生徒会長の先輩は俺にしかアレを見せない

竹道琢人

生徒会長の先輩は俺にしかアレを見せない

 文化祭の空気がまだ少しだけ残る十一月の某日。

 昼が夜にバトンを渡そうとする十七時頃。

 なんだか気がするのだが、ハッキリと思い出すこともなく俺は先輩と生徒会室でノートPCをたたきながら会計報告書を作っていた。


「ふわぁ……。先輩、今日はそろそろ切り上げませんか?」

「そうね。もうすっかり暗くなってきたし、残りは明日にしましょうか」


 テキパキと後片付けをしているのが生徒会長の糸島いとしままどか先輩。成績優秀かつ文武両道の絵に描いたような模範生徒で俺の憧れの先輩だ。

 先輩が制服の上にカーディガンを羽織ると、甘い匂いが生徒会室に舞った。これだけでも気がどうにかなりそうだが、今日はさらにおかしくなりそうだった。

 なぜなら——。


神崎かんざきくん、一緒に帰りましょう?」


 まさかの帰りのお誘い。いつもなら一人で颯爽と帰路に着く先輩だが、何故だか誘われてしまった。無論、断る理由などどこにもない。


「もちろんですよ。喜んで」


 俺たちは真っ暗な生徒会室に鍵をかけ、学校を後にした。


「神崎くんさ」


 狭い路地を二人でしばらく歩くと、先輩はおもむろに俺の名を口にした。


「どうしました?」

「もしかして最近……調子悪かったりするかな?」


 先輩は覗き込むように上目遣いで俺を見上げた。確かにここ最近、調子は万全とは言えなかった。


「そうですね……集中できなかったり眠かったり、それから身体がダルくなることがチラホラありますね」

「……そっか。ちゃんと毎日食べてるの?」


 先輩がこんな実家の母みたいなことを言うのには理由がある。なぜなら、俺が通学のために親元を離れて一人暮らししているのを知っているからだ。


「インスタントとか冷食ばっかりですね。俺、料理ぜんぜんダメなんで」

「も〜、ちゃんと栄養取らなきゃ身体壊すよ?」


 自分ごとのように深刻に悩む先輩。人差し指を額にコツコツと当てているのは何か考えているときのいつものクセだ。うむ。どんな所作も愛らしく美しい。


「そうだ!」


 突然、素晴らしいアイディアが降ってきたように先輩は言う。きっとノーベル賞もビックリな発想が出てきたに違いない。


「私がごはん作るわ! 神崎くんの家で!」

「……へ?」

「そうよ! それがいいわね!」


 ものすごく誇らしげな先輩。おいおいおい。待て待て待て。全く意味が分からないぞ。どうして先輩が俺の家でメシを作る? ……いや、もちろんそんなミラクルが起きれば泣いて喜ぶのだが。


