英雄の決断
権力者の仕組み
ネーゲルは回廊に入った。頭を整えるには歩くに限る。
フェールは去った。間者によると、まっすぐ〈王国〉に向かっている。ニーヴンは〈新たな肉〉の噂で持ち切りだ。グラーツからやってきた〈少年〉たちはいまも暴れまわっている。だがまだ修道院には押しかけてこない。都の民や観光客を殺めてもいない。
ひたすら廊下を歩く。ここにも〈少年〉がいる。赤い覆いを着け、武器を手に、うろつき、話をし、大の字でいびきをかいている。〈少女〉売りのグイドによると、護衛なのだそうだ。
回廊を一周し、結論づけた。噂は消える。耳目を引く別の噂を流せばいい。民は二つのことに注意を向けられない。〈少年〉たちは腹を空かし、いずれ都から出ていくだろう。フェールについては、心配はいらない。すべてをあきらめ、妥協し、大人になるだろう。そもそも神の計画を止めるすべなど存在しない。権力というものを理解できていない。
護衛の〈少年〉が話しかけてきた。
「なあ、なに歩きまわってるんだ?」
「考えごとをしています」
「昼飯はまだか。粥と卵しか食ってない」
「昼食は、昼食の時間に食べるものです。魚が出ますので、もう少し待ちなさい」
「いいから持ってきてくれ。腹が減った。痛い目に遭わせるぞ」
思わずため息が漏れた。グラーツの〈少年〉はどれも猿並みだ。常にいら立ち、感情のままに行動する。道徳を失うと人はこうなる。
ネーゲルは引き返し、〈少年〉に話しかけた。
「年はいくつですか」
「十九だ」
「なぜ十九だとわかるのです」
「年はだれでも知ってるだろう」
「あと三月と少しで年が変わります。恐ろしいですか」
「ああ」
「大人になったらどう生きていくつもりですか」
「わからない。でも、死んでもいい」
「本当にですか」
「ああ。痛くないなら。グラーツでも、大勢死ぬんだ。塔に上って、飛び降りたりして」
「肉になっても構わないと思いますか」
「わからない。でも、死んだらなにも感じないだろう。好きにすればいい」
ネーゲルは考え、質問を二つ発した。
「いつから死ぬことを考えていましたか」
「ずっとだ。十二くらいからかな。わからない。ずっとだ」
「生きるだけのカネがあったら、生きていたいと思いますか」
「どっちでもいい。でも、死んだほうがいいかもしれない。なにも感じないから」
北の回廊を抜け、食堂に入った。闇と静寂が巨大な広間を満たしている。彩りは壁にかけた聖アンナの絵画のみ。両の壁際には食事用の椅子と卓が並んでいる。
グイドが柱のそばにいた。薄い髪をなでつけながら近づいてくる。表情は冴えない。
「上物の〈少女〉を選んでおきましたんで。そろそろ出発します」
「フェールに感化されたのか。〈少女〉売りは引退か」
「まさか。ただ、三歳の子でなにをするつもりなんだろう、と」
「〈楽園〉には様々な方が集まる。欲しいというのならば、用意しなければならない」
「そういう気ちがいだからこそ、大金持ちになれるんですね。おれなんかまだまだだ」
「それから、護衛はもういい。支払いを止め、解散させなさい」
「いや、護衛は必要だと思いますよ。頭のおかしなやつもいるでしょうからね。死んだら元も子もないでしょう。お互いに」
グイドは去った。すぐにミリアスが暗がりから姿を見せた。馬乗り用の灰色の外套を着ている。
明るい回廊に引き返した。ミリアスは楽しげに護衛を眺めている。
「エクスに怒れる〈少年〉たちがやってきた。だが顛末はあっけない。旅で腹が減り、着いたとたん物乞いに早変わりだ。罰金が怖いので民は食わせない。わたしを殺すどころではないな」
