仲間はずれ
五日が経った。フェールはジョスと公証人を連れ、市庁舎広場に向かった。小さな石造りの両替屋は、じつは銀行だった。
せむしのような主人を呼びつけ、残金を確認した。さんざん待ったあと、巨大な帳簿を抱えて戻ってきた。
「千回確認しても同じ。あんたの口座は凍結済みだ。気の毒だが」
すかさず公証人がまくし立てる。
「正当な法と慣習に則りそのような措置を取られたのですか」
「知らんよ。だが、そいつは〈旧式〉だ。カネを持たせてみろ、軍隊でもつくりかねない」
「ではフェールさんは帝国法院に訴えます。訴状はすでに用意してある」
巻いた紙を広げ、見せつける。両替屋は面倒はごめんだとばかりに顔をしかめた。
「用意がいいんだな。だが訴訟なんて、無駄だ。相手がだれだか知ってるだろ」
「無駄かもしれないが判決が下るまでは凍結は無効だ。フェールさんは全額引き出す」
「殺されるぞ、あんた」
「法と正義のためだ。新たな秩序の礎となれるのであれば、この命など惜しくはない」
両替屋は意外そうな顔で黙った。もちろんなにも怖くないだろう。〈王国〉の姫君の後ろ盾があるのだから。
「わかった。好きにしろ。エクスの司教殿を訴えろ。だがな、カネは引き出せないぜ。おれは拒否する。飢え死にする前に裁判所の命令を持ってくるんだな」
「手形の作成をはじめましょう。全額手形に換え、フェールさんは一部で肉屋のジョス親方に支払う。われわれは仲介手数料一割を折半する。よろしいですね」
両替屋は一瞬ぽかんとしたあと、すぐに鷹のような目つきに変わった。あからさまな賄賂の申し出。
ほんの少し考え、うなずいた。
「中で話そう。ばれずに済む方法がある。まずおれが横領する。ぜんぶ不渡りにする。そのあとで」
ちんぷんかんぷんの話がつづく。公証人の成功報酬は金貨百五十枚。高い授業料だ。自分のカネを取り戻しただけなのに。
両替屋を出て二人と別れた。ひとけのない広場を散歩する。見本市は明日。今日はどう暇を潰そうか。林に行って〈少年〉たちの様子を見てくるか。
エミリアを見つけ、思わず足が止まった。アイラが隣に立ち、卵入りの籠を抱えている。さっと血の気が引き、気づけば歩を進めていた。受け取りはもうやめさせよう。
アイラが兄に気づいた。一歩踏み出したが、エミリアは握った手を離さない。フェールは頭に血が上り、怒りに任せて駆けた。いまなら対決できそうだ。
エミリアの眼前に立ち、堂々と見下ろした。なにを言い出すかと待ち構えたが、なにも言わず、ただ南を向いた。
ひたすら南を見やる。なにかを待っているようだった。アイラは一度目を向けたきり、ずっと暗い顔でうつむいている。とにかく妹を取り戻す。この女とはお別れだ。
小さな修道女の一団が南の通りから入ってきた。エミリアに気づいたのか、飛び上がって手を振った。裾をたくして駆け寄ってくる。
先頭の修道女がかわいらしいかすれ声を上げた。
「院長様。大変な目に遭いましたよ。聞いてください」
「走らないで、マルガリー。はしたないですよ」
アイラがつぶやいた。
「また女の人が増えた」
マルガリーが院長に抱きついた。ほかの五人もエミリアに触れる。みな愛しているようだ。エミリアはにこりともせず、きっぱりと申し渡した。修道女は触れ合ってはならない。
それから女の立ち話をはじめた。修道女たちは異国の商人と連れ立って来たらしい。見本市の日には〈少女〉売りもやってくる。エミリアはネーゲルと話をつけ、〈少女〉救済の許可を得た。聖アンナとの契約に則ったうえで説得する。
修道女の一人が不思議そうに言った。
「〈少年〉たちが、赤松の林で暮らしておりました。腹を空かせ、なにかにおびえているようでした。なぜ強い武器がありながら、町や村を襲わないのでしょう」
エミリアがたしなめる。修道女は好きにものも言えない。
フェールは明るく言った。
「戦ってのは、騎士を捕らえるお遊びなんだ。だからほとんどのやつは、人を殺したことがない。結局、武器を持っててもなにもできない。脅して奪う、って度胸もない」
エミリアが鋭い目を向ける。香のにおいに吐き気すら覚えた。力尽くでアイラを奪うか。とにかく一緒にいたくない。
向こうから切り出した。
「昨日の晩は、旅籠にいらっしゃいませんでしたね」
「来たのか。なんの用だ」
答えない。フェールは頭を振った。アイラの手を取り、引いた。
エミリアは引っ張り返す。もちろんにらみつけながら。
フェールはなるだけ声を抑えて言った。
「昨日は、林で寝たんだ。外がいいってイーファが言うから。これでいいか」
「最近はあなたを弟のように見ていらっしゃるようですね」
「残念ながらちがう。林の奥に空き地を見つけた。火を焚いて、二人で寝た。遅くまで話した。イーファは世の仕組みについて、おれは男女の仕組みについて」
にこりともしない。終わりだ。気持ちはすっかり離れた。イーファが好きになりかけている。ほぼ男だが、一緒にいると楽しい。いろいろ学べる。
エミリアは振り向き、修道女たちを手招きした。
