悪に慣れる
エミリアは閑散とした広場を北に歩いていた。聖ジニの修道女たちを思い出す。聖務はこなしているだろうか。殿方を連れ込んではいないだろうか。
ニーヴンは相変わらず、商人と金持ちの宿泊客が多い。エミリアが院に入る前は、〈少年〉と〈少女〉が三千も暮らしていた。祭りや集会などではよく騒ぎが起きたが、聖アンナの修道士たちがうまく仲を取り持っていた。いまにして思えば、変わった都だ。
聖アンナ修道院につづく北の通りの手前に、幌の日よけを張った憩いの場があった。浅黒い異国の商人が茶を飲んでいる。茶色い髪の売り子が商人たちのおしゃべりに付き合っている。
通りがかる。売り子と目が合った。
「ね、修道女様。おいしいお菓子はいかが。外国から来たんですよ」
神の恩寵。どんな菓子だろう。簡単につくれればなおいい。
幕の下に入り、空いた卓にすわった。商人たちに自己紹介する。ついでに院の宣伝をする。
「聖ジニの尼僧院は、裕福とまではまいりませんが、〈少女〉の解放を願う多くの方々が支援してくださっております」
ひとりが訛りのある言葉で言った。
「評判は知ってますよ。小売りに行ってもいいですか。だが、だれと話せばいいのか」
「ちょうど大修道院長と面会するところです。ぜひおいでください」
売り子が盆を持って戻ってきた。小さな錫の杯がひとつと、砂糖をまぶした三日月型のクッキー。試食なのに十も乗っている。
ひとつ取り、みなが見守るなか、控えめにかじった。薔薇水の香りがする。ざくざくと噛むと、濃いバターと涼やかな甘みが広がった。木の実は歯ごたえがある。思わず頬が緩む。食べたことのない甘さだ。なにが入っているのだろう。
残りを口に招き入れる。がっついているように見えたのか、商人たちが笑った。
「それ、神の木の樹脂が入ってます。だからたくさん食べても、神様は赦されます」
簡単にはつくれないようだ。もう一つ食べ、茶を飲んだ。競い合って食べる修道女たちを思い浮かべ、笑みが止まらなくなった。
これならフェールもおいしそうに食べてくれるだろう。
お土産に五十個ほど包んでもらった。お代をたずねると、すかさず商人が遮った。貸しをつくるつもりなのだろう。エミリアは素直に厚意に甘えた。たまには善意を信じてもいい。
ふと思った。〈少女〉たちも菓子は好きなはず。希望が甘く胸に灯った。なぜいままで思いつかなかったのか。ネーゲルと話をつけ、いまのうちに多くの〈少女〉を開放しよう。やるべきことをやる。
修道院は都の端にある。広大な丘を丸ごと取り囲み、外側は都の囲壁の一部を成している。敷地内はニーヴンの法の外にある。弱い女は神の家に逃げ込み、庇護を得る。〈少女〉は売るが、民は決して売らない。だから赦されるというものではないが。
門を抜け、連れの商人と別れた。広大な芝生を歩く。菜園の様子は昔から変わっていない。植えるのは主に蕪とキャベツ。ニーヴンの〈少年〉たちは週に三回、院で質素な食事を取り、修道院長の講話を聞く決まりだった。だが頭にも心にも響かない。会議で聞いたところでは、神に帰依し、〈旧式〉の武器を捨てる者はただの一人もいない、とのことだった。フェールやよそで暮らしている〈少年〉とはちがい、世を学ぶ機会はあった。なぜだろう。武器や飾りそのものに呪いがかかっているのかもしれない。
エミリアは頭を振り、フェールの存在を頭から閉め出した。同い年だが、弟のような愛らしさがある。世を学び、あの純粋さを少しずつ失っていくのだろう。本人にとってはいいことだ、残念がってはいけない。
正面の回廊に修道士がいた。キャベツ畑越しに声をかけ、用件を告げた。ネーゲルは離れの邸宅にいるとのことだった。修道士は気を利かせ、院長を呼びに引き返していった。
回廊に入り、待つ。中庭には紫色のオシロイバナが咲いていた。かわいらしい鉢植えに、簡素な椅子。どこを見ても質素で穏やか、金ぴかの絵画や調度などは一切ない。
ネーゲルが回廊に姿を見せた。柱の陰に消えてはあらわれる。
角を曲がり、ゆっくりと近づいてくる。年は四十。頭と髭を剃り、青白い顔はいかめしい。修道会の放蕩に目を光らせ、自らも清貧を貫いている。尊敬すべき人物。
エミリアは挨拶した。ネーゲルは離れたところで立ち止まり、言った。
「邸宅に来ていただいてもよろしいのですよ。あなたは聖ジニの院長だ。権利がある」
「林道で、ニーヴンの〈少年〉たちと出会いました。なにかを待っている様子でしたが」
「フェールという名の〈少年〉が、エクスの都で騒ぎを起こしたのです。こちらに向かっているとの知らせを受け、警戒するようニーヴンの〈少年〉たちに命じました」
尊敬すべき人物だが、人並みに嘘はつく。
