突然の旅立ち
フェールは庭から南の通廊を突っ切った。土の地面は雑草まみれだ。ほとんど掻き分けるようにして離れに向かう。大人たちに草むしりを教えたが無駄だった。寺院の掃き掃除もしない。片手に水筒、片手に箒。動くのは水筒だけ。
目的の場所に着いた。木々の陰に隠れ、石造りの小さな建物がぽつんと建っている。石段を三つ上り、屋根つきの前室に入った。長椅子が二つ、両脇の柱のあいだに据わっている。
玄関から中をのぞく。木の衝立で仕切っているので奥はうかがえない。こするような足音が聞こえてくる。
「尼さん。入っていいか」
足音が止まった。フェールは少し考え、勝手に入った。
衝立をまわりこむ。尼さんは寝台の脇に立ち、待ち構えていた。白いヴェールに鈍重な羊毛の僧服、愚か者を見る氷の眼差し。すべてがそろっている。瞳にはかすかに戸惑いの色が浮かんでいる。
「少し、離れていただけますか」
フェールはまじめくさってうなずいた。一歩、二歩と引き、壁に背を預けた。離れすぎか。
「戦のあいだに、お袋が死んだらしい。便所の穴から落ちて」
尼さんは目を伏せた。
「では、あなたとあなたのお母様のため、今夜は祈りを捧げましょう」
「名前を教えてくれるか」
「エミリア」
「いい家の出か」
「未来が恐ろしいのですね」
青の瞳が見つめる。気まずくなり、目をそらした。
エミリアは丸椅子にすわった。ほっそりした指先を膝の上で重ねる。香のにおいに気づいた。僧服に染みついたにおいかもしれない。
騒ぎが遠くから聞こえてきた。フェールは卓の上の蝋燭に目をやり、口を開いた。
「大人になったら、隊商の護衛でもするよ。飲んだくれにはならない。絶対に」
「〈少年〉は雇うべからず、と法が定めております」
「そうなのか。はじめて知った」
「あなたは荷担ぎにも船乗りにもなれない。村でも働けない。〈少年〉にすがって生きていくよりほかに道はございません」
「だれがそんな法律を決めた。そいつを斬ってやる」
「救いを求めにいらしたのであれば、どうぞお引き取りください。わたしにできることはなにもございません」
「妹と結婚してもいいかな。愛し合ってるんだ」
ゆっくりと手を持ち上げ、衝立のほうに差し出した。腹が立つが去りがたい。たしかに救いが欲しいと思う。自分たちは何者なのか。エミリアはいろいろ知っていそうだ。
ふと〈二人目〉を思い出した。
「連れの娼婦、いただろう? 名前をつけてくれないかな。苦手なんだ。馬鹿だから」
「ドゥオレット。古語で二の娘、などという意味になります。ですがわたしは飾りを外し、直接名を聞かれることを望みます」
「いい名だ。あんたが賢いこともわかった。世のことをもっと知りたいな。よかったら」
「身をもって知るほうがよろしいでしょう。愚か者の耳にはどのような忠告も無駄です」
馬のいななきを聞き、フェールは表に駆け出した。砦では馬は一頭も飼っていない。ゲランの馬は聖ルージャ修道院に置いてきた。
門前に〈少年〉たちが固まっていた。一様に玄関アーチのほうを向いている。松明の炎が三つ、闇に浮かび上がっている。フェールは〈少年〉たちを押し分け、進み出た。
三頭の白馬がゲランと対峙していた。中央の男は背の高い帽子をかぶり、紫の外套を纏っていた。金の刺繍がびっしりと埋め尽くしている。坊さんだ。
隣の黒い外套を着た男がフェールを指さした。中央の坊さんにささやきかける。
中央の坊さんが切り出した。
「隊長とやらが到着したのではじめる。さて、わたしこと枢機卿にして教皇特使のエラムスが、まずはみなに挨拶を送る。アルムの伯ゲラン。わたしは教皇の名において、おまえに破門を申し渡しに来た。理由は以下のとおり。禁令を無視し、先の戦で〈少年〉を雇い入れた。悪魔の武器で千もの民を殺し、〈帝国〉を混乱に陥れ、神の平和を乱した。教皇は決して宣告を撤回しないであろう。申し開きがしたければ、慣習に従い証人を十二人集めたのち、エクスの参事会裁判所に訴え出るべし」
フェールはゲランに目をやった。背を向けているので脂ぎった長髪しか見えない。答えもせず、ただ突っ立っている。よくわからない。
バルークが後ろでのんびりと言った。
「隊長、破門になるとどうなるんだ? ゲランさんは主人じゃなくなるのか」
「それより禁令だ。いつ決まったんだ」
「なんだそれ? なにか問題あるのか?」
「だれも雇ってくれなくなるんだよ! 戦があっても戦に出られない」
バルークはようやく気づいた。嘘だと声が上がった。
「千人も殺してないぞ! 歩兵もほとんど斬ってない」
そういう問題ではない。〈少年〉たちは口々に声を上げる。エラムスは制しもせず、冷ややかな半眼で前を向いている。
騒ぎが自然に収まった。エラムスは重々しい口調で語りかけた。
「〈少年〉たちよ。皇帝は、先の戦における非道ぶりをいたく嘆いておられた」
レイが叫んだ。
「いったいなんの話なんだ。皇帝だって雇っただろう。皇帝も破門になるのか?」
「教皇は〈少年〉全員に神罰を与えるべしと言われたが、皇帝に宿りし神の意は、あくまで平和を望んでおられる。武器を捨てよ。戦乱の世は終わった。〈帝国〉は平和とともに永遠に富み栄えるであろう」
エラムスは手綱を持ち上げ、馬首を返した。お付きの二人もつづく。
玄関アーチをくぐり、遠ざかっていく。ゲランが振り返り、松明を手に〈少年〉たちに呼ばわった。
