菓子か、塩か
狂人の弟
オルダネーのボームは恥辱にまみれ、戦場をあとにした。
戦に敗れ、馬を失い、鎧まで壊れた。捕虜にすらなれなかった。フェールという〈少年〉の顔が何度も浮かんだ。いまは復讐を誓う気力もない。
数刻前、閑散とした戦場で帰り支度をしていると、アルムの伯ゲランが単騎でやってきた。まさか自分に用があるとは思わず、挨拶し、素通りしかけた。
ゲランは早口でささやいた。
「イーファ殿は今年じゅうに軍を率い、〈王国〉に戻られる。辺境の地ランドルーで会われてください。イーファ殿は期待されている」
ボームは振り返り、馬上の男を見上げた。
「なにを期待されているのです」
「長くは話せない。われわれは敵どうしだ」
ゲランの馬は飛び跳ねるような速歩で周囲を巡りはじめた。ボームは混乱し、不意に気づいた。端から見れば小馬鹿にしているように見えるのだろう。〈帝国〉の伯爵がイーファ殿と秘密裏に通じている。なにが起きている。
「あなたはディアミドの弟君だ。広大なオルダネーの地を統治する権利を有している」
「兄が死ねば、そうでしょう」
「ディアミドに近づけるのはあなただけだ。世を正す一助となっていただきたい」
「世を正す、とは」
「神の計画に決まっているでしょう」
「神の計画とはなんです」
ゲランは鞍の上で跳ねながらしばらく黙った。
「公爵の弟君が、なぜ知らないのです。大人となった〈少年〉の肉を民に食わせる。教会の計画だ」
「なるほど。〈王国〉でも食料の値が高騰している。開発を急ぎすぎたせいでしょう。近頃は森も牧草地もどんどん消えていると聞きます」
ゲランは再び黙った。
「あまり驚かれていないようですね」
「ええ。似たようなものを目にしておりますので。もっとひどいことも」
「〈少年〉たちは以後、戦ができなくなる。どのように反応するかも教会は知りたがっている。まずは大人を卸す仕事を与えるのだそうだ。おとなしく従うのか、抵抗するのか」
「ウォーランの大司教、フェアファド殿の仕事ですね。著書の数々は、帝王学には必須と聞いております。そこにさらに、教会は書き加えようとしているわけだ。動物のような人間は、観察には最適ですから」
「いずれは自らの親を屠れと命ずるだろう」
「そうでしょうね」
「恐るべき事態だ」
「ええ、まったく」
駄馬を借り、〈王国〉の騎士十二名と連れ立って北西に向かった。相談できるはずもなく、酒を飲みながら考えた。教会を倒し、世を正す。木剣を持ったばかりの小僧が言い出しそうな話だ。イーファ殿もゲランも、義憤に駆られて手を組んだわけではない。利があるからだ。
ボームはゲランの言葉を一つずつ思い出し、検討した。つまり兄を殺して公爵位を奪い取れということだ。兄はまちがいなく、神の計画に加担している。兄の死がなんらかのかたちで役に立つのか、それとも公爵としての自分を望んでいるのか。公爵の器ではないし、ゲランもよくわかっている。つまり御しやすい。目的はなんであれ。
道が分かれるたびに連れが減る。どの騎士も悲観に暮れ、失墜をいかに挽回するかを考えている様子だった。主君たる王ユードは恥にまみれ、自身も戦で散財した。〈帝国〉で新たな主従関係を結ぶか、まずは財政面を立て直すか。または正義のために立ち上がるか。
ひとり邦に向かいながら、ボームは結論づけた。目的はオルダネーの地だ。公爵位を得たとしても、領地はいったん王に返上しなければならない。その気になって兄を殺し、下賜を待つもいっこうに音沙汰がない。結局手に入ったのは村の二つか三つ。あのボームならこの程度で満足するだろう。
残念ながらそこまで愚かではない。話には乗らない。
オルダネーの領に入ると、荒れ地と森のみになった。かつては栄えていたというが、いまでは鳥も近寄らない。民の大半は兄を恐れ、逃げ出した。
修道院で一泊し、バスタンの町に到着した。小さな濠にかかる橋を越え、ぬかるみを行く。わが故郷。感慨はない。〈帝国〉の旅籠が懐かしい。通りは泥と残飯にまみれ、木の家屋は好き勝手な方角を向き、でたらめに立っている。すべては法がないせいだ。
通りとも呼べない道を進み、新市街に通じる大橋にたどり着いた。堅固な三角屋根が十二、欄干に沿い、長屋のようにくっついて並んでいる。かつては監獄だったが、いまでは兄の実験場だ。
手前側の玄関から入った。小さな待合室の扉を開ける。
薔薇の芳香が顔を打った。ボームは口を押さえながら奥に向かった。花弁が床を埋め尽くし、くるぶしの高さまで積もっている。左手の窓から日が射し、美しい薔薇と右手の牢屋を照らしている。
実験台のうめき声や狂った叫びを聞きながら、次々と扉を開けていく。とうの昔に慣れたが、それでも四肢を切り落とした子などは、好んで見たいものではない。とにかく帰還の挨拶をし、そうそうに退散する。
