甘い過ち

 エミリアは未明に目を覚ました。祈りを終えたあと、前庭に出た。

 芝生や葉は露を纏い、かすかに霧が立ちこめている。清冽な空気が肌に心地いい。離れの僧坊はひとりで考える時間を与えてくれた。感情を鎮め、なぜ泣いたのか、なぜ怒ったのかを確認していく。原因は、希望だった。フェールとは少し距離を置いて接しよう。いつまで付き合うのかはさておき。

 散歩しながら包みを広げ、三日月型の菓子を取った。朝は一つだけ、と口に入れかけ、おのれの弱さに思い至った。昨日から食べ過ぎ。ぐっとこらえ、舐めてから包みに戻した。舌の先の甘さを楽しむ。

 門からアイラが駆け込んできた。エミリアは驚き、立ち止まった。なにかあったのか。

 アイラはエミリアに気づき、歩を緩めた。石の歩道に立ち尽くす。逃げもせず、近づきもせず。ひとつはっきりしているのは、兄をたぶらかす修道女を嫌っているということ。

 さりげなく歩み寄り、用件を聞いた。思わず笑みがこぼれた。

 アイラはすかさず言った。

「なにがおかしいの」

「わたしが尼僧院長と話をつけましょう。卵のほかに、みなさんが必要とされているものはありますか」

 アイラは考える。人のために働こうとしている。世は悪いことばかりではない。

「ここのパン、すごくまずいの。なにが足りないんだろう」

「塩です。ネーゲル様の意向で、どのパン屋も塩を控えております。ですが法ではないので、自ら焼くぶんにはいくら入れても構いません」

「塩を持って帰ったら、お兄様は喜ぶかな」

「皆様が喜ばれます。わかりました。ここでお待ちください」

 背を向け、堂に引き返す。アイラが大声で言った。

「お兄様が、冷たくなった。もう変なこと吹き込まないで」

「何度でも申し上げますが、わたしは修道女です。そして王女は、〈少年〉とは決して結婚いたしません。もちろんあなたもいたしません」

 尼僧院長と話し、塩壺一つと卵を籠いっぱいもらった。老女は善良ゆえに悲観的で、気の滅入る雰囲気を常に醸し出している。聖ジニの話はまだしないほうがいいだろう。

 アイラと連れ立って修道院の敷地を出た。交渉の結果を報告する。ネーゲルは今夜、旅籠に顔を見せる。味方にできるかもしれない、とフェールは言っていた。お手並み拝見だ。

 エミリアはアイラの横顔を盗み見た。籠を抱きながらまわりに目を配っている。全員敵だとでもいうように。

「なぜ髪を短くされたのですか」

「お兄様が〈少女〉をぜんぶ売って、わたしだけになった。女らしくするとみんなの気が散るから、男の格好をしろ、って」

「よそではもっと自堕落な暮らしをしておりました。お兄様は変わっておりますね」

「わたしがいたから、お兄様は女を買わなかった。でもこの前、二人目の人を買ってきた。あの人と結婚するのかな」

「いずれはどなたかとされるでしょう」

「絶対いや。お兄様は、わたしの中しか知らない。うれしかった。すごく喜んでた」

 エミリアは立ち止まった。頭に血が上り、思わず声を荒げた。

「二度としてはなりません。兄妹なのですよ」

 アイラはびくりと首を震わせ、振り返った。籠を抱き、おびえながらにらみつける。

「ほら、やっぱり。怒るのは好きだからよ。見ればわかる」

「聖ジニにお入りなさい。主に仕え、人の道を知るのです」

「あなたを追い払ってやる。どうにかして。お兄様はわたしだけのものよ」


 フェールは檻ごと鶏を手に入れ、荷車を牽いて旅籠に戻った。ジェスは燻製肉と、桶一杯の豚脂も売ってくれた。脂は二ポンドで一ソル。なぜか肉より高い。

 アイラとイーファが旅籠の前で待っていた。アイラは卵入りの籠を胸に抱いていた。三十六個で一ソル。フェールは褒めたが、思い詰めた顔でうつむくばかりだった。

 昼過ぎになってようやくレイとバジャルドが帰ってきた。小さな荷車にブドウ酒の樽が一つ据わっている。樽の上にはパンの塊が一つ。