「えっと……先輩?」

「どうしたの神崎くん?」


 何か問題でも? とでも言いたげな顔でこちらを見返す先輩に一応、『正気か?』の意味を込めて確認の言葉を投げかけた。


「先輩、受験勉強ありますよね……? それに男女が密室にいる状況って色々とマズいのでは……と」

「へぇ……。神崎くん、何かエッチなこと……期待してるんだ?」


 先輩は背伸びして整った顔を極限まで近づけながら、揶揄からかうように言った。妙に温もりのある吐息が当たってしまう。


「いえ、そ、そうじゃなくて……先輩の貴重な時間を心配して、ですね……」

「ふうん。それなら心配ありませんっ。一日くらい大丈夫だし、大事な後輩が調子悪そうなのを黙って見過ごせないもの」


 そう言って先輩は微笑みながら俺の制服の裾をつかみ、帰路とは明らかに異なる方向へ引っ張って行く。


「え、ちょちょちょっ、先輩どこ行くんですか」

「どこって、決まってるじゃない」


 スタスタと歩く先輩は振り返って満面の笑みを咲かせて言った。


「スーパーよ」


 ◆ ◆ ◆


『イラッシャイマセ』と自動音声に歓迎されてたどり着いたのは、先輩の宣言通りどこにでもある全国展開のスーパーマーケットだった。

 先輩は入店と同時にカゴとカートを一つずつ取り出し、スムーズに押していく。流れる動作から察するに、やはり日頃から買い物しているらしかった。


「ふんふふ〜♪ 神崎くん、何か食べたいものはあるかしら?」


 鼻歌まじりに先輩が言う。確かこういうケースの場合、『なんでもいいって言っちゃう男はサイアク』と恋愛系インフルエンサーが言っていた気がする。

 故に俺は、反射的に浮かんだド定番料理をリクエストした。


「えっと、じゃ、じゃあハンバーグで!」

「ハンバーグか……それならひき肉と玉ねぎと卵と……あとパン粉ね」


 先輩は瞬時に必要な食材を浮かべていく。これだけでもう普段から料理していることが窺い知れた。


「あ、そうだ。神崎くん、ちょっと聞きたいのだけど」


 唐突に先輩が立ち止まって俺に尋ねる。一体どうしたと言うのか。


「神崎くんのお家の台所事情をいま簡単に教えてもらえるかしら?」

「近い近い。先輩、顔が近いです。いまちゃんと思い出しますんで」


 目と鼻の先に迫った麗しい御尊顔と距離を取り、俺は台所の様子を思い出す。うーん、自炊はしないのに無駄に調味料や油は揃っていた気がする。いつだか母が送ってきた過去を思い出しながら、俺は台所事情を赤裸々に伝えた。


「なるほど。じゃあ基礎的な調味料や油はお家にあるっていう前提で買い物を進めるわね♪」


 先輩はニコニコと張り切って買い物を再開した。この状況はどこか休日のカップルか夫婦に似て……いや待て、落ち着け俺。

 このシチュエーションは一体なんなんだ。憧れの先輩とスーパーで買い物、そしてこれから自宅で手料理を堪能って……おかしいが過ぎるだろう。

 ……夢か。これは夢か。それともあれか。新手のドッキリか何かなのか?

 荒ぶり昂ってしまう俺の心を他所に、精肉コーナーへ進んだ先輩が俺を手招きして興奮気味に言う。


「神崎くん見て! こん挽肉、バリ安かと!」

「……なんて?」


 聞き慣れない言語。聞いたことのないイントネーションに全身が違和感を覚えた。その発信源と思しき人物に目線をやると……ふむ、何やら赤くなっている。


「ななな、なんでもないわ! 挽肉がすごーい安かったからその感動を分かち合いたかっただけよ。……そ、それだけ!」


 なるほど。顔を真っ赤にするほど特売の挽肉に興奮した、というわけか。先輩は可愛い。やはり可愛い。……とはいえ方言チックな音が混ざっていたような、そうでもなかったような?


「神崎くん、ボーッとしてないで早くこっち来て!」


 違和感の正体を解明する暇もなく、俺は言われるがまま先輩の後ろを歩いた。


「ハンバーグなら付け合わせは茹でたニンジンにブロッコリー、ジャガイモにトウモロコシってところかしら」

「なんか本格的ですね。洋食店みたい」

「彩りが豊かだと栄養もバッチリ揃うのよ。食材って不思議よね」


 先までの赤みは消え失せ、すっかり元の調子に戻った先輩。バシバシと必要なものを買い物カゴへ入れていくと、また何か思いついたように俺へ問いかけた。


「神崎くん、スープがあるとやっぱり嬉しいかしら?」

「そうですね。いつも汁物はわざわざ用意しないのであったら嬉しいです」

「そうよね! じゃあ、ベーコンと顆粒コンソメとキャベツがあれば……うん、野菜もたっぷり摂れるわね」


 先輩は無駄なく必要なものをカゴに入れていく。肉、野菜、卵、パン粉にスティックタイプのコンソメ。いつも加工食品がカゴいっぱいになる俺とは対照的な光景だった。


「じゃあ、レジで精算済ませちゃいましょうか」


 先輩は空いているセルフレジに進み、テキパキと商品バーコードをスキャンしていく。瞬く間に合計金額が表示されると、何の躊躇ためらいもなく先輩は鞄から財布を取り出した。


