恐怖と現実
バジャルドとレイを連れて林を出た。畑のあぜ道を行く。かなり先だが木々の向こうにニーヴンの囲壁が見えた。
後ろを歩くイーファがのんびりと言った。
「なんとも滑稽な戦いだったな。だが剣の腕はいい」
「〈旧式〉どうしだとああするしかないんだよ。間合いに入ってなでるだけで殺せるんだから」
「さて、これで隊が一気に増えた。統率はどんどん難しくなっていくぞ。学ぶべきことは多い。尼さんと戯れている暇はない」
「わかってる」
「エミリアと呼んでください」
バジャルドが困ったような顔で言った。
「なんで女ばかり連れてるんだ」
レイがすかさず答えた。
「隊長はジゴロなんだ」
「ちがう、いろいろ事情があるんだ。それより千人もいるのに、どうしてネーゲルの言うことを聞くんだ。正気じゃないのはわかってるだろう」
「でも、お願いだって言うから。ずっと世話になってきたんだ。戦も、いつもネーゲルさんが手配してくれた。昔から修道士と仲良くして暮らしてきた。おれたち、ちょっと変わってるらしい」
鈍重な鐘の音を聞きながら畑を突っ切った。囲壁の手前には木々が生い茂り、合間に隠れるようにしてブドウ酒蔵や小屋、厩などが立っている。往来はまばらで、狂った楽の音も大勢の叫び声も聞こえない。フェールはとりあえずほっとした。
囲壁に着いたが門が見当たらない。壁は煉瓦色で、ぎざぎざの胸壁が木々の上からのぞいている。エクスの壁よりも高い。バジャルドの案内で壁沿いを左に進んだ。
南門は巨大だった。正面は大きく開け、荷車が悠々とすれちがっている。アーチの頂上には金色に輝く碑文が飾られていたが、もちろん読めない。
仰向いているとエミリアがそばに寄り、言った。
「二百年前、修道士たちは鎚を取り、悪辣な皇帝から都市と民を守った。一つの命も失われなかったのは神の恩寵である。神の世の平和がとこしえにつづきますように」
「神の世はつづけたくないな」
「神は、計画の成就など望まれておりません。いずれ必ず、不義を罰せられます」
「だったらなにもしなくていい」
「フュートの砦では、なにもされておりませんでした。かつての日々に戻られますか」
「冗談だよ。いまのほうがずっと気分がいい。鬼みたいな顔の尼さんもいないし」
「意地悪言わないでください」
門の先は広々と開けていた。巨大な旅籠が立ち、広場を挟んだ向かいには厩がある。通りは清潔で、豚一匹うろついていない。日暮れ前だからか、行き交う者はどれもあわただしくしている。
旅籠の玄関前に黒い革鎧を着けた男が立っていた。厩のほうにも二人。
バジャルドは懐から赤い覆いを取り出し、顔に着けた。
「あんたも着けろ、面倒だから。警備兵はどれも騎士見習いで、〈帝国〉のあっちこっちから入れ替わりでやってくる」
男たちが一列でやってきた。パンやブドウ酒の樽、金物や藁布団などを抱え、ぞろぞろと旅籠に入っていく。そのあと見るからに裕福な男女の一団があらわれた。談笑しながら旅籠を見上げる。男は剣を佩き、女は異様に長い裾を引きずっている。流行りなのだろうか。
イーファが隣に立ち、旅籠の二階を指した。天使の像が通りに身を乗り出している。
「〈天使の秘め事〉亭。昔何度か泊まったが、なかなか上等な宿だ。なにごとも経験、手はじめに全員分の部屋を取ってこい。覆いは着けるか?」
「絶対に着けない」
「好きにしろ。捕まったらしまいだ。わたしは国に帰る。エミリアは院に帰る」
「わかってる。行こう」
フェールは体を揺すって荷を背負い直し、旅籠に向かった。
アイラが追いつき、腕にしがみついた。
「どうして。王女様に任せればいいじゃない。捕まったら」
「もう世話になりたくないんだ。このままじゃ、本当にジゴロになる」
