生きる練習
今日から都で暮らしを立てる。生きる練習だ。
朝、旅籠の一階で飯を受け取り、寝室にみなを集め、食った。バターつきのパン一つと、水で薄めたブドウ酒。ニーヴンの水は腹を壊すらしく、酒にはさらに酢も入っていた。はっきりいってまずい。雑穀のパンは固くてぼそぼそで、とにかく飲み込むのに苦労した。アイラはバターを山盛りつけて無理やり押し込んでいたが、そのバターすらまずい。イーファは王族のわりに平然と平らげた。
旅籠を出た。天気は昨日と変わらず快晴。金持ち宿泊客の使用人があわただしく出入りしている。警備兵は昨日と同じ顔ぶれで、さっそく絡んできた。
「またおまえか。覆いをつけろ。何度も言わせるな」
バジャルドが斧槍を担ぎながらあわてて出てきた。
「林に忘れてきただけなんだ。許してやってくれよ」
警備兵は目を剥いた。背後で女の悲鳴がし、フェールは振り返った。
斧槍の刃が戸口の上側を切り裂いていた。着飾った女が青い顔でへたり込んでいる。
アーチの石組みがわずかに動いた。
バジャルドは涼しい顔で斧槍を担ぎ直した。棘が石壁を貫いた。
「頼むよ。顔を合わせるたびに注意するのは面倒だろ?」
「わかった。だから槍を動かすな!」
警備兵は逃げ出した。バジャルドはほっとした顔でフェールに正面を向け、言った。
「なあ、突っ張らないで覆いを着けてくれよ。毎回おれが謝るのか」
フェールは三歩ほど離れ、うなずいた。どうやら素だったようだ。
揺れる斧槍を気にしながらレイに言った。
「昨日言ったとおりだ。買い物に行ってくれ。パンとブドウ酒を人数分。昼前に林に持っていく」
レイは手にした財布を見つめた。明らかに不安がっている。
「隊長、おれ、買い物したことないんだ。知ってると思うけど」
「だれにでもはじめてはある。いいパン屋を見つけてくれ。パンの形と客の身なりを見ろ。役人がいたら、並んでるパンは安全だ」
「ぜんぶ王女様の受け売りなんだろう? それに、どうせ断られる」
「旅籠には泊まれただろう。こっそり売ってくれるやつがいるかもしれない。やってみなきゃわからないんだ」
バジャルドをつけて送り出した。アイラが抱きついて言った。
「わたしたちはなにをするの」
「まともな肉を手に入れる。できるだけ安く。その前に銀行か。あるだけ下ろさないと」
イーファがアイラの両肩を取り、そっと引き剥がした。
屈んで顔をのぞいた。
「おまえは卵を買ってこい」
「どうして。いや。お兄様と離れない。助けて」
鬼越しに手を差し伸べる。フェールは頭を振った。昨晩、見張りをしながら考えた。
イーファが諭す。
「独り立ちしろ。兄が死んだらどうするつもりだ。大通りを歩けば安全だ」
「でも、石を投げられる」
「だれも投げたりはせん。聖アンナの尼僧院に行って、いくつかもらってこい。支払いはいらん。掛けで買う」
「悪い人に捕まっちゃう」
「わめけ。だれかしら助けてくれる」
フェールは市庁舎広場に向かった。〈旧式〉の武器がないと心細い。警戒しながら通りを歩くも、石を投げるどころか顔さえ向けてこない。少し考え、納得した。ずっと〈少年〉たちと暮らしてきたからだ。ニーヴンではうろついていて当たり前。だが仕事には就けない。飯も食えず、施しも受けられない。
酒屋を見つけ、思い切ってアーチをくぐった。がらんとしたなか、巨大な樽が鎮座していた。壁の二つには巨大なアーチが開き、吹き抜けになっている。
右手の戸口に入る。薄暗い大部屋で、男が何人も卓を囲み、くだを巻いていた。
前掛けを着けた給仕女と目が合った。困り顔でいそいそと近づいてくる。
「あんた、だめよ。うちじゃ売れないの」
「一杯くらいいいだろう。カネはある」
「出てって。ね」
腕を取り、振り向かせた。背を押す。フェールは歩を進めながら振り返った。客は飲む手を止め、様々な顔で見つめていた。しかめつらの者、せせら笑う者、酔いすぎてそれどころではない者。
通りに戻り、歩きながら考えた。自分は酒屋で酒を飲めない。あの親父とお袋が産み、顔に入れ墨が入っているからだ。給仕女の手の感触を思い出し、目頭が熱くなった。優しいが、断固としていた。出てって。あなたは同じ人間じゃないの。
市庁舎広場に入り、ぐるりと巡った。通りの角で石造りの小さな建物を見つけた。看板には天秤と金貨の絵が描かれている。ここが銀行だろう。フェールは迷ったあと、中に入った。
長椅子に収まり、順番を待った。客は浅黒い顔の男ばかりだった。いつまで経っても声がかからないので、卓に寄り、せむしのような小男に話しかけた。
男はフェールの顔を見るなり言った。
「〈旧式〉とは取引しない」
「カネを下ろしに来ただけだ」
「預かり証はあるのか」
「なんだそれ」
「どのみちカネは下ろせない。うちは両替屋だ。さっさと出ていけ」
フェールは建物を出た。広場をもう一周したが、それらしい建物が見当たらない。手持ちの銀貨は二百枚。豚一匹で十八ソル。林には〈少年〉が七十人もいる。どうにかしないとすぐに底をつく。
ひとまず旅籠に引き返した。イーファは自分の寝室で、卓にすわり、退屈そうに短剣をもてあそんでいた。どこでぶんどってきたのか、清潔な白の着物を着ている。女に見える。
