第10話 恋のレッスン、はじめましょう。
その日の夕刻、孤児院から帰ってきた私は子供たちのリクエストに応えて翌日用の焼き菓子を作り、オーブンに入れたところでのんびりと自室でお茶を飲んでいた。今日作ったものも気に入ってくれると良いのだけど、と思いながらぼんやりしていると、部屋の扉が遠慮がちにノックされた。
「どうぞ」
トレフもヘルタもこのようなノックはせずに入ってくる。そして、ピッケかウルならこの段階で声を掛けてくる。そのどちらでもないということは、今扉の前にいるのは――
「失礼します」
思った通りのセシルだった。
部屋に入ってきた彼は、やっぱり扉の近くに立ったまま、こちらに近付いてくることはない。私は、正面を指差す。
「トレフに一人掛けのソファを用意してもらったの。隣じゃなくて、向かい合わせだったら座れる?」
「お気遣いありがとうございます」
バカ丁寧に頭を下げたセシルはソファに浅く腰掛ける。真っ直ぐに彼を見つめる私に対して、セシルは膝の上で軽く握った自分の手を見つめるばかりで視線を上げはしない。
――嫌われているのではなくて、恥ずかしがっているだけ。
そう理解すれば、可愛く思えてきて口角が上がる。
「私、思ったのだけど」
「はい」
返事をする時には、ちらっと視線を向けてくる。話をする時はこちらの顔を見なければいけないという認識はあるようだ。
「まずは、話し合いもせずに一方的にただの形式上の結婚、なんて思ってしまっていてごめんなさいね」
「そんな! 私の説明が足りなかっただけなので、貴方が謝られる必要はありません」
「でも、私もセシルのことを理解しようという気持ちが欠けていたわ」
私なんて好きになってくれる人はいない、そう思い込んでいた。愛していますという昨日のセシルの言葉を信じるのなら、彼に対しても失礼な考えだろう。
「セシルは、私が巻き込まれた事件について知っているのよね?」
「はい」
「貴族社会って特にね、若い娘には純潔が求められるの。恋多き女とか、そういう噂があるだけでも良縁からは遠ざかってしまうわ。そんな噂がある状態で結婚しても、あまり幸せではない扱いをされるって聞いたりね」
「……はい」
こんな話をするのは、あまり楽しいことではない。私の視線も、スカートの上に置かれた手に落ちていく。
「そんな中で、私の噂はアレでしょう? 結婚なんて望めないと思っていたし、賊に汚された女を抱いたら自分も汚れると思うのでしょうね。まともな人は遊び相手にもしようとしなかったし、声を掛けてくるのは問題のある趣味のある男ばかり。本気の恋なんて、したところで実ることはないと思っていたわ」
意図的に、そういう思考から逃げていた部分はある。どんなに好きになっても、相手が私を思ってくれることなんてないと思っていたから。誰からも祝福されないと思っていたから。苦しい恋なら、したくなかった。
「でも私は、その噂が真実ではないと知っていますから。もう、気になさらないでください」
真っ直ぐな言葉が胸に刺さる。信じてくれる人がいるというのが嬉しいのに、素直に喜べないのは――
「多分、両親でさえ、私の話を完全に信じ切れてはいないと思うの」
帰ってきた私を見て泣いていた母の顔。安心したというだけではない、憐れみのこもったあの視線。きっと彼女は、私が清純な身体であると心から信じられてはいなかったのだろう。
「なのに、どうして?」
「……貴方が、清く正しい人であると知っているからです」
顔を上げると、視界が滲んでいる。セシルは、私のことを真っ直ぐ見つめていた。
「大丈夫です。私も、それからトレフもヘルタもピッケもウルも、あんな噂は欠片も信じていません。貴方が思っているよりも、私たちは貴方のことが……その……す、好き、ですから」
ぽわっと頬を赤く染めたセシルはそう言うと、また視線を逸らしてしまった。
「ありがとう」
「……貴方の傷が癒えていないことも、多分わかっています」
レディ・ミア、とセシルは私を呼ぶ。
「お迎えにあがるのがこんなにも遅くなってしまい、本当に申し訳ありませんでした。私にもっと実力があれば、もう少し早く迎えに行けたものを」
「それは、どういう意味なの?」
しかしセシルは答えずに、小さな笑みを浮かべた。詳細は、まだ話してくれる気がないということだろうか。いきなり全部突っ込んで聞くのもいけないかしら、と距離の詰め方に迷っているうちに、彼はまた話しだした。
「私は、男なので」
「え? うん、そうね?」
「貴方を怖がらせるのではないかと不安なのです」
静かな調子で、彼は続ける。
「しかも、貴方に対して抱いている感情は、友人や家族、仲間という意味合いではありません。1人の女性として貴方を愛しています。そこにはつまり、昨日もお話したように、醜い欲も混ざっているのです」
セシルは苦しそうに表情を歪めた。悔しそうに拳を握り締めて、苦々しく言葉を吐き出す。