 イーファは樽の栓をひねり、ブドウ酒を指に垂らした。舐め、笑ってレイに言った。

「いくらした」

「樽一つで十二マースだから、十八枚。まさか」

「値段はまちがいないが、これは料理用だ。樽にもちゃんと書いてある。さて、そのパンも怪しいにおいがするな」

 バジャルドは斧槍を地べたに寝かせ、パンの塊を取った。フェールはちぎって口に入れた。恐ろしくふかふかだが、やはりまずい。

 レイがあわてた様子で言った。

「隊長、食うな。一つで金貨半分もするんだ」

 耳を疑った。

「馬鹿か。どう考えても騙されてる」

「ちがう。王家御用達だからだ。よそはどこも土を混ぜるから、うちで買ったほうがいい、って。いいやつだった」

「林には百人以上いるんだぞ。一個だけ持っていってどうする」

「じゃあ土入りのやつを食わせろっていうのか」

 イーファが手をたたいて言った。

「では正解だ。麦の粉を組合から仕入れ、村の竈で焼く。出来合いのパンが高いのは当たり前だ。われわれのパンも旅籠の料理人に焼いてもらおう。ちょうどアイラがいい塩を買ってきたからな」

 とりあえずいい経験になった。ブドウ酒と燻製肉を荷車に積み直し、イーファと二人で林に向かった。アイラにはドゥオレットの世話を任せた。返事もせずに三階の寝室に戻った。男にでも絡まれたのだろうか。少なくとも怪我はしていなかった。

 二本の轅をそれぞれ牽き、広いあぜ道を行く。緑の垣根が畑を縦横に区切っている。百姓が大勢、ざるを持ち、浅い畝に種をまいていた。歌い、祈りながら。

 先の小丘にこんもりとした緑の林が待ち受けている。緩い上り坂を家畜のように牽く。秋の日差しは強く、ときおり背中や腹に玉の汗がつっと這い落ちる。頭を使うよりいい気分だ。イーファも息を切らし、がんばっている。羊毛の上着に革の股引。男の格好をすると髪の長い美青年に見える。

 なんとなく話しかけた。

「カネがかかるんだな、生きるって」

 イーファは前を向いたまま答えない。通行人が大きく避けてすれちがった。フェールではなく、イーファの美貌を恐れている様子だった。

 丘を登り終えた。赤松の林はすぐそこだ。

 イーファが右を指して言った。

「見ろ、栗の木だ。来い」

 荷車を道端に停め、道を外れた。黄色い落ち葉を踏む。巨大な老木が一本立っている。ねじれた幹が根元で四つに分かれ、大きく枝を広げている。

 イーファは根元にしゃがんだ。下草を掻き分ける。王女様が栗を拾いはじめた。

「店で買わずともいろいろ食える。旅に出ると、何日も集落が見つからんときがある。栗を炒ったり、草を湯がいたりして食う。塩さえ持っていればなんとかなる。おまえは魚を釣ったこともないのだろう。まったく」

「たくましいんだな」

「旅はいい。人の世を忘れ、森で眠り、ありのままの世と戦う。貴人は疲れたら、家に帰る。民は一生戦いつづける。だから、王家に生まれてよかった」

 もくもくと拾い、集める。神妙な横顔。イーファはだれよりも美しい。黙っていれば。

「正しく生きろよ。世を変えたくば」

 フェールは背嚢を外し、隣にしゃがんだ。たしか栗の実は中に入っている。短剣を抜き、いがに切っ先を当てた。転がり、うまく切れない。イーファはどけと手を振り、いがを両足で踏んだ。あいだが割れ、栗の実が三つ出てきた。顔を上げて目を合わせ、思わず笑った。イーファもつられて笑った。温かい笑みだった。イーファのことをもっと知りたい。

 次の栗を踏んだ。今度は二つしか入っていなかった。

 栗の実を取っては背嚢に入れる。正しく生きる。

「坊さんは正しくなかった」

「肉屋はいいやつだった。なんだかわからん世だな。つまり結局は、おまえ次第ということだ。世を学べば学ぶほど、魂は淀んでいく。小さな悪に手を染めながら、賢く立ちまわっているとおのれに言い聞かせる。だが神の計画は、正しい心を保たねば目の前から消えてしまう」