フェールを見るなりにやりと笑った。
「もうわたしの出番か。やはり母が頼りか」
「その服はどうした」
「買ってきた。一着二十リブレ。安物だ」
「どこでそんなカネを」
「カネなど払わぬ。王族は顔で買うのだ。さあ、行くぞ」
「そうはいかない。アイラまでひとりでお使いしてるんだ。とりあえず肉屋に行ってみる」
「せいぜいがんばれ。母はいつでもここにおる」
肉屋の場所はバジャルドから聞いた。小便をしてから旅籠を出、裏手に向かった。
船着き場のそばの居酒屋通りを突っ切る。広場や旅籠の表側とは雰囲気がまるでちがっていた。道はでこぼこで水溜まりだらけ、軒のある古くさい建物が並び、柄の悪そうな男たちが朝から飲んだくれていた。先ほどの酒屋の客はもう少し上品だった。都にはいろんな界隈がある。
居酒屋通りを抜けると屠殺場に出た。大きく開けていて、右手に船着き場が見下ろせる。丸い帆船が一艘停まっていた。遠目なので大きさはわからないが、でかそうだ。
役人が見張るなか、男が二人、羊をばらしていた。かたわらには剥いだ毛皮が敷物のように広がっている。男は桃色の肉を切っては桶に入れる。もう一人は臓物の入った桶を抱えて向かいの建物に入った。建物の戸口からは煙がもうもうと漏れ出ている。強い磯のにおいに温かな肉のにおいが入り混じる。
フェールは心を決め、肉屋に歩み寄った。イーファの助言どおり、名を名乗り、身分を明かした。
肉屋は手を止め、顔を上げた。まぶしそうに顔をしかめる。革の前掛けは血と脂でどろどろに汚れている。
「よその〈旧式〉がなんの用だ」
「買いに来た。年寄りでいいから分けてくれないか」
「だめだ」
顔を伏せ、仕事に戻った。役人はにやにやしながら見守っている。フェールはなおも頼み込んだ。
肉屋は役人を見上げ、丁重に言った。警備兵を連れてきてください。
役人が消えると再びフェールを見上げた。顔をしかめる。癖だろうかと思い、不意に気づいた。太陽を背にして立っているからだ。戦の基本。
謝り、羊の頭のほうに寄った。肉屋は意外そうに片眉を持ち上げた。
フェールは腰から巾着を外し、袋ごと差し出した。
「おれたちが金持ちなのは知ってるだろう。銀行に、千五百リブレある。一月分、先払いで渡す。仲間が百人もいるんだ」
肉屋は受け取り、揺すった。しゃりしゃりと鳴った。
「持ち逃げしたって捕まらねえんだぜ。おまえのカネなら」
「わかってる。でも、信用するしかないんだ。あんた、いい人に見えるな。大人をばらすような人には見えない」
顔を曇らせ、一瞬目をそらした。
「なんの話だ」
「噂を聞いたんだ。でも、よかった。嘘だったんだな。おれも二年後には肉になるのか、って思って、恐ろしかった」
肉屋はうつむいた。目の前には肋が剥き出しになった羊が横たわっている。羊が話しかけているようなものだ。お願い、おれを食べないで。
顔を上げ、小刀で地面を指した。フェールはしゃがんだ。
「ジョスだ。これでも組合長をやってる。〈旧式〉の得物はどうした。いつも後生大事に抱えてんだろ、赤だの青だののやつを」
「置いてきた。交渉に武器は必要ない」
「どれも売り先は決まってんだ、悪いがな。余分な肉はない」
「じゃあ、客はいつも欲しいだけ買えるのか。豚が森で迷うこともあるだろう。大雨が降ったら車も牽けない。だから余分に持たなきゃいけないはずだ」
ジョスは片眉を上げ、フェールを見た。
「〈旧式〉には売らない」
「禁止されてるのか」
「ああ。法律ができただろ。飯を売るな、食わせるな、家に泊めるな」
「じゃあ仕入れはできるんだな。自分で焼いて食うよ。違反じゃないなら問題ないだろう」
ジョスは鼻から息を吹き出して笑った。
「〈旧式〉が商取引ってか。坊主どももびっくり仰天だな。だれの入れ知恵だ」
「儲かるならいいだろう。カネはカネだ」
「ほんとに口座持ってんのか」
「じつは、引き落とせなかったんだ。エクスの司教が押さえてる。でも千五百は本当だ」
「本当に本当なら、凍結なんざなんとでもなる。公証人の知り合いがいる」
「こうしょうにんってなんだ」
「ふんだくり屋だ」
ジョスは振り返り、小刀で檻を指した。鶏が詰め込まれている。
「あれは婆さんだ。修道院から仕入れてるから、尼さんだな」
笑った。フェールも付き合いで笑う。
「ちょうど飯も抜いてる。燻製にして聖アンナに戻してんだが、手間ばっかで儲けにならねえ。すっぽかしても文句は言われねえだろ」
「なんでだ」
ジョスは少し黙り込んだあと、フェールの足元に財布を放った。
「噂は本当だ。おまえの仲間、大人も混じってんだろ。山には近づくなよ。明日、顔を出せ。公証人と話し合いだ。そのあと銀行に行く」
「助かるよ。あんた、いいやつなんだな」
「いいやつじゃねえ。人殺しだ。人の肉を売る悪魔の手先だ。だがな、〈帝国〉の肉屋組合は、勝つ側についたんだ。お偉いさんがいろんな儲け話を持ちかけてくる。このまえなんざ、皇帝のかみさんが遊びに来たんだぜ。晴れて名士の仲間入りってわけよ。いまのうちにさんざん稼いで、夏の別荘を建ててやる。そう思わなきゃ、やってけねえよ」
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