兄殺し

 バスタンの新市街、ぼろ屋が並ぶ通りのどん詰まりに、糞と残飯が山を成している。建物の木の壁はぼろぼろに腐り、白蟻がたかっている。ボームは口に布を当て、三階の窓から通りを見下ろしていた。人足が糞の山を手押し車に積み、運んでいる。巨大な蠅が群れを成して飛びまわる。世の中には一杯の飯のためならなんでもやる者が大勢いる。

 兄に挨拶し自宅に戻ると、コルムが待ち構えていた。兄の代理騎士。兄の影。戦や槍試合、鷹狩りや戴冠式など、兄が面倒と思う行事はすべてコルムが出席する。年は四十、鼻はとうの昔につぶれ、左の顎から喉にかけておぞましい刀傷が残っている。おのれのことは一切話さない。感情もあらわさない。だが現在の立場には満足している様子だった。

「わが主君の命を受け、まいりました。あなたは糞組合の長なのですよ、弟君」

「逃げると思っていたのか」

「失礼ながら。見本市まで時間がありません。樽と車は用意いたしましたので、至急糞をかき集められてください」

「糞はどこにある」

「便所にあります」

「狂っているとは思わないか」

「思っていらっしゃるのであれば、なぜ正されないのです。不平を並べれば正義を成したことになるのですか」

 ボームは窓から離れた。においはどこまでもつきまとってくる。腐りかけた食器棚からブドウ酒の瓶を取り、小刀で栓を開けた。とっておきのやつを家から持ってきた。まるまる空けてしまえばなにも感じなくなるだろう。

 乾杯。ひとり瓶を掲げ、ラッパ飲みした。熱さが腹に広がっていく。見本市は次の金曜、ニーヴンで開かれる。また〈帝国〉に向かわなければならない。糞は〈帝国〉の精肉組合が買い取る。コルムいわく、糞ではなく漬け材料の一種で、組合の中でも正体を知っている者はごくわずかだという。加工し、漬物として販売する。その前に見本市で、〈新たな肉〉、つまり大人の肉の商流をある程度決めなければならない。とびきり安くてそれなりに食える肉。〈新たな肉〉を使った料理も振る舞われるのだろう。商人どもは試し食いするのだろうか。儲けのためならなんでもする連中だ。そうして自然なかたちで邪悪が広まっていく。軽食屋の主人は自分がなにを供しているのかすら知らない。

 さらに瓶をあおった。そう、悪だ。あの兄の弟として、悪には一家言ある。なにも知らない者が悪を広める、悪魔にとってはそれこそが重要なのだ。神は試されている。万物の主はこのような事態を引き起こし、新たな救い主を遣わされようとしている。自分ではないことだけは確かだが。

 ボームは穴ぼこだらけの床にすわった。酔いがまわり、ありがたくも感覚が薄れていく。やけを起こしてしまいそうだ。いや、起こしてやろう。商売に携わるだけでも屈辱なのに、売り物は糞ときた。イーファ殿と手を組み、兄を殺し、オルダネーを再建する。きっとうまくいく。

 どうにか立ち上がり、よろめきながら窓辺に寄った。頭を突き出し、人足に向かって叫んだ。

「そんな仕事などやめてしまえ。心のままに生きぬから、そのように悪霊が取り憑くのだ」


 風呂に入ったがにおいは取れなかった。酔った頭で橋を渡り、旧市街の川沿い、ほとんど唯一の裕福な界隈に着いた。

 三階建ての外階段を上り、突き当たりの扉をたたいた。一階は店で、パン屋に貸している。

 扉が開き、男前の顔がのぞいた。ボームは友に言った。

「飲むぞ。付き合ってくれ」

「まだ昼だ。なにかあったのか」

 騎士オウンは戸惑いながらも招き入れた。家令に支度を命じ、自ら火鉢に火を入れ、長持の上に積んだ毛皮の敷物を取り、戻ってきた。ボームは受け取り、床に敷き、あぐらをかいた。部屋はひんやりしている。冬は近い。

