Evil III——悪魔(3)
自分は聖気だ。
聖気であることの恐怖を、ディレスは常に感じていた。聖気であるということは常に、邪気となることと隣り合わせだと。
仕事の時に汚れを吸う量は一定だと言われても、具体的には分からない。神の命で汚れを吸収している期間は安全だと説かれても、証拠を見たわけでもない。
もしかしたら一定量を制御できるのが高等天使だけだったら?
能力の足りない天使は誤ってしまうかもしれないとしたら?
いつ限界量を超えてしまうのか。
自分は大丈夫だと安心できる時などなかった。
「今までだって怖かったよ! いつ自分たちが邪気になるかわからない。いっそ邪気になってしまえば楽なんじゃないっかて思ったこともあったさ」
この恐怖から逃れるにはどうしたらいいのか。方法は一つだった。聖気でいることをやめれば、邪気になることの恐怖に脅かされることもない。じりじりと迫り来るものに怯えないでもいい。何にも恐れることはなく、ただ
「聖気の自分に負けそうになった……嫌だったんだ。汚れていくのは」
ララナはディレスの背を撫でる。綺麗な翼が生えていて、小さく幼くて、そして脅えた背中。
「だけど、ピリトがいた」
ララナは黙っていた。
「ピリトは、怖がってばかりだった俺を馬鹿にしなかったよ。森の精霊は最も清らかなものの一つだ。精霊である自分が友達でいる限り、俺が汚れに負けることなんてないって言ってくれた。証拠を見せられなくても、ピリトの言葉は安心できたんだ」
ディレスの瞳から落ちた涙が、床を濡らした。
天使にも涙があるのだと、ララナは初めて知った。
「邪気になったらピリトにも会えなくなるって思った。でも、嫌われて会えなくなったら……」
ララナはディレスの背から手を離す。
「馬鹿」
「なっ!?」
ディレスは激昂して立ち上がった。
「おっまえふざけんな、聖気のことなんて分かるのかよっ!」
「ふざけるなはそっちだよ」
ララナも立ち上がる。目線をディレスと同じ高さに合わせた。
「ピリトとディレスは友達なんでしょ? お互いに会いたいと思うから、会う日まで約束したんでしょ? あなたはピリトと友達でいることで、聖気である自分を認めていられるって、そういうことをたったいま、自分で言ったじゃない。そのくらい大切な関係なんでしょ。自分で言ってるじゃないの!」
ララナの濃い茶の瞳が、ディレスの瞳をしつかりと捕らえて放さない。
「でも」
「『でも』も『だけど』もないわ。別にピリトの口から大嫌いとかもう来るなとか言われたわけじゃないでしょ。何か事情があるに決まってるじゃない」
勢いに任せて話しながら、ララナの頭が冷えていく。
——そうだ。トゥレットだって、きっと何か事情があったんだ。
もしかしたら昨日の晩に何かがあったのかもしれない。悩みごとかもしれないし、悲しいことがあったのかもしれない。
いま思うと、昼間のトゥレットの言葉にあんなに腹が立ったのは、トゥレットがいつもと違ったからだ。きっと、おかしいトゥレットを見るのが嫌だったからだ。
確かに時々キツイことを言うし、喧嘩だって何度もしてきた。でもララナにとってトゥレットは、いつだって優しい男の子だ。あんなトゥレットは本当のトゥレットじゃない。
そういえば今日のトゥレットは朝から変だったじゃないか。友達なのにちゃんと話を聞きもしないで、カッとなってひどいことを言ってしまった。本来なら、違和感を感じた朝にもっと真剣に向き合うべきだった。からかって、心配させないように誤魔化そうとしたんじゃないか。
友達だったら、まず寄り添ってあげなきゃいけなかった。
「『嫌われたら』なんて、なに
言いながらララナはディレスの腕をひっつかんで扉の方へと歩き始めた。その力は尋常ではなく、振りほどこうとしても解けない。
「どっ、どこ連れ出す気だ?」
「ピリトのところ」
もがくディレスの腕をしっかと掴んだまま振り返って、ララナはにこりと笑う。
「きっと何かあるんだよ。だめだよ、ちゃんと話さなきゃ」
ディレスに向き合いながら、ララナは自分に言い聞かせていた。
「彼女も待ってるんだよ。行ってあげよう」
一瞬呆気にとられて、ディレスの腕から力が抜けた。小さな少年は数秒間、沈黙してララナを見ていた。そして小さく、うん、と頷く。その顔にはまだ恐れがあった。しかし、視線がララナを信じると伝えている。
その視線を受けとめて、ララナも頷く。
再び、今度はディレスの手を離して、ララナは扉の外へと向かった。その背に投げられた一言。
ありがとう、と。
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