兄は六つ目の監獄にいた。修道士のような毛織りを着け、窓際の机にすわって書きものをしている。楽だからということで、いつも東方の革の草履を履いている。まともな格好をしているところは見たことがない。
牢屋に背を向け、正面に立った。
「戻りました、兄上」
定規を当て、一文字ずつ丁寧に記していく。話したくなるまでは話さない。
筆の先で牢屋を指し、言った。
「バスタンに流れ着いた〈旧式〉の大人だ。人の形をした羊だ。今日で四日食わずにいる。そこにおまるがあるだろう。食わせてやれ」
ボームはいやいや振り返った。鉄格子の前に木のおまるが置いてある。蓋は外れている。鼻を突くのは薔薇の香りのみ。
おまるに近づき、のぞいた。生の肉が糞にまみれている。牢屋の中の男は、裸で藁敷きに横たわっている。いつもの拷問の跡はない。飢えに関する記録を取っているのだろう。
兄は楽しげに言った。
「この前は、おのれの糞と小便のみを食わせた。おのれが出し、おのれが食うのだ。何日生きたと思う」
「わかりません、兄上」
「飲まず食わずより三週も長く生きた。栄養があるのだ。だが同時に毒でもある。これは食についての重要な問題を示唆している。すなわち、人は食わずとも生きていけるのではないか。かつてはそうだった。時代は下り、人は食という道楽を覚えた。食えば食うほど病気になり、寿命が縮んだ」
「われわれはかつて天使だった」
「そうだな。そして天の界から地に堕ちた。神の計画は知っているか」
「耳にしました、兄上」
「当然、わたしも関わっている。ミリアスいわく、狂人の知恵が必要なのだそうだ。狂人は喜んで協力する。人の肉に糞を混ぜてみようと思う。よりはやく体を壊し、死んでいくだろう。糞を集め、ニーヴンに売る」
もう聞きたくない。ボームは話題を変えた。
「イーファ殿は、〈帝国〉に囚われの身となりました。いまごろはどうされているか」
「だれも身代わりにならなかったのか。ならばわざと捕まったのだろう。不幸な婚姻を嘆き、怒りに駆られ、〈帝国〉で兵を集めてわたしを殺す算段をつけた。そうとも限らんか。いずれにせよ、縁組みはご破算だな。わたしもあのようなお転婆は欲しくなかった」
「お転婆でも王家の血です。曾祖父が公領を授かって以来、縁組みがなかった」
「おまえはわたしの研究を道楽だと思っているようだが、まったくちがうぞ」
「なぜわたしに保証人を立てなかったのです」
ディアミドははじめて顔を向けた。目を見開き、驚いている。
「〈帝国〉で監獄暮らしをしたかったのか。おまえを生かして帰すために決まっているだろう。おまえを糞取引の責任者に任命する。糞屋を組織し、肉屋と話せ」
「恥をかきました」
「恥がなんだというのだ。恥がおまえの頬を打つのか。恥がおまえを破産に追い込むのか」
「わたしは騎士です。十一のころより騎士道を学んだ身」
「ではきれいさっぱり忘れ、これからは商売に励め。戦はしばらくなくなる。少なくともおまえが生きているあいだはな。皇帝は教会の操り人形だ。教会は神の代理の称号を与え、豚のようにおだてている。神の計画の真の目的はなんだと思う」
「わかりません、兄上」
「〈旧式〉と呼ばれる武器や飾りは、さまざまなことをわれわれに問いかける。つまるところ、人とはなにか、だ。だがそんなものは、研究するまでもない。人とはカネに群がる蟻だ。愛、道徳、正義。すべてはカネを前に、もろくも崩れ去る。金貨百枚では愛や道徳を持ち出すが、金貨千枚だと喜んで子を売る。友を売る。親を売る。人を動かすのは唯一、金貨の立てる音のみだ。大きく鳴れば、そのぶん大きく動く。どんなに非道なことも平気で行う。ゆえに計画の真の目的は、人が人たるゆえん、金儲けだ。糞漬けの人肉で民を減らせば、多くの土地財産が手に入るだろう。単純な話だな。神はカネを創造された。神は糞まみれの世を望まれている」
薔薇の香りに耐え切れなくなり、ほとんど駆け足で監獄を出た。橋の欄干に寄り、大きく息を吸い、吐いた。
しばらく川を眺めていた。オルダネーの自然は美しい。民は逃げ、修道会すら近寄らず、人の手がほとんど入っていないからだ。兄のおかげというべきなのか、数少ない百姓はきれいな水を飲め、〈帝国〉の民のような酒浸りにならずに済んでいる。鱒も釣り放題、森の豚はどれも丸々と肥えている。だれもが住みたがるはずなのだ、本来なら。
兄を殺し、公爵としてイーファ殿を娶り、ともにオルダネーを再建する。これほどの希望があるだろうか。あえて罠にかかってみようか。事前に王に会い、了解を取りつければいい。
ボームはため息をつき、欄干から離れた。急ぎ糞屋を組織しなければ。糞はどこで仕入れるものなのだろう。
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