「先輩、流石にそれは……」

「どうして? だって私も一緒にハンバーグ食べるのよ?」

「それでも、ここは全部俺が出させてください」


 半ば無理矢理に先輩の財布を引っ込めさせ、俺は二次元バーコードでさっさと会計を済ます。手料理をご馳走になるというのに、お金まで出させるわけには到底いかなかった。


「神崎くんって、意外と強引なとこあるのね」


 俺が袋詰めをしている横で先輩が言う。


「いやいや、フツーのことだと思いますよ」

「ふふふ。カッコつけちゃって。もう……しょんなか子ね」

「なんて?」

「な、なんでもないわよ。ほら、はやく行きましょ」


 先輩がまた聞き慣れない言葉を発した気がしたのだが、混雑した店内の音に掻き消され上手く聞こえなかった。


 ◆ ◆ ◆

 

 自宅へ向かう道中。薄暗い路地で肩を並べ歩く二人。


「それにしても先輩ってすごいですよね。生徒会長やって剣道部でも結果出して、それでいて今みたいにサクッと買い物も済ませて……スーパー高校生っていうかなんというか。その原動力とかモチベってなんなんです?」


 いま自分の隣を歩いている人は同じ高校生であっても、明らかに雲の上の存在。どんなモチベーションがあればそんな結果を出し続けられるのか、純粋に尋ねてみたかった。


「どうしたのいきなり? ……うーん、でも特別なことはしてないかなぁ」

「……頭の良い人はみんなそうやって言いますよね」

「ホントだってば。でも……認められたいとか、すごいって思われたい気持ちが多少なりともそうさせてるのかも」


 先輩は自分自身を顧みているのか、声のトーンを下げて話していた。


「認められたいって、誰に? 親とか先生ってことですか?」

「それはさ……」


 先輩は急に立ち止まり俯いてしまった。マズい。あまり触れてはいけないジャンルの話だっただろうか。


「……気付きんしゃい、バカ」

「え?」


 一瞬、チラリとこちらを見てから先輩は足早に俺を追い越していった。


「ちょっと先輩! 待ってくださいよ〜、なんか怒ってます?」

「この話おしまーい! さっさと行きましょ! 私、お腹すいちゃった!」

「あ。先輩、俺の家そっちじゃないです」


 ◆ ◆ ◆


 自宅。狭くて古い1Kの部屋に暖色の明かりが灯る。


「お邪魔しま〜す。へぇ、意外と綺麗にしてるんだ?」


 羽織ったカーディガンを脱ぎながら辺り一面見渡して先輩が言う。憧れの人が自分の部屋にいる……こんな特別シチュがこの先どれほどあるのだろうか。いや、ない。平凡な俺にこんなミラクルは二度と起きないだろう。

 

「カーディガン、預かりますよ。ハンガー掛けときますね」

「お、気が利くね。ありがと〜」


 バクバクと落ち着くことを忘れた心臓を他所に、俺はいたって平静を装う。本当なら先輩にボロくてしょーもない部屋を見られるのは死ぬほど恥ずかしいのだが、ポーカーフェイスを決め込むことにした。ファイトだ、俺!


「ベッドでもそこの座布団でも適当に座ってくださいね。いまお茶淹れるので……って、え?」

「ふぅ〜、なんだかんだそこそこ歩いたわね〜」


 と、俺のシングルベッドに腰掛けたと思いきや先輩はそのまま寝そべってしまった。おいおい、男臭くないか大丈夫か? 一昨日洗ったばかりだが……こんなことならシュッシュしておけばよかったかもしれない。

 ああ……未来予知の力があったなら。


「あ、神崎くんの匂いする。すんすん……よか匂いばい」


 待て待て待て待て。いま何した? 何て言った? っていうか匂い嗅いだ?

