生きるために
赤い民が見守るなか、ミリアスは無防備に背を向け、ぽくぽくと歩を進めている。なぜわざわざ姿を見せたのか。突進し、剣を一閃。それで終わりだ。だが体が動かない。大勢の目があるからだろうか。
レイとヴァイスが両脇についている。どちらも血と残飯にまみれている。女三人は引き返し、都の外で待っている。フェールは軍馬に揺られながら、いままで何人殺しただろうか、と考えた。数えるほどだ。それも、殺そうと思って殺したことは一度もない。
巨大な館を見上げる。通りを塞ぐようにして立ちはだかっているのだが、建物の腹にぽっかりとアーチが開いているので、広場と通りを出入りできるようになっている。聖堂に似た木造の三階建て。あれがミリアスの館にちがいない。こんなところにわざわざ建てるのは性根のねじ曲がったやつだけだ。
ミリアスはアーチの暗がりに消えた。フェールはつづいた。
日差しが消える。左右の壁に戸口が開いている。
ミリアスが言った。
「馬から降り、ついてきなさい。馬の世話は心配いらない」
フェールは左足を上げ、軍馬から飛び降りた。靴底が石の床をこつりと鳴らした。ミリアスはのろのろと裾をたくし、生白い脛を見せた。鞍の取っ手にしがみつき、慎重に足を上げ、ようやく降りた。
左手の戸口に入った。あとを追う。すぐに石の階段に突き当たった。ミリアスは鈍重な衣を揺らし、音もなく上っていく。
薄暗い廊下を行き、左の扉を開け、中に消えた。
レイがささやいた。
「罠に決まってる。きっと兵士が待ち受けてる」
「だったら兵士ごと斬ればいい。腹は決まったか」
「隊長はどうなんだ」
フェールは肩にかけた鞘をつかみ、留め金を外した。柄を握り、ほとんど駆け足で戸口をくぐった。長剣を抜き、身構える。
兵士どころか人ひとりいなかった。豪奢な部屋だった。床や壁は金と青の布で飾られ、金で細工した調度や食器棚、小卓などが配されている。フェールは構えを崩さず、慎重に見まわした。掛け布の向こうに潜んでいるかもしれない。
ミリアスは部屋の中央で、窓を背に立っていた。大きなアーチ型の窓が三つ。あの窓越しに目抜き通りを見下ろし、見物していたのだろう。
フェールは鞘を捨てた。床に落ち、固い音を立てた。
レイとヴァイスが散開した。めいめいの武器を手に左右からにじり寄る。
ミリアスは疲れたような半眼で言った。
「〈少年〉が神の計画を知り、わたしを殺しにやってきた。斬り捨て、勝利。世の中は単純だな。さあ、やりなさい」
「あんたの計画を知って神様はなんて言ってる」
「無駄話はいい。殺しなさい」
「知りたいんだ。わけを知りたい。どうしてそんなことをする。あんたは狂ってるのか」
「わたしは話さない。殺しなさい」
レイに目配せする。やってしまえ。レイはまったく同じ目を向けてくる。隊長が殺せ。フェールは長剣を右の肩口に振り上げた。悪の総大将だ。斬れば世がよくなる。
「どうした。丸腰の老人を相手になにを恐れている」
「おれたちは何者なんだ。だれが〈旧式〉の武器を渡したんだ」
「わたしは話さない」
「おまえは、狂ってる。人の肉を食わせるなんて」
「きみは狂っていない」
かすかに眼差しの色が変わった。飽きたような、失望したような色。
フェールは上段に構えたまま右足で踏み込んだ。左足を寄せる。ミリアスは引かない。どうしておびえない。どうして殺せない。額の傷がうずき出した。これからは毎日つぶてを受けるのか。こいつを殺せば平和に暮らせるようになるのか。別のやつが仕事を引き継ぐだけだろう。それに民は、神の計画など関係なく、畑を荒らす〈少年〉をただただ憎んでいる。戦もできず、仕事にも就けず、みなに憎まれながら生きていく。
ミリアスはヴァイスに顔を向けた。
「聖ルージャの村に大人がいるな。何人だ」
