罠
分厚い門をくぐるなり、フェールは目を剥いた。とてつもない喧噪。目抜き通りを赤い民が埋め尽くし、暴れまわっている。
いや、踊っている。門を抜けたところで軍馬の足が止まった。進むどころではない。赤の波だ。だれもが赤い上着を着、赤い頭巾をかぶっている。楽の音がどこからか漂ってくる。
天使の羽根を生やした女がいくつもいた。足台に乗り、周囲に群がる男たちに酌をしている。両脇の建物はどれも白い布で覆われ、赤い軍旗がはためいている。
白い巨大な塊が建物の屋根越しに飛び込んできた。塊は中空で膨らみ、爆発した。
無数の花びらが降り注ぐ。民は地響きのような歓声を上げた。建物の裏から大砲かなにかで撃ったらしい。
アイラが花びらを払いながら絶叫した。
「ここいや。村に戻ろうよ」
二階の窓から若い男が身を乗り出し、なんのためらいもなく飛び降りた。奇声を上げ、赤の波に背中から落ち、消えた。正気ではない。
そばにいる男が見上げていた。目が合うなり振り返って叫んだ。
「見ろ、〈旧式〉だ。〈旧式〉が馬に乗って来たぞ。やっちまえ」
少しずつ伝わっていく。顔を向ける男が増えていく。
楽の音が止まり、すぐにせわしない曲を奏ではじめた。どこで鳴らしているのだろう。
壺を持った天使がいっせいに歌い出した。
「石を当てたら一杯のブドウ酒。泣かせた男は都の人気者。一人殺せば領主様になれる」
繰り返し歌う。フェールは振り向き、怒鳴った。
「レイ、ヴァイス、エミリアを守れ。王女様はいい」
右手を見下ろす。イーファは両手を突き出し、神妙な顔で前を向いている。
「これは、ミリアスの仕業なのか。ぜんぶおれのために用意したのか」
「そうだろうな。おまえだけのために、大金をかけて」
「いつ来るかも知ってたのか」
「世には間者という者がおる。さあ、権力というものを知るいい機会だ。見事道を切り開いてみよ」
石が飛んできた。フェールは上体を屈めてかわした。あちこちで罵声が上がっている。みなが投げはじめたらさすがに死ぬ。
フェールはイーファに怒鳴った。
「引き返す。出直す」
「なぜだ。なにを恐れておる。わたしはなにも感じぬが」
「あんたも死ぬぞ」
「下民と一緒にするな。言っただろう、下々はわたしに傷ひとつつけられん」
「じゃあなにをどうすればいい。教えてくれ」
「下々は貴人には触れられぬ。やつらは人ではないからだ」
石がいくつも飛んできた。とっさにアイラを抱き、伏せた。ひとつも当たらなかった。
腰を上げ、あらためて赤い民を見まわした。つまり貴人のふりをしろということか。もう破れかぶれだ。騎士の偉そうな言動を思い出し、見よう見まねで呼ばわった。
「聞け。おれはフュートの砦から来たフェールだ。先の戦で、王女イーファを捕らえた。ミリアス殿に引き渡せば、金貨二百枚払ってくれる。道を空けろ。みんなにもお裾分けするぞ」
どら声がそばで怒鳴った。
「〈旧式〉がなに偉そうにしてやがる。おまえらは疫病神だ。畑で麦を踏みつぶした。森で豚を殺した。おまえらのせいで飯が食えなくなったんだ。〈旧式〉は殺せ」
天使は死の歌をうたいつづける。フェールは構わず両の足で馬腹で引き締めた。軍馬は嫌がりもせずに歩き出した。挑むように鼻面を下げ、人の波を押し分けていく。
男が二人がかりで水桶の中身をぶちまけた。アイラともども顔面に受けた。酢だ。何度もむせ、涙がにじんだ。泣かせた男は都の人気者。残飯をもろにかぶった。腐ったキャベツにタマネギ。暑さでよけいに吐き気を催す。フェールは残飯を振り払い、無理やり目をこじ開けた。アイラはすでに泣きじゃくっている。
つぶてが頭に当たった。痛みをこらえ、馬を進める。ほうぼうから飛んでくる。石を当てたら一杯のブドウ酒。
アイラが悲鳴を上げた。フェールはアイラを抱き、伏せた。もう進めない。
イーファは超然と前を向いている。歩を進めるたびに民が身を引き、道を譲る。魔術でも使っているかのように。
「面を上げろ。惨めったらしく這いつくばるな。石は当たらん。おまえがその気になりさえすれば」
つぶてがやんだ。フェールはおそるおそる頭を上げた。男たちの楽しそうな顔。狂った踊り。
レイが叫んだ。
「隊長、ひとり殺そう。びびって逃げ出す」
そうかもしれない。フェールは柄を握り、肩にかけた鞘から長剣を引き抜いた。エミリアはヴァイスの背に隠れ、小さくなっている。白い僧服は茶色いどろどろで汚れていた。頭に血が上った。
長剣を振り上げ、手近な男を見下ろした。男ははっきりとおびえた。戦場にもこういう男がいる。徴集を受け、ただやってきただけの男。ここにいる理由すらわからない男。
柄を握る手に力を込める。男は背を向け、群れを掻き分けて逃げ出した。
次々と威嚇する。わずかずつだが道が開いていく。軍馬は悠々と進む。
つぶてがいくつも飛んできた。伏せる。
「よけるな。馬はよけておらんだろう。石は当たらん。こいつらは牛と同じ。われわれとは住む世界がちがうのだ」