「見てのとおりだ。わたしは神の庇護を失い、おまえたちの守護もできなくなった。砦はわたしのものだから、すぐに立ち去ってほしい」
一気に怒声が上がった。ゲランは大声でつづけた。
「稼いだカネは、もちろんおまえたちのものだ。カネがあればしばらくは暮らしていける。今晩の宿も見つかる。心配はいらない。さあ、支度をしてくれ」
フェールの肩に手を置き、うなずいた。
「隊長、達者でな。みなおまえを頼りにしている」
フェールは口走った。
「なにが、どうなってる。どこに行けばいい」
「好きなところに行け。そういえば、イーファを人質に取っていたな。どうする。解放するか」
「いや、だめだ。王に会えれば、身代金をもらえるだろう。たぶん。そうしたら」
「〈王国〉に行くのか。それもいい。とにかくみなを食わせ、導くのだ。おまえの仕事だ」
ゲランは肩をたたき、脇を抜けた。〈少年〉たちが道を空ける。口々に理由をたずねる。ゲランは一言も発せず、回廊の暗がりに消えた。
十九の〈少年〉がしがみついてきた。見捨てないでくれと訴える。別の〈少年〉は、どこにも行かないぞ、と叫んだ。別の〈少年〉は槍を掲げ、ゲランを討つと宣言した。うれしそうな声が上がる。滑稽な悪夢。戦うしか能のない者たち。喧騒が耳の奥でひとつの塊となり、遠のいていく。
われに返り、〈少年〉を振り払った。群れを押し分け、寺院に向かう。理由などない。言葉にならない疑問が浮かんでは消える。なにも考えられない。
ぞろぞろとついてくる。フェールは振り返り、大きく腕を振った。
「支度をしろ! ゲランさんの話を聞いただろう。ひとまず、エクスに行く」
「ぶっ殺そうぜ。砦を乗っ取るんだ」
「だったらやれ! おれは、いやだ」
アイラが横から飛びついてきた。思い詰めたような顔で見上げる。
「お兄様。ふたりで暮らそう。わたしも働くから」
「馬鹿言うな。お姫様みたいに楽させてやる。おまえを守るのは得意だ」
「こうなってよかったって気がする。ずっとおかしいって思ってた。お嫁さんにして」
「よし。明日にでも結婚しような」
抱きかかえた。アイラはうなじに顔をうずめた。日に焼けた首筋から真昼の陽光が立ちのぼっている。汗っかきの愛しいにおい。朝はいつもぐっしょりと敷布を濡らす。
エミリアが南の回廊の暗がりに立っていた。柱に手を添え、騒ぎを眺めている。フェールは妹を抱きながら大股で向かった。
こちらに気づいた。柱から手を離し、ゆっくりと前に組んだ。
フェールはエミリアの前に立ち、ひとつ息をついた。言葉を選んで言う。
「悪者はだれで、どこにいる」
「この世には悪者などおりません」
「〈王国〉でなら暮らせるのか。仕事に就けるのか」
「神の地では就けません。現地の法令ではなく、教会会議の決定ですので」
「じゃあ、どうやって生きろっていうんだ。だいたいどうやって〈少年〉を見分ける。武器を持ってなきゃ、わからないだろう」
エミリアは自分の右の頬を指した。
「なぜ入れ墨を入れるのですか」
「標識だ。戦で味方を見分けるために。だれが決めたか知らないけど、どこでもやってる」
「権力はそうしてすでに入り込んでいたのですよ。あなたたちを見分けるために」
アイラが静かに泣き出した。フェールは抱え直し、背をなでた。
「あんたは不吉なことばかり言うんだな」
「途中までお供いたします。どのみち院に戻るにはエクスに寄らなければなりませんので」
振り返り、柱の陰に手を差し伸べた。ドゥオレットが姿を見せた。
「飾りを外したいのですね?」
「はい、聖女様」
エミリアは向き直り、フェールを見上げた。
「しばらくは助けになれるでしょう。その代わり、この方の飾りを外してください」
フェールはうなずいた。アイラを下ろす。もう楽しむどころの話ではない。飾りを外すと正気に返る。おびえて逃げ出すか、それともついてくるか。どうでもいい。
鎖をつかみ、持ち上げた。髪に引っかかった。抱き締めるようにしてうなじのあたりで髪をまとめる。ドゥオレットは背に手をまわした。柔らかな胸が触れる。かんちがいしている。
まとめた髪を鎖に通し、そろそろと持ち上げた。ドゥオレットはとろんとした目で見上げている。
眉が鬼のように吊り上がった。肩を入れ、股間を殴りつけた。
フェールは屈んだ。息ができない。
「よくもわたしの唇を奪ったな!」
目の端で右手が動いた。フェールはすぐさま手首をつかんだ。ドゥオレットは膝で喉を蹴った。変わりすぎだ。
左手で殴りかかってきた。フェールは飾りを持ったまま左腕の外側に触れ、いなした。ドゥオレットはつんのめり、背を向けた。
急いで首飾りをかぶせる。ドゥオレットは頭を振り、もがいた。
「やめろ! わたしに触れるな!」
後ろから腹に左腕をまわした。どうにかかぶせる。ドゥオレットは膝を折り、下から無理やり抜け出そうとしている。柔らかな胸がぐいぐいと腕を押し返す。
エミリアが呆気にとられた顔で言った。
「名は、聞けそうにありませんね。この様子では」
「邪悪な飾り、しばらく着けててもいいよな。旅の支度ができない」
ようやくかけた。ドゥオレットは肩を落とし、すとんとへたり込んだ。
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