神の計画
砦をあとにした。荷車も驢馬もゲランのものなので持ち出せなかった。背嚢や頭陀袋に入るだけ食糧を詰め、背負った。何日もつのか。飢え死にするのか。いまだに実感が湧かない。
フェールは松明を手に、後ろ向きに歩きながら、アーチと寺院の丸屋根を見上げた。思い出は戦場にあった。砦は大人を蔑み、未来におびえる場所だった。アイラの言葉を思い出す。たしかにこうなってよかったのかもしれない。なんとかなる。エミリアは脅しているだけだ。坊さんはそうして道徳を説くものだ。たしかに効き目はあった。
黒い森を見下ろしながら岩がちな坂を下る。〈少年〉たちはわめきも暴れもせず、おとなしく行列している。まずは寝床の確保だ。森を少し行くと聖ルージャの修道院がある。泊めてくれるだろうか。明日はエクスの銀行に行き、カネを引き出す。
考えたとたんに不安がせり上がってきた。
「カネが消えてるなんてことはないよな」
「はい、ご主人様」
会話にならない。エミリアは杖をつき、後ろを歩いている。さらに後ろでは大人たちが固まり、水筒をあおっている。ときおりエミリアに卑猥な言葉を投げかける。親父も混じっているはずだ。しばらく顔すら見ていない。お袋の死は知っているだろうか。悲しんでいるだろうか。
アイラが腕に抱きついた。眉尻を下げ、兄を見上げる。
「あの人が好きなの? しょっちゅう見てる」
「好きじゃない。気になるだけだ」
「気になるのは好きだから」
「尼さんに手を出したら、神の罰が下るんだぞ。好きなのはおまえだけだ」
「わたし、本気だから。神父様には兄妹だって言わなければいい。愛して。お願い」
前を行くレイがつまらなそうに言った。
「隊長のまわりは女だらけだ」
女で思い出した。アイラに待っていろと言い、行列の脇を駆けた。
行列の途中がぽっかり途切れていた。イーファは下民を寄せつけず、まっすぐ前を見て歩いている。板金鎧は着けたまま。手縄もまだかかっている。
隣に並ぶやいきなり殴りかかってきた。すぐさま手首をつかんだ。
イーファは横目で見、にやりと笑った。
「やるな」
お下げ髪を揺らし、振り払おうと両手を強引に引き寄せた。フェールは離さない。にらみ合う。乾いた血と埃が滑らかな肌にこびりついている。狼の瞳だけは男だが、唇は女、顎も女だ。なぜ男の真似事などをするのだろう。
手を離した。イーファは両手を跳ね上げ、よろめいた。鋼鉄の足を広げ、がしゃりと音を立てて踏みとどまった。
つんと前を向き、ずんずん歩き出した。一瞬、恥の色がうかがえた。
フェールは駆け、追いついた。今度は殴ってこない。
「知ってることを教えてくれ。おれたちはどうなる。だれがなにを企んでる」
「阿呆が考えはじめおった。言っただろう、おまえらは家畜だ。いずれわかる」
「あんたを拷問したら泣いて命乞いするかな」
「下民にはやれん。この顔に傷ひとつつけられん。王女を敬え。汚い言葉で話しかけるな」
「もういい。あんたを旦那に返す。身代金もいらない。うれしいか」
フェールに顔を向けた。意外そうに目を見開いている。
「なぜだ」
「おれは馬鹿だけど戦だけは知ってる。やっぱり王女が捕まるなんておかしい。そもそも戦に出てるのがおかしいんだけど。あんたは婚約もしてるんだろう? あんたを助けたら、王とディアミドってやつから山ほど褒美をもらえる。喜んで身代わりになるやつもいる。なのに馬から落ちても、だれも助けに来なかった。そして皇帝がくれた。なにかおかしいって思ってたら、次はこれだ。あんた、わざと捕まったんじゃないか?」
「ほれ、坂が終わる。森を抜ければ聖ルージャの修道院村に出る。チーズにブドウ酒に、とびきりうまい菓子もある。楽しく一泊しよう。わたしの鎧を脱がせてくれるか?」
フェールは前に向き直った。松明が黒い森に吸い込まれていく。イーファは女のおしゃべりをつづけている。図星なのか。なんのためにわざと捕まる。
短剣を抜き、イーファの腕をつかんだ。歩きながら縄を切る。だいぶきつく結んである。王女様は困惑したようにこちらを見ている。