「あんな思いをした貴方にそんな欲絡みで触れるだなんて――冒涜でしかないではないですか」
「……冒涜?」
出てくる単語の強さにギョッとした私に気付いているのかいないのか、セシルは握った拳を振り上げた。
「ええ、冒涜ですとも。私は貴方を傷つけたくはありません。貴方を苦しませたくもない。過去を思い出して辛い思いをすることなど、絶対にしてほしくないのです」
「ええと、気遣ってくれているということよね?」
「下心のある男に触れられるだなんて、不愉快でしかないではないですか。この手は、血で汚れているばかりか、そういう意味でも貴方を汚すばかりだ」
「あの、セシル、だからね?」
「だから、俺は貴方に触れることなど許されるはずがな――」
「セシル!」
話を聞いて、と少々大きな声を出せば、興奮したのかいつの間にか立ち上がっていた彼は、ハッとした様子でソファに掛け直した。
――拗らせてるっていうのは、コレのことよね。
ピッケのしたり顔を思い出しながら、小さな溜息を吐きつつ昨日も伝えたことをもう一度確認する。
「セシルは、私を汚してやろうなんて思ってはいないでしょう?」
「当然です」
「確かにね、男の人が怖くないって言ったら嘘になる部分もあるわ。でも、ちゃんと愛してくれている人からなら、それから私も愛しく思っている相手であれば、触れられたいって思うこともあるんじゃないかと思うの」
「レディ・ミア……」
「昨日はごめんなさい!」
急に頭を下げた私に、セシルは慌てたように立ち上がる。
「レディ、どうなさったのですか。何故頭を……いえ、やめてください、私は貴方からそんな」
「昨日、抱き締めて好きって言って、って言ったのは、その、子供たちの愛情表現みたいなものを想像していて」
「……あ……」
「好きって言葉も、そういうリアクション込みなら信じられるかも、って、私も幼い考えで言ってしまって」
ぽすっ、と気が抜けたようにセシルはソファに沈んだ。
「ああ、なるほど。そういう意味だったのですね」
「ごめんなさい。試すつもりとかはなかったの。私も恋愛とか慣れてなくて」
セシルがどんな気持ちで私を思ってくれているかなんて、全然想像できていなかった。申し訳なくて恥ずかしくて、私は顔を覆った。
「いえ、構いません。私こそ、身構えてしまって申し訳ありませんでした」
彼は、ふっ、と息を抜くように笑ったようだ。しかし、私が顔を上げた時にはもう、その表情はいつものような真顔に戻ってしまっていた。
「でね、だから、私考えたの」
「はい」
崩れていた姿勢を正して、また背中を真っ直ぐに伸ばした彼だったが、しかしまた意識してしまっているのか視線は逸らされているし、口調も冷静なものだった。そんな彼に、私は提案する。
「2人で、恋愛レッスン、してみない?」
思い切って伝えてみたのに、セシルの反応はない。
「まずは、お互いを知るところから。それから、2人で出掛けたり、少しずつ関係を進めていけたら」
そしていずれ、私も彼に恋をした暁には普通の恋人同士のようなことを――
どうかしら? と改めて尋ねてみても、彼は無言だった。表情も一切変わらない。無のままだ。
「……そういうのは、嫌?」
恐る恐る聞いてもやっぱり無反応で、私は自分の眉間に力が入っていくのを感じる。
「私を受け入れてくれたセシルのことを、私も受け入れたい。あなたが私に対して思うところがあるのはわかったけど、私も恋に慣れていなくて知らないことばかりなのよ。だから、一緒に練習しましょ? 時間は掛かっても、そのうちに普通の恋人、夫婦のように振舞うことが出来るようにな――」
「それはありません!」
驚くほどの大声。目を瞬かせた私に、彼は真剣な顔を向けてくる。
「そもそも、今の時点で私は貴方を愛しています」
「ええ、だから、私もあなたを好きになれば」
「それだけで十分です。貴方が私を無理に好きになる必要などありません。私に対して、特別な感情など持たなくて結構です」
え? なんで? どうして好きだって言ってくれているのに私からの気持ちは拒否するの?
唖然とする私に、彼はまた力説した。
「この想いは、俺からの一方的なもので構わないのです。レディ・ミアからの気持ちを求めたりなどしません。ただ、貴方を愛し続けることだけ許していただければ、それだけで良いのです」
「あの、私はあなたを好きになってはいけないの?」
「貴方が、俺を?」
セシルは心底不思議そうな顔をして、しばらく考え込むように首を捻っていたのだけど。
「ははっ、レディは冗談がお上手ですね。そんなことあるわけがないじゃないですか。私にとって都合のいい夢でもあるまいし」
見事なまでの笑顔で私を突っぱねた。
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