 思春期のオスの寝具をそんなに嗅いだら……ああ、もうダメだ。何も気にしてないフリしてお茶を淹れるしか俺にはできない。

 グツグツと電気ケトルが水をお湯に変えていく。その音で少しだけ正気に戻った俺は母が送ってきたなんとかティーのパックでお茶を淹れ、部屋のローテーブルにゆっくり置いた。


「先輩、そんなにゴロゴロすると制服汚れちゃいますよ。はい、お茶どうぞ」

「ん〜、ありがと。じゃあさ……」


 猫のようにベッドでくつろいでいた先輩は身体を起こし、妙に魅惑的な目と声で言った。


「神崎くんの服、貸して?」

「……………………へ?」


 はいぃぃぃぃぃぃぃぃぃ? それってあれか、彼シャツみたいなことだよな?

 そういうショート動画観たことあるぞ。いいよな、あれ。全男子の夢だよ。

 それを、先輩が? マジで? っていうか先輩、今日キャラおかしいよな?


「これから料理もするし、もし余っている服があれば……なんだけど。あ、パジャマとかジャージとかそういうのでもぜんぜん大丈夫」

「は、はひ! 用意します!」


 動揺して変な声が出た気がする。ポーカーフェイスなぞ俺には不可能だった。……まあ、それはともかくとして、先輩が着られるお召し物を探さねば。

 クローゼットを開けて雑に収納された服を物色する。パリパリの清潔なYシャツなぞはないし、くたびれたTシャツを着せるわけにもいかない。それならば……。


「これでいいですか? ちょうど昨日洗ったばかりなんで綺麗です」

「ふふ、馴染みがあって安心感あるね。ありがと」


 俺は体操着一式を先輩に手渡した。すると……。


「着替えるからちょっとあっち向いててくれる?」

「ほえ⁉︎」


 再び情けない変な声をあげた後、俺は思考と身体が停止する。まさに時が止まった形相だったと思うのだが、そんな俺の耳元に顔を近づけて先輩は囁いた。


「冗談よ。期待しちゃった?」


 生温かい吐息の熱が耳から全身に伝わっていく。


「ふふ。脱衣所、お借りします♪」

「そそそ、そこの右側の扉です」


 先輩は流し目でイタズラっぽく笑いながら横を過ぎていった。

 ……今日の先輩はやっぱりどこかおかしい。こんな小悪魔なキャラは今まで一度たりとも見たことがない。何が先輩をそうさせているというのだろうか。

 確かな違和感を感じながら買ってきた食材を台所に並べると、脱衣所の方から小悪魔じみた声が響いた。


「神崎くーん、覗いちゃダメだからね?」


 わざわざそんなことを言わなくてもいいはずなのに、先輩は俺を煽る。故に想像してしまう。この壁の向こうで、今まさにお着替え真っ最中の先輩の姿を。


「そ、そんなことしませんよー。中学生じゃあるまいし」


 ひとまず俺は無難に返事して挑発には乗らない姿勢を強調。本当はご存知の通り、先輩の術中に見事ハマってしまっているわけなのだが。


「男の子って意外と綺麗好き……なのかな?」


 脱衣所に入った先輩の独り言を耳が捉える。

 年季の入った単身用アパートは、こんな風に壁が薄い。つまり何が言いたいかというと、音が生々しく聞こえてしまうのだ。

 例えばほら……布が擦れて床に落ちる音、トップスを被るときの微かな息づかい、ジャージの袖に腕を通す摩擦音。こんな音さえも聞こえてくるだろう?