 家令がブドウ酒入りの壺を持ってきた。床に置き、出ていった。オウンは戸棚から杯を二つ取った。いつも床で飲み食いする。卓にすわるのが嫌いらしい。

 向かいにどっかとあぐらをかいた。酒を注ぎながら言う。

「本当は、森で飲むのが楽しいんだがな。いちいち行くのも面倒だ」

「兄が言っていた。椅子は体に悪い。古代人は、寝台に寝転がって食べていたのだそうだ」

「だいぶ酔っているな。それににおう。風呂に入れ」

 杯を受け取り、半分ほど飲み干した。

「戦がしたい」

「同感だ。だが平和はしばらくつづく。教会が」

「その教会を相手にだ」

 オウンは黙った。母の弟の妻の連れ子で、なにひとつ期待されずに育った。面構えは軽薄、剣もたいした腕前ではない。本人もよく知っている。一介の騎士の立場で満足し、収入の範囲内で日々どのように遊ぶかだけを考えている。

 ボームは酔いに任せてすべてを語った。

 家令がつまみを持ってきた。人肉の糞漬け、ではなく、さいころに切った豚の焼肉。キャベツの酢漬けを添えている。

 オウンはいくつかつまんだあと、ようやく口を開いた。

「神の計画の目的は、土地か。一族が途絶えればただ同然で手に入るしな」

「カネは悪魔の道具だ。カネで人間はどこまで堕落できるのか。そこが重要なのだ、悪魔にとっては」

「おれはもう少し悪魔に好かれたいな」

「歴史を紐解けば、よくあることなのだそうだ。古代人はみな、人の肉を食っていた。産んだばかりの子を邪神に捧げ、踊り狂い、食う。兄によるとだが」

 オウンは曖昧にうなずき、ゆっくりと杯をあおった。息をつく。

「殿下は変わらず研究三昧かな」

「兄についてどう思う。弟だと思わず、率直に答えてくれ」

 オウンは外階段に通じる扉に目をやった。付き合いは長い。いまさらたずねるまでもない。たずねるのは、なにかを考えているからだ。

 浮かせた腰を落とし、ため息をついた。

「世がどう動くか、よく考えたうえでの話か。〈王国〉のだれが味方でだれが敵か、きみはちゃんと把握しているのか。おれ以外のだれに話した」

「きみだけだ。何人協力してくれると思う」

 友の目を見る。オウンはすぐにそらし、壺を取った。ボームは空の杯を差し出した。

 黒い液体を満たしながら言う。

「なんのためにだ」

「イーファ殿は、神の計画を糾弾するおつもりだ。そして理由はわからないが、兄の死を望まれている」

「殿下が計画に絡んでいるからだろう。民を煽るためかもな。みなの前で処刑すれば、盛り上がる」

「とにかく、おれは必要とされている。そこで密使を送る。おれとの婚姻が条件だ、と」

「きみは酔いすぎだ。王女を脅迫するのか」

「なぜ無償で協力するのだ。王も喜んで許される。オルダネーは金のなる木だ。兄のせいで何年土地が休んでいるか、わかるか。犂を入れ、種をまくだけでいい。それだけで財が増すのだ。しかも、だれを殺めることなく。すべては神のご意志だ」

「ならばまずは、王に会うべきだな。だが王が許されても、イーファ様は断ると思う」

「なぜだ」

「公爵の弟君にこう言うのは気が引けるが、きみは男として、あまりに魅力がない」

「顔や男ぶりなど関係ないだろう。百姓どうしの婚姻ではないのだぞ」

「では賭けようじゃないか。大きな話だから、村を一つだ。返事はきっとこんな感じだろう。おまえと結婚するくらいなら邪悪な世を受け入れるほうがましだ」

 ボームはがぶりと酒を招き入れ、揺れる頭で考えた。さすがに言い過ぎだ。友とはいえ立場はまるでちがう。だがたしかにそのような返事が返ってきそうな気がする。まちがいなく。

「おれは、決めたのだ。公爵となり、イーファ殿を娶る。世を正せるかどうかは、このおれにかかっているのだ」

「わかったわかった。ではさっそく王に謁見しよう。その酔いがいつまでつづくか、友として見届けてやろう」

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