「本気か。馬もなしで、五十里も歩けというのか。女の身だぞ」
「なんで捕まった」
「教えてもいいが、貴人の言葉は下民には届かん。耳の穴は通り抜けても、阿呆の頭が理解できんのだ」
「だったら好きにしてくれ。勝手に逃げてくれ。あんたといると気分が悪くなる」
森の道を進んだ。腐った落ち葉と湿った土がざくざくと音を立てる。夜の鳥が不吉に啼き、何度も人の影を見た。幻か無法者か。この闇では確かめようもない。
イーファは当然ついてくる。フェールはひたすら考えた。檻の中で悪罵を浴びながら、なにかを問いかけるような眼差しでまっすぐ見つめ返してきた。もしかして自分に用があるのか。だとしたら、あらかじめ皇帝と話をつけていたことになる。〈帝国〉の皇帝と〈王国〉の王女。表向きは敵どうしだが、今回の茶番を考えればじゅうぶんあり得る話だ。目的はまったくわからないが。
先に小屋があらわれた。森がやや開け、建物と木々が入り混じりはじめる。
いつの間にか村を歩いていた。不気味な教会堂に、炭焼きの小屋に、大きな穀物倉。さらに行くと建物が両脇に密集し、目抜き通りをこしらえた。森を抜け、人里に下りてきた。
村を出た先は見渡すかぎりの畑地だった。白い道がまっすぐにつづく。修道院につながっているのだろう。
やがて修道院が闇に浮かび上がった。領内を囲む石壁が行く手を遮るかのように立ちはだかる。
フェールは先頭に向かい、行列を止めた。いくつもの松明が白い道を中心に寄り集まる。自然と門に目がいく。門番などがいるのだろうか。どう話せば泊めてもらえるのだろう。なにひとつわからない。
エミリアが村のほうからやってきた。アイラとドゥオレットを連れている。フェールは〈少年〉たちから離れ、垣根を越えて畑に入った。できるだけゆっくりと歩く。
エミリアが隣に並んだ。フェールは切り出した。
「話をつけてくれるか。あんただって畑に寝たくはないだろう」
「構いません。眠らなければよいのです」
「聞きたいことが山ほどある。たとえば」
「どのようにして生きるか」
「それもある」
「道はすでに、定められているのでしょう。権力に従うのであれば、考え、理解する必要はございません。生きていけるはずです。生きるだけなら」
「奴隷になるってことか。おれたちは〈旧式〉の武器を持ってるんだぞ。騎士だろうが坊主だろうが簡単に殺せる」
「ではなぜ砦では殺されなかったのですか」
門のそばにかすかな明かりが灯った。門扉が開いている。僧服の男が三人並び立ち、ゆっくりと歩を進めている。〈少年〉たちがざわついた。
「行こう。助けてくれ。馬鹿に知恵を貸してくれ」
返事はない。フェールはいら立ちを押さえつけ、門に向かった。とにかく坊さんと話をしよう。あれこれ考えるのはそれからだ。
修道士三人が立ち止まった。蝋燭受けを手に、〈少年〉たちに正面を向ける。
フェールは歩を緩め、呼びかけた。
「おれはフェール。フュートの砦から来たんだ。知ってるか? 山のてっぺんにある寺院だ」
修道士は答えない。目を向けすらせず、ひたすら〈少年〉たちを見つめている。フェールは声を荒げかけ、ふと香のにおいに気づいた。
エミリアが足早に脇を抜けていった。修道士たちのかたわらに立ち、言った。
「聖ジニのエミリアと申します。夜分遅くにお邪魔いたしました」
修道士三人は顔を向けた。驚いている。一様に正面を向け、ゆっくりと頭を下げた。どれもてっぺんを剃り上げていた。エミリアのほうが偉いのか、ただの礼儀なのか。
真ん中に立つ修道士が言った。
「お顔は会議などで何度か拝見しております。わたしは聖ルージャの院長を務めております、ランゲンと申します。こちらの方々は、いったい」
「世にいう〈少年〉たちでございます。先ごろ守護者ゲラン殿が破門の宣告を受け、砦から立ち退き、こちらにたどり着いた次第です」
「戦の悲惨は耳に入っております。わたしどもといたしましては」
レイがいきなり叫んだ。
「戦場なんか悲惨でもなんでもない。おれたちだって、よほどのことがないかぎり殺さないんだ。だれかがゲランさんをはめたんだ」