 両耳に全神経を集中させていると、脱衣所のドアの開く音がした。


「ふ〜、やっぱり緩めの服はラクだね〜」


 高校の体操着をまとった先輩の姿。当たり前だが、胸には俺の苗字の刺繍が施されている。……なんだろう、この気持ち。プレイスレス。


「神崎くん? どうしたの?」

「ああ……いや、なんでもないです。ハンガーこれ使ってください」

「うん、ありがと」


 差し出したハンガーに制服をかけ、座布団に正座してから先輩は華奢な両手でマグカップを持ち上げた。


「いただきます。……ぷは〜、温かいのが美味しい季節になったね〜」

「もう十一月ですもんね」


 ここで俺はハッと気付く。俺の部屋で、しかも俺のネーム入り体操着を着てお茶飲んでほっこりしてる先輩を見られるのって……もしや地球上で俺だけなのでは?

 バカみたいな気付きで一人テンションの上がる俺に目もくれず、先輩は立ち上がって言った。


「じゃあ、早速作るわね。台所、拝借してもいいかしら?」

「あ、はい。もちろんです。俺も手伝いますね」

「神崎くんはゆっくりしていて? なんだから」

「?」


 先輩はそう言ってテキパキと料理を始めていった。後半の言葉の意味がわからなかったが、よく考えれば俺が狭い台所にいてもただ邪魔になるだけで先輩の判断は正しいと思えた。


「〜♪♪♪」


 先輩がよくわからない歌を口ずさむ。

 俺はテレビを見るでもなくスマホを眺めるでもなく、台所のジャージ姿にただ見惚れてしまっていた。

 そして部屋中が、癒しの音で満ちていく。


 野菜を洗う水の音。

 ピーラーが擦れる音。

 電子レンジの稼働音。

 まな板と包丁が出会う音。

 ガスコンロに火が灯る音。

 油のひかれた鍋で食材が踊る音。

 その鍋に注がれた水が満ちていく音。


 聴覚、視覚、嗅覚、さらには心の全てが至福を覚えていた。

 憧れの人が織りなす幸せのハーモニーに全身が溶けてしまいそうになった時、愛しい声が俺の名を呼んだ。


「ねぇねぇ、神崎くん」


 先輩が台所からこちらを覗き込むように顔を見せ、手招きしている。

 何か困ったことでも出てきたのだろうか。


「どうしました?」

「一緒にさ、ハンバーグこねない?」


 公園で遊ぶ少女のような笑みで先輩は俺に提案してくれた。

 もちろん、この誘いを断る理由はどこにもない。

 ……だが、先輩よ。俺にハンバーグをこねこねした経験はないぞ。


「いいですね! やったことないんですけど、どうしたらいいですか?」

「材料はもう全部入れてるからさ、ひたすらこねこね〜ってするだけよ」


 俺は先輩の指示のもと、入念に手を洗ってからボウルの食材に触れる。冷たくグニャッとした感覚に最初は抵抗を覚えたが、先輩のガイドがあるとなんだか楽しくなってくる。そして不思議と、指先が快楽に似た気持ちよさを覚えていた。


「こう……ですか? ちゃんとできてますかね?」

「そうそう。あっ、そんなに力入れなくても大丈夫。うん。もっと……ゆっくり。大きく……かき混ぜるようにして。そう。うん、上手上手」


 まとまりのなかった食材たちはいつの間にか一つの球のようになっていた。ふむふむ、なるほど。このタネをいくつかに分割成型してからフライパンで焼けば、美味しいハンバーグが出来上がる……ということだろうか。


「じゃあ、好きな大きさを手に取って……空気、抜いていこっか」


 失敗しない為の一手間をかけるということで、先輩は手のひら大のタネを手に取り、両手でキャッチボールをするようにタネに含まれた空気を抜いていった。慣れた手捌き。その様子は手品師か何かのようだった。