「尼僧院までお供してくださいますか」
「忙しいんだ。とにかく、いままで世話になった。お別れだ」
アイラが兄を見上げた。ようやく笑った。別れると聞いて喜んでいる。
「妹さんをお預けください。あなたといるべきではありません」
「アイラは渡さない。尼さんにするなんて冗談じゃない」
「ではわたしもついていかなければ。悪魔が憑かないよう、あなたを見張らなければ」
見本市の日の朝、フェールはがなり声で目覚めた。表の通りでだれかが叫んでいる。
「グラーツより、憎き〈少女〉売りがやってきた。〈旧式〉の〈少年〉もやってきた。千の大軍だ。昼には到着するだろう。決して食事を供してはならない」
声が駆け抜けていった。なぜかイーファが寝室にいた。鎧戸を上げ、窓から頭を突き出している。なぜか麻の下着姿だった。
アイラはまだ寝ている。そっと離れ、寝台から下りた。こっそり股引を穿く。
イーファが振り向いた。
「大事なものが見えておるぞ」
「どうしてここにいるんだ」
「おまえらの寝顔を見たかった。兄妹というものはいいな。それはそうと、昨日の晩、ボームから手紙が届いた。ここの主人が預かってくれていた。ディアミドを引き渡す代わりに結婚しろ、だそうだ」
「そうか」
「なにがそうか、だ。あいつと結婚するくらいなら邪悪な世を受け入れるほうがましだ。だが困った。あれがそう出てくるとは思いも寄らなかった」
フェールは腰帯を締め、窓辺に寄った。イーファの肩越しに通りを見下ろす。少しすると別の布告人の馬がやってきた。銅のラッパを口に当て、同じ台詞をがなりたてる。
イーファはフェールの手に触れた。
「おまえの策は正しいと言えるかな」
「正義のためだ。エミリアはもう仲間じゃない」
アイラが目を覚ました。取り戻した日の夜、エミリアは旅籠に宿を取った。アイラは悪魔憑きのように取り乱し、激しく求めてきた。エミリアの祈りの声が聞こえてくるようだった。フェールはひたすら話しかけ、抱いてあやした。やがて騒ぎ疲れて眠った。
レイとバジャルド、ドゥオレットを寝室に呼んだ。朝飯を食いながら作戦を話す。見本市の日、大立ちまわりを演じる。
お品書きは相変わらず、雑穀のパンにバター、酢入りの薄いブドウ酒だった。それから炒り卵。イーファが料理人に命じ、毎朝特別につくらせている。好物らしい。フェールはジョスから買った塩漬け豚の塊をたっぷりと切り、みんなに配った。床に敷物を敷き、輪になってすわった。なかなか豪勢だ。
フェールはドゥオレットの飾りを取った。いまだに兄に引き渡すと思い込み、何度飾りを外しても自分で着け直してしまう。
眉が吊り上がった。フェールは手足が飛んでくる前に言った。
「もう着けなくていい。ずっと一緒だ」
「なぜおまえとずっと一緒なんだ」
「手は出さない。口づけも二度としない。ついでに強い。だから安心してくれ」
緑の瞳が燃え上がっている。唇を噛み、瞳が涙でにじんだ。いつか見た顔。
乱暴に木皿をつかんだ。炒り卵をすくっては口に入れる。
「食わないのか。わたしがぜんぶ食ってしまうぞ。大食いだから」
食事をはじめる。フェールはパンをちぎり、バターをつけて噛んだ。塩のおかげでまともに食える味になった。
炒り卵をひと口食った。これは味気ない。塩壺に指を入れてつまみ、ドゥオレットの卵にぱらぱらと振りかけた。
びくっと顔を上げた。なにか言いたげに唇が動く。フェールは気づかないふりをしながら自分の皿にも振りかけ、かき込んだ。とたんにうまくなった。
「王女様の言うとおりだ。塩さえあればなんとかなるな」
フェールは作戦を語った。たいそうなものではない。ただ度胸がいるだけだ。ありったけの度胸が。
バジャルドが不安げな顔で言った。
「ネーゲルさんに悪いな。思ったんだけど、糞入りの肉なんて、いくらなんでも嘘だよ。ネーゲルさんは、あんたを怒らせようとして言ったんだ。期待してるんだ」
「そうかもしれないな。たしかに」
イーファは塩漬け豚をつまみ、真顔でフェールの口に押しつけた。
「こいつから学んだ。こうすると男は喜ぶ」
「あんただとあんまりうれしくないな。どうしてだか」
フェールはかじった。この豚肉は最高にうまい。イーファはドゥオレットに肉を差し出した。
「ほれ、おまえもやってみろ。おまえならこの仏頂面を笑顔にできるかもしれん」
食いかけの肉を受け取り、そろそろとフェールに差し出した。イーファがすかさず言う。
「なんだ、やはり好いておったのか。嫌いな男にそもそもそのようなことはせんわな」
ドゥオレットはさっと引いた。うつむき、自分の口に入れた。バジャルドがげらげらと笑った。
レイは顔をしかめてパンをちぎった。
「隊長、そういうのは隠れてやってくれ。士気に関わる」
ドゥオレットは笑みを押し殺している。卵をすくい、そっと食べた。
「うまくなっただろう。いい塩だ」
こくりとうなずいた。
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