男がイーファに椀の中身をぶちまけた。美しい顔にあらかたかかった。
「ざまあみろ。おい、みんな、王女に小便かけてやったぞ。これはいくらもらえるんだ」
嘲笑。そばにいる男たちが負けた王を口々に侮辱する。イーファは顔も拭わず、平然としている。
小便男が抱きついた。調子に乗りすぎだ。相手は訓練を受けた騎士。
イーファは両のこぶしを勢いよく突き上げた。顎にぶち当たった。男の手首を両手でつかみ、右足を持ち上げ、腕をまたいだ。男は肩が入り、つんのめった。
勢いよく腕を持ち上げた。ばきっといやな音が鳴った。男は悲鳴を上げてうずくまった。
イーファはつばを吐きかけ、頭を蹴り飛ばした。
「屑が。穢れた手で触れるな」
フェールは腰から短剣を抜き、差し出した。イーファは甲高く笑った。
「人質が短剣を持っては、なにがなにやらではないか。だが優しさには感謝する」
「これ以上は進めない」
「なぜだ」
「アイラが。それに、怖い」
「ならばわたしは国に帰る。エミリアともお別れだ。これでは小隊も統率できん。見込みちがいだったかな。やはり阿呆の〈少年〉だったのかな。顔がいいだけの」
石が頬骨に当たった。じんと痺れ、目が見えなくなった。考えろ。とにかくミリアスを見つけ出し、斬ればいい。軍馬の圧もあり、少しずつではあるが進んでいる。楽の音に罵声が歌を添える。アイラは胸にしがみつき、わんわん泣いている。額から血を流し、もつれた髪にも血がべっとりとついている。
「お兄様。どうしてこんな目に遭うの。わたしがなにをしたっていうの」
近くに立つ天使が目を細め、口の端を持ち上げた。おのれの頬に指を触れ、ゆっくりと下になぞる。おまえたちに逃げ場はない。
かっとなって叫んだ。
「だったら殺せ。やってみろ。なにも知らない馬鹿ども。おまえらはこれから、人の肉を食って少しずつ死んでいくんだぞ」
つぶてが飛んできた。逃げるな。石は頭上を越えていった。別のつぶて。よく見、避けた。逃げなければかわせる。下民は貴人に傷ひとつつけられない。
そうだ。こいつらは雑草と同じだ。気にせず踏みつぶせばいい。
フェールは馬腹を蹴りつけた。馬はすぐさま反応し、歩を速めた。軍馬はそこいらの馬とはちがう。化け物じみた巨体に、赤い民はおびえ、次々と逃げていく。互いが互いを押し分ける。フェールはさらに腹を蹴った。軍馬はほとんど駆け出した。民の怒号と悲鳴。何人もがうねりに足元をさらわれ、赤の波に消えた。そばにいるやつは踏みつけるしかない。転べば最後、二度と立ち上がれずに死ぬ。
道が開けていく。イーファが隣を駆けながら愉快そうに言った。
「わかっただろう。これだけの密集だ、ただ進めばよい。こいつらは勝手に死んでいく。上に立つ者は恐怖を操るのだ。剣ではなく」
フェールは下々に怒鳴りつけた。
「退け。おれを通せ。屑どもが寄るな。ミリアス、やってきたぞ。おれを出迎えろ」
エミリアも駆け足でついてくる。足台に乗ったまま取り残された天使が、顔を歪めてこちらを見ている。
フェールはすれちがいざま長剣を振るった。目の前で壺が真っ二つに割れ、天使はぎゃあと悲鳴を上げた。
つぶてはもはや飛んでこない。赤い民は建物の中に逃げ込んでいる。ミリアスの術策に勝った。馬の筋肉のうねりを感じ、興奮が沸き起こった。惨めったらしくひざまずかせてやる。
鐘が力強く鳴り、フェールはびくりと見上げた。聖堂の鐘。軽やかな音が追いかけるようにして連なる。さらに一つ鳴った。
赤い民が左右に分かれていく。するすると両脇の建物の中に消え、やがて一本の道ができあがった。民が何人も地べたに伏せ、死んでいた。
栗毛の馬が正面からやってくる。フェールは馬の歩を緩めた。ゆっくりと近づいてくる。老人は背の高い紫の帽子をかぶり、豪華な紫の布を纏っている。重くひだを寄せ、足首まで流れ落ちている。
少し離れたところで止まった。フェールは呼びかけた。
「おまえはだれだ。ミリアスの使いか。まさか、ミリアスなのか」
老人は答えない。正面を向いてはいるが、目はなにも見ていないように思えた。水死体のような生白い顔に、濁った水色の瞳。目の下に袋が垂れ下がり、痩せた頬と顎に白い髭を蓄えている。
エミリアが進み出た。御前に立ち、頭を下げた。
「お久しぶりでございます、猊下」
「聖ジニの院長殿。ひどい有様だ。なぜこの者たちといるのです」
「道連れとなり、話をいたしました。こちらはフュートの砦のフェール。フェールさん、こちらはエクスの司教、ミリアス殿でございます」
エミリアは身を引き、袖にへばりついた残飯をそっと払った。ミリアスはフェールに顔を向けた。
「それで、なにをしに来た」
「おまえを殺しに来た」
「そうか。では館に招待する。きみの願いは叶えられるだろう」
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