「おれと仲間が食わなきゃいいだけの話だからな。民なんか知ったことじゃない」

「さて、わたしにはわたしの計画がある。〈少年〉を率い、〈王国〉に戻り、いま一度戦をする。負けっぱなしでは済まされん」

「なんでもっとはやく言わなかったんだ。その程度のことならおれでもわかる」

「そうかな。では阿呆の頭が成長したか、確かめてやろう。質問せい」

「王は、納得して負けたんだろう?」

「父ではなく、弟のためだ。ロッタは六つ。七年後、十三で王となる。父の恥を抱えたままでは諸侯と対等に渡り合えん」

「生きてるのに王を辞めるのか」

「それも取り決めの一つだ。神の平和がつづくのならば幼王でも問題なかろう、とな。教会は聖パトルスの墓を握っている。言いたくはないが、父は坊主どもの言いなりだ。いいか、無事に生きたまま退位するのだぞ。牢につながれるわけでもない、頭が弱ったわけでもない。ただ辞めろと言われ、笏を手放し、王冠を脱ぎ、一人の羊飼いとして生きていくのだ。これほどの恥があるか」

「わからない。でも、教会としては、子供のほうが操りやすい」

「摂政職には、ランドルーの辺境伯キーンが就くだろう。よく言えば男の中の男、わたしの姉の夫、義兄だ。ロッタが威厳と聖性を授からないまま王となれば、キーンはいずれ幽閉するか、首を絞める。混乱してきたか」

 フェールは素直にうなずいた。

「せっしょうってなんだ」

「そばに付き、支える者だ」

「なんでそのキーンは、ロッタを殺すかもしれないって思うんだ。奥さんの弟なんだろう?」

「権力は常に耳元でささやくのだ。だが王の威厳が思いとどまらせる」

「あんたが摂政になればいい」

「十三の王に女が添うのか。〈帝国〉の諸侯は大笑いするだろう。恥の上塗りだ。なぜ勝利が必要か、わかってきたか」

 いつの間にか手を止め、しゃがんだまま見つめ合っていた。王の威厳。よくわからないが、イーファの顔と似たようなものなのかもしれない。名乗りもしないのにだれもが恐れ、ひれ伏す。ただ美しいからだけではない。

「じゃあ、教会と戦うのか。〈帝国〉はもう戦をしないから」

「そうだ。ここで利害は一致、これからも仲良く栗拾いができる。どうだ、やるか」

 栗拾いに戻る。やたらと出てくる。どんどん割り、背嚢に入れる。林にいる〈少年〉たちにも教えてやろう。

「策を聞かせてくれ」

「教会は翼持つ蛇などではない。腕力では勝てん。ただ悪事を暴くだけではだれも耳を貸さん。だから大勢の者を味方につけるのだ。哀れな民に哀れな〈少年〉。数の力で神の計画を糾弾するのだ」

「やりたいな。できるなら」

「できる。おまえは思っていた以上に、なんというか、いいやつだ。民も好きになる」

「おれもあんたを男勝りだとしか思ってなかった。でも、かわいいところがあるよ」

 イーファは膝を抱き、顔を寄せた。うれしそうだ。

「本当か。わたしはかわいいか」

「神の計画を止める」

「悪を倒し、英雄となる。甲斐はある。ここに褒美もある」

 自分の鼻を指した。まだうれしそうに笑っている。

「もっと世を学ばないとな。王女の旦那になるつもりなら」

「時間はまだある。策を練ろう。ふたりきりで」

 栗でいっぱいの背嚢を背負い、道に引き返す。イーファが尻をまさぐった。フェールはすぐさま後ろ手で手首をつかんだ。イーファは左手で腕をつかんでねじり、無理やり引き剥がした。武術の心得がある。ないほうがいいのだが。

 隣に並び、肩に腕をまわした。固い尻を腰に当て、首投げに入る。色気もなにもない。男どうしの戯れだ。

 フェールは足を絡め、踏ん張った。左の腿を内側から取り、体当たりしながら持ち上げた。

 楽しげな悲鳴。下草の絨毯にどさりと倒れた。

 黒髪が広がる。押し倒したまま見つめ合う。

 イーファはフェールの手を取り、胸に押しつけた。

「王女の胸に触れた。これはまずい。英雄となり、わたしを娶るより道はない」

「さっきのは取り消す。あんたは一生結婚できない。賭けてもいい」

 イーファは首の後ろをつかみ、引き寄せた。唇が触れた。

 ぐいぐいとしばらく押しつけ、離し、息をついた。

「今度は甘い口づけか。もはや取り返しはつかんぞ。どうしてくれる」

 唇まで革と鉄のにおいがした。妙な感触に、フェールは思わずつぶやいた。

「もしかして、あんた」

「なんだ」

「おれがはじめてなのか。下手すぎる」

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