「神の計画は順調に進んでおりますか」
ぐっと顎に力がこもった。丈に比べて腕が長く、農民のような体つきをしている。実際、日々畑仕事で汗を流している。
「あなたには話していないはずですが」
「なぜお話しいただけなかったのですか。人づてに知り、少々恥をかきました」
「あなたが十七の乙女だからですよ。院の〈少女〉たちも同様だ。聖ジニの特殊性も考慮に入れ、報告の必要なしと判断した。知らなくてよかったのです」
頭に血が上った。ぐっとこらえ、平静を保つ。聖ジニはただの広告屋というわけだ。
「たしかに、驚きました。いまだに信じられないという気持ちでおります」
「あなたとお会いして、もう一年になりますか。変わった〈少女〉がいる、とこちらの尼僧院で噂になっており、〈少女〉たちの院を用意してはどうか、という話になった。当時尼僧院とのあいだにはさまざまな問題があり、わたしはやむなく許可した。これまで何人の〈少女〉を救われましたか」
「十四人です、大修道院長」
「教会会議の決定も耳にされたと思うが、救済の仕事は、しばらく控えていただきたい」
「しばらく、とは」
「では正直に申し上げるが、聖ジニは解散だ。財政的に維持が厳しく、広報としての役に立ってもいなかった。いい機会だとは言いたくありませんが」
エミリアはこらえきれなくなり、ネーゲルに背を向けた。すでに表情が言葉以上に物語っていたはずだ。役に立っていなかった。そのような物言いをする人物ではなかっただけに、よけい堪えた。
しゃがみ込みそうになるのをこらえ、言った。
「愛らしい修道女たちは、人気がございます。祭りの劇に、それから、菓子も。ですので、どうか」
「この話題はもう終わりにしましょう。みなで聖アンナに移りなさい」
「〈苦行派〉には、どのような利があるのですか。大人を屠って」
「そのように泣かれては、話ができない。高ぶりを鎮め、よく考えてから、またお越しなさい」
エミリアは向き直り、正面を向けた。ネーゲルはいかめしい顔を背けた。よほどひどい顔をしているのだろう。
「先頃、ある〈少年〉と出会いました。名はフェール。王女イーファを戦にて捕らえた、フュートの砦の強者でございます」
ネーゲルは目を剥き、首を震わせてエミリアを見た。思わず笑い出したくなった。修道女が泣いたり笑ったり。すべてフェールのせい。
「では、ニーヴンの〈少年〉たちは」
「強者と申し上げたはずです。鍛練を積み、〈旧式〉の武器の扱いに精通しております。ひとりの死者も出さずに収めました」
エミリアはできるだけ自然に見えるよう気を遣いながら、指先で頬を拭った。ネーゲルはしばたたきながら考えている。なにを言うべきか。なにをすべきか。告白すべきか。神に赦しを乞うべきか。
大修道院長は口を開いた。
「その〈少年〉の手助けをしているのですか」
「神の計画を阻止すべく、世を見、謙虚に学ぼうと努めております。賛同しない理由はございません」
「あなたはご自身の立場をお忘れなのか」
「ネーゲル様こそお忘れです。一体、どのような世になってしまったのですか。なぜ殺せなどと命じられたのですか。わたしは立場上、どのように感じればよろしいのですか」
ネーゲルは唇を引き結び、再び顎に力を込めた。厳格さがどこか滑稽に見え、エミリアは失望した。目を合わせつづける。後悔が少しでもあれば目をそらすはずだ。
まっすぐにエミリアを見つめたまま言い放った。
「命じました」
「なぜですか」
「必要なことだからです。あなたには理解できない」
「世間知らずの役立たずだからですか」
「そのとおりです。この世は古代からなにも変わっていない。あなたの目がわずかに開かれた、それだけのことだ」
「フェールさんと話されてください。王女とともに、〈天使の秘め事〉亭に宿泊しております」
「なぜ話す必要があるのです」
「言葉で説得するほうが穏やかでよろしいのではありませんか。この世は邪悪に満ちている、善きことなど一つもない、すべてをあきらめて生きていけ、と。ですが、ネーゲル様のほうが説得されてしまうかもしれません。子犬のような方ですので」
かすかに頬が緩んだ。目を伏せ、笑いをこらえている。よく見た優しげな表情に戻っている。
面を上げ、言った。
「ご報告、感謝いたします。本日、旅籠に向かいましょう」
「神の計画は、つづけられるものではありません。あまりに人の道に反し」
「〈少女〉売りは人の道に反していないのですか。あなたは知り、受け入れた。今度も受け入れるでしょう。フェールという男も、いずれ世の悪に慣れる」
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