覆いをつけながら暮らすのは死んでもごめんだ。旅をしながらあれこれ策を考えていた。うまくいくかどうかは、試してみなければわからない。
玄関前に立つ警備兵が呼ばわった。
「バジャルド、なんでここにいる。そいつらはだれだ」
バジャルドは歩きながら答えた。
「ネーゲルさんに呼ばれたんだ。ここに一泊して、明日引き返すよ」
警備兵はフェールに顔を向けた。年は同じくらい。頭の中身も自分と同じならありがたい。
「〈旧式〉、覆いを着けろ」
「おれは、特別に許されてる」
「そうだろう。今日でおまえが十人目だ。覆いを着けろ。牢屋に入りたいのか」
「おれは〈王国〉で、イーファ王女と暮らしてるんだ。なんでかっていうと、特別に、ち、ちょう」
振り返ってエミリアを見た。
「寵愛を受け」
「それを受けてるんだ。だから着けなくていいんだ。納得したか」
納得していないようだった。着飾った男女が脇を抜け、フェールに目をやりながら旅籠の中に消えた。虫を見るような目つきだった。
厩から警備兵がやってきた。本当に捕まるのか。
イーファを指し、急いで言った。
「本当なんだ。これが王女だ」
「こちらが王女であらせられます。それから人様の顔を指さしてはいけません」
「そういうことだ。顔を見ればわかるだろう」
警備兵が三人、取り囲んだ。正面の兵はイーファに顔を向け、わずかに眉根を寄せ、言った。
「大変失礼ですが、〈王国〉の王女が、〈帝国〉でなにをされてるんです」
「さあ。そいつに聞け」
警備兵が一斉に詰め寄る。バジャルドが見まわして言った。
「こいつ、馬鹿なんだ。いっつもこんな調子で、ほらばっかり吹いてる。でも、仲間だ。見逃してくれ」
「隊長なら覆いを着けさせろ」
「でも」
バジャルドは肩に乗せた斧槍を無造作に下ろした。花の化け物のような逆棘が頭上から振り落ちる。
警備兵たちは悲鳴を上げ、五歩ほども離れた。
「危ないだろう! もっと慎重に扱えと言っているはずだ!」
「ああ、そうか。悪かった。でもだいじょうぶだよ、扱い慣れてるから」
バジャルドは柄で肩をとんとんとたたきながら懇願した。警備兵たちは答えず、頭上で揺れる逆棘をひたすら見つめている。
一人がようやく言った。
「その馬鹿によく言って聞かせろ」
警備兵たちは逃げ出した。イーファがぱんと手をたたいて言った。
「なんだかわからんが一件落着だ。ほれ、一人一泊いくらか聞いてこい」
フェールはバジャルドに言った。
「ありがとう。助かったよ」
「なんの話だ? それよりあんな嘘、つく必要なんかない。忘れてきた、って言えばいいんだ」
「そんなわけないだろう。だったらそもそも絡んでこない」
「どれもよそから来た騎士見習いだって言っただろ。主人がいないんだから、まじめに仕事をする必要はない。いちおうあれこれ言ってくるけど、覆いなんか見逃してくれるよ。ただすみませんって謝って、顔を立ててやればいいんだ」
「じゃあ、なんでおまえは着けるんだ」
「絡まれるのが面倒だからだ。べつに気にならないし」
言葉が出ない。あれこれ策を練った自分が馬鹿に思えてきた。イーファはすでににやにやし、エミリアも笑みをこらえながら目をそらしている。完全に馬鹿に見えている。
フェールは大股で旅籠に入った。捨て台詞を吐こうとしたがなにも浮かばなかった。
旅籠の主人に値を聞き、引き返した。なぜかなにも言われなかった。
イーファはまだにやにやしていた。
「一人一泊六リブレか。では確かめてみよう。おまえの純粋さは貴重だな。できれば失ってほしくないのだが」
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