Evil IV——悪魔(4)

「今日は少し涼しくなっているしもう夕方だから、太陽の精もあまり強くないよ。きっとディレスも森まで歩ける。すぐ行こう?」

 わかった、とディレスはララナの方へ来ようと足を踏み出した。しかし動き出そうとした体が、そのまま床に崩れる。

「どうしたの!?」

 慌てて駆け寄ると、ディレスの顔は蒼白だった。口から細い息がひゅうひゅうと言っている。

「やべ、ちょっと今日、飛び過ぎ、た、かも」

「飛び過ぎたって、森からそのまま帰ってきたんじゃなかったの?」

 さっきの慌てようからすると、てっきり森に行って家にとって返してきたのだと思っていた。

「森からは、すぐ、帰ったけど……行く、前に」

「行く前にたくさん飛んだのね?」

 ララナの体に支えられながら、ディレスはベッドを背もたれに床に座り直す。ララナはその横に座って背をさすり、ディレスが呼吸を整えるのを待った。

 うなだれて数十秒、ディレスはようやく顔を少し上げる。

「俺たちの羽根が、道に一つしか、見えなくて」

「羽根? 天使の羽根なんて私、一回も見たことなかったよ」

「普通は、人間には、見えないんだよ」

 まだ切れ切れに、それでもなんとかディレスは説明を始めた。

 天使が人間界で汚れを吸収するときには、汚れを吸い取った場所に羽根を落としていくのだという。汚れの跡が残らないようにするためで、しばらくその場所が再び汚されることなく守ってもいるのだ。

「でも羽根を落とすのは、もう汚れを吸収した後なんでしょう。汚れは無くなってるんだから、あまり問題はないんじゃないの」

「そう、かもしれないけど」

 ララナを見上げるディレスの瞳は不安で曇っている。でも、と続ける声もすぼみがちで、耳を澄まさないとよく聞こえない。

「俺たちが次に仕事をしに来るまでに、羽根がそこから、完全に消えたら」

「うん、消えたら?」

 ゆっくりゆっくり話すのがじれったいが、ここでせかしたらディレスはきっともっと不安になる。

 ララナはじりじりするのをぐっと我慢して、できるだけ優しくディレスに聞いた。

 それでもディレスはまだ黙りこくって、目線だけが時々泳ぐ。

 この様子は、なんとなくピンとくる。

「もしかして、ディレスも分からない?」

「そう、なんだ」

 バツが悪そうに眉が下がった。

「分からないなら、やっぱり心配することないんじゃないの」

 するとディレスはますます自信なさそうに眉を下げる。

「でも、俺たちは羽根がそこを守れる期間がどれくらいかも知らないんだ。もしかしたら人間たちの負の感情が再び生まれて、どんどん膨らんでしまうかもしれない。どうなるか俺たちにはわからないんだよ」

 ディレスの話す内容は、ララナにとっては目に見えない気体の話をされているようで、わかるようでいまいちわからない。

 天使にわからないならうだうだ言っていても仕方ない。

「だったら、帰って神様にどうなるんですか、って聞いてみればいいじゃない」

「そう簡単にいうなよ。神様って言っても俺たちはそんな簡単に会えないし、会えてもそんな簡単に話はできないし。ただ」

「ただ?」

 おうむ返しに言うと、ディレスは服の裾をギュッと握りしめる。

「天使の羽根はすごく大きな力を持ってる。俺たちから落ちた後も、その力は完全には消えない。そんな羽根がもし、何か生き物に作用したら……」

「でも普段は見えないのでしょう」

 ディレスはそう言ったはずだ。普段、人間には見えないと。しかしディレスは首を振る。

「祭りの前後は、自然の力が強くなる。例えば、もし月や太陽の精が力を発揮すれば人間にも見える可能性があるし、それ以外にも方法はないわけじゃない。そしてもし、天使の羽根が生き物の手にわたり、強大な力が下手に解放されてしまったら……」

 その先はディレスが言わなくても、ララナにだって想像がついた。

 ディレスの唇が震えて、目に涙が溜まってくる。ララナの方を見ることもしないで必死に恐怖と戦っている。




 ******




 道端に手を伸ばしながら、その人物はかがみ込んだ。すくうようにして地面近くで手のひらを返し、握りながら再び上げる。

 きらきらと光の粒子を振り撒きながら、それは軽く持ち上げられた。

 鳥の羽根と同じ輪郭なのに、鳥の羽根よりももっと柔らかで、眩しい。

 指の間に挟んだ羽根の先を、もう片方の手に手渡す。

 そこにはすでにいくつもの同じ輝きが束ねられていた。

 その者は新たな一本が束に加わるのをしっかりと確かめ、立ち上がる。

 まだきっと、もっと必要だ。

 足りない。こんなものでは。

 力が必要だ。

 全ての人間の気に負けないくらい、強い力が。

 



 ******




「どうしよう……」

 声がかすれた。全身が怯えを表して、助けてと叫んでいるみたいに。

「もし、羽根が」

 これはいけない。

「『もし』、でしょ」

 ララナはきっぱりと断言した。ディレスが目をまんまるにして、ぴたりと黙る。

 不安は伝染する。ララナも一緒に不安になったら、ディレスももっと怖くなる。どうなるんだろうっていう気持ちは、未来に行って結果を知るまで消えてくれはしない。気になって気になって仕方ない。

 ララナもここ数日、ずっとそんな気持ちを抱えていた。今年の祭りはどうなるのかなって。落ち着かなくて、ちょっとイライラして、どきどきして、また胸がざわめく。

 でも全部「もし」の話だ。

 ディレスの真紅の瞳を見返して、ララナはもう一度言った。

「『もし』、で怯えてたら何もできないよ。ピリトのことと同じだよ。羽根がどうにかなっちゃったらそのとき考えるしかないよ。それよりもまず今は、優先するべきはピリトでしょう」

「でも」

「『でも』はなしって言ったよね? もしかしたらピリトに関係してるかもしれないじゃない。だからまず、できることからしないと。ディレスはが休息日にしなきゃいけないのは、ピリトの約束を守ることでしょう」

 いろんな事件が重なってしまうと不安はどんどんむくれ上がる。きっとピリトのことが衝撃すぎて、ディレスは悪い方に悪い方に考えてしまうのだ。

 ピリトの事情がわかればきっと、ディレスもいい方に考えられるはずだ。ララナだって嬉しいことが重なったら嬉しいことが起こると希望を持つもの。

 だからまずは、森に行かないと。

 ディレスが一番気にかけていることを、確かめないと。

「ディレスが少し歩けるようになったら行こう。怖いって言ったって行くからね」

 こういう時は気持ちの問題だ。ふさぎ込んでいたらどんどん悪くなる。それに——

 ララナは胸を張った。

「大丈夫。私が連れていってあげる——私だって、ディレスの友達でしょ」

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