「はい、神崎くんもやってみて?」

「うっす」

「うん、そう……あっ、そんなに焦らないで? ゆっくり……ゆっくりでいいの。パンッ、パンッって一回ずつ確かめるように……そうそう、上手だわ」


 懇切丁寧な先輩の指導のおかげで空気抜きまで楽しく終えられた。俺と先輩の大小様々なタネが並ぶ。


「後は焼くだけね♪」


 タネまみれの手を洗った先輩はフライパンに油をひき、ガスコンロのもう一口に火を灯す。しばらく放置。表面温度を上げていく。

 そして、かざした手で熱具合をなんとなく感じ取った先輩は、成型したタネをフライパン上に優しく置いた。

 蓋をしてもなお、肉の焼ける音と香りが食欲を刺激する。


「お肉を両面しっかり加熱したら出来上がりよ」

「先輩、手際良すぎです。マジですごい。いや、ホントに」

「ふふん。もっと褒めてくれてもいいのよ」

 

 鼻高々な先輩を団扇うちわで仰ぐように褒めまくると、時は過ぎていき肉は裏返されていった。


 ——ああ、笑い声飛び交うこの時間がずっと続けばいいのに。


 そんな想いがふと過ぎった時、先輩はフライパンの蓋の持ち手を握った。

 どうやら肉に火の通った音が聞こえてきたらしい。


「きっとものすごく美味しいハンバーグになってるわよ」


 自信に満ち溢れた先輩の表情。

 間違いない。この世で一番美味いハンバーグがそこにあるはずだ。

 外される蓋。のぼる水蒸気。立ち込める肉の香り。

 ——そして。


「神崎くん、見て! ばりきれか焼き目ばい!」

「……先輩?」

「…………」


 ◆ ◆ ◆


 部屋のローテーブルに並んだ、綺麗な焼き目のハンバーグと付け合わせの茹で野菜。それから厚切りベーコンが入ったごろごろ野菜のポトフ。

 それらは決して洋食店に見劣りしない素晴らしい出来栄えだ。

 だが、温めたパックごはんを乗せた茶碗片手に……先輩は荒ぶっている。

 ——博多弁で。


「方言訛りが恥ずかしか女子ん気持ちわかる?」

「……いや、あの……はい」

「しぇっかく上手うまう誤魔化しとったとに、しゃっちがツッコミますかね」

「あの……なんだか、その……すみません」


 もう隠すこともはぐらかすこともしなくなった先輩は、吹っ切れた様子で博多弁を炸裂させていた。

 どうやら高校進学と親御さんの転勤が重なって家族で上京してきたらしく、それ以前はずっと博多にほど近い街で暮らしていたようだ。

 それで、この博多弁。……いい。率直に言って非常にいい。ニュアンスで十分理解できる。そして、何よりも可愛い。可愛すぎる。


「学校では隠しぇよったとに。もう……キミのしぇいなんやけんね」

「隠さなくてもいいですよ。少なくとも俺の前では」

「え?」

「だって、かわいいから」

「……バカ」


 博多が育てたスーパー高校生は、果実のような真っ赤な顔でチビチビと白米を口に運ぶ。ゴクリと飲み込むその喉の動きがやけに艶かしく見えてしまったのは、俺がこのシチュエーションにのぼせているからだろう。


「しゃあ、冷めんうちにハンバーグ食べて? しぇっかくキミんために作ったんやけん」

「あ、はい。すみません」

「もしも自分で食べれんのやったら……あーんしちゃろうか?」

「ええ⁉︎」


 おいおいおいおいおいおいおいおい。いいのか、本当にいいのか?

 そんなことをして本当に全国の先輩ファンに怒られないか?

 全国にファンがいるのかは不明だが、この可愛いさは全国レベルで間違い無い。っていうか、学校にはファンクラブが存在するくらいだ。

 大丈夫か、俺? 暗殺とかされないよな?