ヴァイスは驚きつつ、もごもごと答えた。
「百、と少し」
「肉屋の組合長を紹介しよう。大人一人につき二ソルの手数料が入る」
「でも、入れ墨が。みんなが石を投げてくる」
フェールはとっさに言った。
「話を聞くな。殺せ」
「隊長が殺せよ」
ミリアスは声を張り上げた。
「名はなんという。父と母から授かった名だ」
「ヴァイス」
「今後は心を改め、神に仕えるか」
「はい」
「では、赤い布で顔を覆いなさい。改心の徴を身に着ければ、民は受け入れてくれる」
「はい」
ヴァイスは槍を下ろした。フェールはさらに踏み込んだ。ミリアスがちらと目を向ける。半眼にはっきりと蔑みの色が浮かんだ。
「どうだ、きみも仲卸をやるかね。二百ソルあれば家を買える。アイラと暮らせる。そうだ、特別に兄妹の婚姻を認めてあげよう。人目をはばからずに愛し合えるぞ」
背筋に冷たいものが走った。なにもかも知っている。
「カネはいらない。貯金がある」
「そうか。では口座を凍結しよう。わざわざ教えてくれるとは」
「ヴァイス。槍を構えろ」
「司教様を殺したら、よけい嫌われ者になるぞ。どこに行っても石が飛んでくる。どうやって生きてくんだ」
「石は飛んでこない。今日だけだ。こいつの策略だ」
ミリアスはあきれたように頭を振った。ゆっくりと屈み、裾に手を差し入れ、布の靴を脱いだ。
床にそろえて置き直し、左手に向かった。一段高く、青の布を一面に敷いてある。立派な椅子が一脚。青地の布がかかり、柔らかく波打ちながら床に流れ落ちている。
ミリアスは段を上り、青の布を踏み、椅子に向かった。
振り返り、椅子に腰を下ろした。
レイが言った。
「おれも働きます」
「村に戻りなさい。大人たちを管理するのだ。羊飼いのように」
フェールはヴァイスの腕をつかんだ。すぐさま振り払った。いつもうつむいていたやつが正面から隊長を見据えている。
「決めたんだ。止めるのか。おれを殺すのか」
振り向き、レイをにらみつけた。レイはあとじさり、頭を振った。
「終わりだよ、隊長。こういう世の中だったんだ。受け入れて生きていこう」
女三人が墓地の芝生に立ち、待っていた。アイラはイーファにしがみついていた。額と髪に乾いた血がこびりついている。イーファは鬱陶しそうな顔をしながら背をさすっている。
兄に気づくやイーファから離れた。抱きつき、必死な様子で見上げる。答えを知りたがっている。
フェールは輪に加わった。エミリアを見る。ヴェールも僧服も茶色く汚れている。顔にはどんな表情も浮かんでいない。
「なぜ殺されなかったのですか。世の悪を」
「あんたの口から聞きたい。この世は狂ってる」
「はい。狂っております。何度でも申し上げますよ、お気の済むまで」
「大人一人で銀貨二枚だそうだ」
「卸の仕事をされるのですね、これから」
「いやだ。世の中狂ってる」
「はい。狂っております。ではなぜ正されなかったのですか」
フェールは目をそらした。エミリアの眼差しが耐えられない。なにがフュートの隊長だ。世の中を知らないうえに、腰抜けだった。だがそれが現実。これからは世を受け入れ、人の肉を売り、生きていく。ミリアスの思惑どおりに。
「大人は百しかいない。商売にならない」
「よそにもおります。大勢」
「本当に食っていけるのか。そのうち、気にならなくなるのか。でも、どっちにしても、生きていかないと」
アイラがしがみついた。
「やめて。悪いことよ。お父さんもいるのよ」
「生きるためだ。仕方がない。これが、現実なんだ」
イーファが喉の奥で笑った。
「そう、なにごともあきらめが肝心だ。身のほどをわきまえ、決して声を上げず、規則に従い生きていく。さあ、もっと悩め。悩め悩め」
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