「フェールは〈王国〉に向かいました。ニーヴンの〈少年〉も合わせ、約三百の軍です」
「使いの者から聞いた。だがユードは戦をしない。愛する娘の願いであってもな。墓はこちらが握っている」
「イーファ殿が率いるでしょう」
「そんなに勝利が欲しいか。ならばくれてやろう。ディアミドを処刑し、諸悪の根源は滅びた、と満天下に知らしめる。すばらしい。フェアファドの書によると、悪は常に滅びるものだ。ただし、常にひっそりと。そして下草を掻き分ければ、いくつもの悪の新芽が顔をのぞかせている」
「機をうかがい、わたしが交渉します」
「手柄は差し上げましょう。見本市のお礼だ。だが本気で神の計画を止めるつもりであれば、われわれは相手をしない」
「あの男はそのつもりのようです」
「使者を送り、釘を刺しておきなさい。小僧がどれだけ知恵を絞ろうと、われわれには決して勝てない。だがまあ、用心はしておこう。あの〈少年〉はほかのとは少しちがうな」
「人を惹きつける才を持ち合わせています。とくに女を」
角を曲がる。〈少年〉の護衛が四人、固まって話していた。こちらに気づくと立ち上がり、意を決したように近づいてきた。
緑色の両手剣を持つ〈少年〉が言った。
「いまさらだけど、食わせてくれてありがとう。命懸けで守るよ」
ネーゲルは丁重に礼を言った。〈少年〉たちは別れ、それぞれの持ち場に着いた。まじめくさった顔でひたすら前を向く。
ミリアスはせせら笑いを浮かべた。
「これは美談になるな。善行が〈少年〉の心を開いた、というわけだ。ぜひ〈楽園〉で報告しよう」
ネーゲルはミリアスの横顔を見た。目の下にどす黒い袋が垂れ下がっている。教皇も枢機卿も、聖職者はみな似たような顔をしている。ミリアスも赤子のころに祝福を受けたのだろう。三歳までに尻を犯すと、第三の目が開かれる。開かなければそれまで。何度も何度も儀式を受け、一員として認められ、出世した。世はこのようにできている。古代の秘技は永遠に生きつづける。
〈少年〉が食べ物をねだった。ミリアスは袖からチーズを取り出し、床に放った。〈少年〉は怒り、ミリアスの背に怒鳴った。ネーゲルは振り返った。結局拾い、食べた。
ミリアスが言った。
「肉屋は仕事をつづけていますか」
「組合長のジョスは信頼できる男です」
「計画の成功には、絶対的な服従が必要だ。習慣になるまで毎日監視しなさい。エクスの肉屋組合は、大人たちを逃がし、豚の肉を代わりに売っていた。組合長はシュットというやくざ者なのだが、世の中は狂っているなどとわめきはじめた」
「どう収めたのです」
「カネに決まっている。金貨千枚で喜々として人殺しに戻ったぞ。しかし良心というものは厄介だ。どこから沸いて出てくるのか」
「ディアミドなら答えを知っているかもしれません」
「そうだな。いまのも〈楽園〉でも報告するつもりだ。さあ、まいた種は順調に育ち、やがて金色の穂を揺らす。結局、神に仕える者が勝つのだ。豪商どもは土地を得、さんざん儲けるが、老いれば地獄が怖くなり、そっくり財産を差し出す。教区の税金を上げるくらいならむしろ大歓迎してくれるぞ」
ネーゲルはうなずいた。老い先短いというのに、どこから活力が沸いてくるのだろう。これも秘技の賜物か。
「糞はやり過ぎだったでしょうか」
「いやいや。われわれにとっての鍵は、商人どもの罪悪感だ。〈少年〉たちの観察と記録ももちろん大事だが。もっと人の道に外れてもいい」
フェールの表情を思い出す。あんたらは狂っている。そのとおりだ。なにもかもが狂っている。ならばどうする。
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