 いやしかし、先輩の箸であーんなんてされたら……それはつまり間接キ、キ……。


「はい、あーんっ」

「あーん」


 先輩は箸先で一口サイズにしたハンバーグを俺の口元に運ぶ。

 咀嚼。肉のジューシーな旨味が肉汁とともにケチャップの甘い酸味と融けあって口の中で広がっていく。


「どげん? うまか?」

「…………」

「あれ? お口に合わんやった?」

「うまぁぁぁぁぁい! 先輩、これお店の味ですよ!」


 本当に美味しい。これがきっと天にも昇る美味さというやつだろう。

 咀嚼。咀嚼。幸せの味を逃さぬよう、口いっぱいに頬張ってこれでもかというほど噛み締めた。

 

「ふふふ。慌てて食べると喉に詰まるばい」

「らって……おいひふへおいひふへ」

「はいはい。食べながら喋らんの。スープ飲んで落ち着きんしゃい」


 野菜やベーコンの旨みが滲み出たポトフを口に流し込む。

 適度な油分を含んだ幸せの液体が食道を通り、全身に染み渡っていった。

 

「先輩。俺、いま世界で一番めちゃくちゃ幸せかもです」

「ふふ、大袈裟ばい。ごはん食べただけやろ?」

「誰かが作ってくれたごはんって久々で嬉しくて……。こんなにも温かくて優しくて、それでいて元気が出るものなんだって忘れてました。やっぱり、食事を適当に済ませちゃダメっすね。本当にありがとうございます」


 美味しさの感動を、想いを、正直に言葉にした。

 これは紛れもなく俺の身体と心が感じた、嘘偽りも誇張もない言葉だ。

 どうか目の前の女性に、憧れの人に届いてほしい。

 ——そう願ったとき、彼女は言った。


「もっと……元気だしゃしぇちゃろうか?」


 隣に並んで座っていた先輩の細く白い手が、俺の太ももにしっとりと触れる。

 え? なにこれ? マジ? マジでそういうやつ?

 嘘、ちょっ、待っ……心の準備ができてな——むむむ?


「はい、お誕生日おめでとう」


 先輩はいつの間に準備していたのやら、綺麗にラッピングされた赤く薄い長方形の包みを俺に差し出した。

 わけもわからず唖然としたまま反射的に包みを受け取った俺は、スマホの日付を確認する。

 今日の日付は……十一月の七日。まさしく俺の誕生日だった。


「俺……今日、誕生日だったんだ」

「神崎くん、ましゃか自分の誕生日忘れとったと?」

「……はい。あんまり誰かに祝ってもらうことってなくて、だいたい普通の日だったので……。本当にもらっちゃっていいんですか?」

「キミんために用意したんやもん、受け取って?」


 ラッピングを少しずつ綺麗に剥がし、折りたたんで置いておく。

 包みから顔を覗かせたのは——。


「……シャツ?」

「うん。ネルシャツばい。キミに似合うかと思うて」


 厚い生地のこれからの季節に重宝しそうな茶色チェックのネルシャツ。

 なぜこれがチョイスされたのか理由はわからなかったが、憧れの人がわざわざ選んでくれて贈ってくれた一品だ。嬉しくないわけがない。

 そして、感極まったものが……出る時は出てしまうものだ。


「……神崎くん? どげんしたと?」

「先輩に……憧れの人に、こんな風にしてもらえるとはぜんぜん思ってなくて。今日はなんか奇跡みたいで……その、本当に……ありがとうございます」

「意外に泣き虫しゃんなんやね。ほら、こっちおいで?」


 先輩は男泣きの俺を抱き寄せ、頭を優しく撫でながら言う。


「神崎くん。来年もさ、ウチにお祝いしゃしぇてほしかっちゃけど、よかね?」

「え? それってどういう……?」

「もう。言わしぇなぎんしゃい、鈍感。よかと? ようなかと?」

「……いいに決まってますよ」

「ふふふ。そげえしたらしゃ……」


 俺の耳元に先輩の唇が近づく。そして、たおやかにあでやかに囁いた。


「そんネルシャツ、クタクタになるまで着たらウチにも着らしぇて? もちろん……こん部屋で」


 十七回目の誕生日。理性が崩壊しかける一日だったのは言うまでもない。

 


 

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