「そうなのですか。いずれにせよ、武器を持つ者を中に入れるわけにはまいりません。武器を捨てなさい。喜んで一晩の宿を与えましょう」
〈少年〉たちが騒ぎ出した。〈旧式〉の武器を失えば何者でもなくなる。ひとりが言う。暴れたりしない。だから一晩泊めてくれ。
フェールはエミリアの隣に立ち、ランゲンと向き合った。熱病にでも罹っているのか、生白い顔がこわばり、汗が浮いている。
「お願いだから教えてくれ。なにがどうなってる。坊さんはみんな善人なんだろう? おれたちを助けてくれ。カネならいくらでも」
突然震え出した。
「あなたたちを、五十に減らさなければなりません。毒を盛るつもりだったのですが、わたしにはできそうにない」
遠くで野鳥がぎゃあぎゃあと啼いた。ランゲンはうわごとのようにつづける。
「どう、減らせばいいのか。そうだ、ここで殺し合いをしてください。殺しは得意でしょう。自ら死んでください。聖ルージャと、生ける聖者たるフェアファド殿のために」
「だれの命令なんだ」
「ミリアス殿が言われました。大人はすべて、肉屋に送ります。民はこれより、人の肉を食べる。民が多すぎ、食料の値段が上がっているからです。わかりますね? 安価で、とりあえず腹が満ち、やがて病を引き起こす。民は減り、食料の値も下がる。神は計画を立てられた。よりよき世のために」
大人たちは後ろに固まり、くだを巻いている。もちろん話など一切耳に入らない。エミリアはまっすぐランゲンを見つめている。だが青の瞳にはなにも映っていないように思えた。
フェールは思わず口走った。
「なにが、よき世だ」
イーファが甲高く笑った。いつの間にか垣根の前に立っていた。
「どうだ。これが世というやつよ。さあ、どうする」
ランゲンは震える手で腰帯に触れた。垂れた革紐をたぐり、先にくくりつけた小刀を取り、抜いた。口の中でつぶやく。
「すべての罪をお赦しください。わが主よ、どこに行かれたのですか。人の世を見捨てられたのですか。しばらくお姿が見えないのです」
おのれの喉を突いた。血が噴き出し、フェールの外套に飛び散った。夢の中にいるようだ。民は人の肉を食べる。大人が肉になる。
間抜けな言葉が口をついて出た。
「死んじゃだめだ。やめるんだ」
ランゲンは前のめりに崩れ落ちた。
修道士二人は示し合わせたかのように背を向けた。門の奥に消え、ほどなく門扉が閉じた。止めるそぶりも見せなかった。〈少年〉たちが無駄話をはじめた。眠い。疲れた。腹が減った。
フェールはエミリアの横顔を見た。白い僧服と肌に点々と血がついている。唇は蒼白、だが表情は揺らがない。
「よくあることなのか」
「いいえ。決して」
「その、ミリアスってのが、悪玉なのか」
「エクスの司教。ですが、殺したところでなにも変わりません」
「人の肉を食わせるなんて、狂ってる。なんのために」
「先ほどランゲン様が言われたでしょう。民が多すぎ、食料が足りていないからです。病により民が減れば、みなに食料が行き渡ります」
「狂ってる」
「はい。そのとおりです」
「あんたは知ってたのか。あんたもミリアスってやつの仲間なのか。坊さんどうしで」
「いいえ。ですがやはり、殺したところでなにも変わりません」
「ちょっとは変わるだろう。あんたもまちがってるって思ってるんだろう? なにもせずにあきらめろってのか。なにも変わらない、仕方がない、って」
さっと顔を向けた。目を丸くし、驚いている。
フェールは思わず頭を振った。
「なにか変なこと言ったか」
「なにも。ではその剣で悪を正されてください」
「そうする。今日はここで寝る。明日殺す」
「はい。では明日、エクスに向かいましょう。ミリアス殿を紹介いたします」
「速攻でたたき斬ってやる。いや、いちおう理由を聞いてからか。気になるから」
「はい。そうされてください。では寝床の支度をどうぞ」
「布団はどこにある」
「なぜ持ってこられなかったのです」
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