べよー!」
「うん、いただきます」
「いっただっきまーす!」
本当、昨日までの様子は嘘のように元気だなあ。
いいことなんだけど、死ぬ前のセミを見ている気分になる。死ぬ前のセミは、最後の輝きと言わんばかりに一際元気だ。それが鬱陶しくもあるんだけど、切なくもある。
鍋のモツを一口食べてみると、かなり美味しい。醤油ベースの鍋の旨味をしっかりと吸い込んだプリプリのモツ。噛む度に、汁がじゅわっと染み出してきて口の中に旨味が充満する。
ニラと一緒に食べてみると、少しクタクタになったニラの食感とほんの少しの苦みと辛味が食欲を後押ししてくれる。モツ鍋には唐辛子も入っているけど、この唐辛子もかなりいい仕事をしている。
「う~ん、プリプリで美味い!」
「食レポがどんどん雑になっとらん?」
「この鍋汁、ばりうまかですねえ……旨味の宝石箱ばい」
「怒られるで」
イントネーションがわざとらしすぎるし、関西弁すぎる。
絶対違うだろ。知らんけど。
「ビールに合いすぎるよね、モツ鍋」
「まあわかる、はじめて飲んだけど」
ビールは苦みが強いからどうかと思ったけど、意外と飲めた。ちょっと視界がユラユラしている気がするけど、それくらいだ。どうやら俺は、酒に弱くもなければ強くもないらしい。
ただ、モツ鍋と合うのはよくわかる。モツのもったりとした脂身の旨味とピリ辛の風味に、ビールの爽やかな炭酸の刺激とスッキリとした苦みがマッチしている。
「ありがとう、今日は」
突然、夢愛姉がぼそっと呟くように言った。
「ううん、ええんよ」
「こんなことに付き合ってくれるん結愛だけやし、付き合ってほしいと思うのも結愛だけやで」
「俺もそうよ」
そりゃあ、誰でもいいわけがない、こんなこと。おじさんとおばさんは絶対嫌だろうし、夢愛姉には友達らしい友達もいないから、必然的に相手は俺になる。
しかし、それともまた違うんだろうことは俺にだってわかる。夢愛姉は、俺のことを特別だと思ってくれている。好きだと、思ってくれている。
俺もそうだ。夢愛姉のことは特別で、大好きで、だから今俺はここにいる。こんな逃避行に同行しているんだ。
昔、夢愛姉がひとりでに大笑いしはじめたことがある。そのときはただ驚いて、どうしたらいいかわからなかったけれど、今思えばああいうのが人生におけるしんどさなのかもしれない。何もないのに泣けてくるのが心の救難信号なのだとしたら、何もないのに笑えてしまうのもまた心の異常なのだと俺は思う。
だって、普通は何もないのに笑えてくるなんてことはないから。面白いことがあっても声をあげて笑うことのない人もいれば、箸が転んだだけで大笑いする人もいるけれど、無が笑いになるなんてことは基本的にはないのだ。
芸人たちのコント番組で静寂が笑えるのは、それまでのしっかりとした前フリと静寂の後のツッコミなど後フリがあるからであって、あれは無音であって無ではない。その無音を表現するのに、必要な言葉や声や音を出しているのだ。
「お、シメきたで!」
気がつけば、俺らはモツを全部食べてしまっていたらしい。気づけば、目の前のビールも新しくなっている。過去に思いを馳せている間に、何があったんだろう。
シメの中華麺が鍋の中で踊っている。ぶくぶくとした泡と一緒にほんの少しの上下運動を繰り返し、若干の水平移動もしながら麺が醤油ベースの旨味たっぷりな汁に煮られている。
「モツ鍋の醍醐味やんね」
「というか鍋の醍醐味やな」
「わかる」
普段の一人鍋のときも、安い中華麺をわざわざ買ってきて、適当に入れて食べている。どんな鍋にも、俺は基本的にうどんか中華麺だ。
すき焼きは食べたことがないけど、きっと中華麺が合うんだろう。だって、あれも醤油ベースだから。
煮汁が少しずつ減ってきて、代わりに麺が膨らみ艶を帯びていく。箸で掴むと切れそうに見えるが、実際には切れることがなくしっかりと箸に吸い付くように持たれてくれた。
一口すすると、口から勝手に息が漏れ出た。
「ほっとする味やな」
「わかるわ~」
「こういうのでええねんちゃんぽんやな」
「こういうのがええねん」
食べ始めたらあっという間で、変な思考が挟まる余地もなく、一瞬で平らげてしまった。わずかな汁の残った鍋が、途端に空虚に思えてくるが、それでも興味は失われないのだから鍋の持つ魔力というのは凄まじい。
恐ろしいな、楽天地。
店を出てホテルに戻ると、夢愛姉は服を脱ぎ始めた。
「ちょ……っと待て」
「ん? どうしたん」
「ユニットバスで脱げって」
「あ、照れとるな? かわいいやっちゃなあ」
はいはい、と無理やりユニットバスに押し込む。しばらくしてシャワーの音が聞こえてきたから、そのままシャワーを浴び始めたんだろう。夢愛姉があがったら、俺もシャワーをササッと浴びてしまおう。
俺はホテルへの帰りしなに買ってきた水を一本冷蔵庫に入れ、一本を手に取りベッドの縁に腰をおろす。水を一口含むと、冷水が喉から食道を通り胃におさまるのがハッキリとわかった。
いつもよりも、水が美味しく感じられる。酒飲みな夢愛姉はいつも、飲んだ後の冷たい水が一番うまいと言っていたけど、なるほどこういうことらしい。
ビールは喉越しを楽しむ飲み物だとよく言うが、これは体全体で喉越しを感じているような爽快感がある。
夢愛姉の荷物が、チラリと視界の端に映る。夢愛姉はこれから、どうするつもりなんだろうか。ホテルも一晩しか取っていないし、この街が終着点なんだろうか。
それとも、まだ旅は続くのだろうか。俺は、終わりに向けて続く旅路が、まだ終わりじゃないようにと祈ることしかできないでいる。
シャワーの音が止まって少しして、夢愛姉が頬を上気させながら出てきた。ぽかぽかとしているのが見た目からわかるような、綺麗な湯上がり姿から目を逸らして、俺もシャワーを浴びた。
備え付けのパジャマを着てシャワー室から出ると、部屋は暗かった。もう寝るつもりなのかと思ったけど、夢愛姉はさっきまで俺が座っていた場所に腰をかけて、水を飲んでる。月明かりに照らされたその横顔に、心がキュッと締め付けられる。
胸が握りつぶされているかのような圧迫感で動けずにいると、夢愛姉が寝転んで隣をポンポンと叩いた。
「おいで、寝るで」
「う、うん」
当然のように置かれているダブルベッドで、夢愛姉の隣に寝転がる。彼女の体温がすぐ隣に感じられて、居心地が良い。なんとなく顔が見られなくて、顔の右側が熱いのを感じるだけだけど、それでも俺には十分だ。
「結愛くんはさ、なんで私に付き合ってくれるん?」
「好きやから」
言うと、夢愛姉はくすくすと笑った。
「何やねん」
「ごめんごめん、随分気障なセリフ覚えたもんやなって」
「そら俺ももう昔よりは大人やしな」
「せやねえ」
出会った頃は、本当に子供でしかなかったが、今の俺はもう高校生だ。というか、俺たちはそれほど年が離れているわけじゃないのに、夢愛姉ばかりが大人であるかのような振る舞いをしているのが、ほんの少しだけ腹立たしい。
本当は、誰より子供なくせに。
「もう寝るで」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
ゆっくり目を閉じると、ほんの少し世界が回っているような気がした。
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