Angel III——天使(3)

 ララナは耳をつねった。言っていることが現実離れしすぎである。

「天使……?」

 確認するために口に出してみる。

「俺、その呼ばれ方嫌いなんだけど」

 数秒間の沈黙が流れた。窓の外は夕焼けに染まっていく。遠くでまだ蝉時雨が聞こえる。そろそろ明かりを点けないと、部屋の中も暗くなってきた。

 はあぁ、と、ララナは耳にはっきり聞こえる溜息をついた。

 すーぅう。

 今度は深く空気を吸う。

「私、夢を見ているんだわ。ふふふ。駄目だわ、つい昨日、伝説のお話のことなんか考えちゃうからさぁ。疲れてるのかそれとも幻覚を見ているのかいやいや幻聴か……祭りの準備で忙しかったしねぇ」

「そういう現実逃避をすぐにするところは人間の悪いところだと思うぞ。愚かだと思うなぁ。馬鹿だなぁ。現実は現実だってのにさぁ」

「だってそんな、どうして私のところにそんな非現実的な」

「俺たちは神様が同じ型を授けた奴に自然と引き寄せられるんだってさ。でも神様が俺と同じ型を与えたのってこんな人の言うこと素直に聞けない女かよ」

 ララナは愕然とした。

 見ただけならまさに絵の中の天使みたいに可愛らしいのに、この中身は何だろう。確かに、顔を真正面から見ると自分とそっくりではあるけれども、さっきまでの安らかな寝顔は自分とは似ても似つかないほど愛らしく、この世の汚れを寄せ付けないとすら思わせる清らかさだったのに、この口の悪さはなんなのだ。

 本当にこれが天使なのか。

 ララナが驚くくらい、相手は全く悪気がないという顔で腹の立つことを言ってのける。

 少しでも期待した自分に腹が立ってくる。でもその顔はさすが天使と言うべきか、やっぱり人なつっこそうだし、綺麗だし、見た目で完全に自分が負けてるのも、女の子としてやっぱり腹が立ってくる。

「失礼しちゃう。どうっせ私は素直じゃないけど、思ってもせめて口では別のこと言いなさいよ」

阿呆あほうか。俺たちは嘘なんて言わないし言えないんだよ。口先だけ飾るとか愚かなことすんの人間くらいだ」

「う、一理ある、かもしれないけど」

「だろ。だから口先も目先もごまかしたって仕方ないんだよ。だから人間っていうのは」

 ディレスは一通りララナの癪に障ることを(しかし事実でしかないことを)並べ立てながら喋りきると、今度は物珍しそうにあたりを見回し、ララナの部屋の中の色々なものをいじくってまわり始めた。机の上のノートや日記帳をパラパラとめくってみたり、置物やぬいぐるみを撫でたり、椅子の脇に置いた鞄を覗き込んだり、しまいにはベッドの上へと身を投げ出してその上をごろごろと転がり壁にぶち当たった。

 そしてしばらく痛みに悶えたあとでぴたりと止まり、突然叫んだ。

「どうしよう俺⁉︎ こっちに降りていられんのってどんくらいだろうっ⁉︎」

 跳ね起きたディレスは窓を乱暴に開けるとベランダに走り出て柵に足を掛ける。開け放った窓から入る風は涼しい。昼間の猛烈な暑さがまるで嘘のような心地よさだ。

 しかし今のララナにそんなことを気にしている余裕はないし気がつく暇もなかった。慌ててディレスを止めようとし、彼の大きく広げた翼をひっつかんで後ろへ引っ張る。ララナが掴んだところから羽根が数本ひらひらと舞い落ちた。

「ちょっと安静にしてなさいよっ!」

「してられっか、そんなん!」

「当たり前でしょ、さっきまで倒れたんだから! 動くなぁっ!」

「うるさい! 早くピリトのところに行かなきゃいけないんだよ!」

 そう言ってディレスは翼をばたばたと動かした。周りに小さな風が起こってカーテンを揺らし、翼が当たってぬいぐるみや置物が棚や机から床の上に落とされる。

「やめなさい! せめてこの羽根、止めなさいってば! 私の部屋を荒らすなっ! 命の恩人になんて仕打ちをするのよっ」

 最後の言葉を聞いて、翼はぴたりと止まり、ディレスはすとんと柵から足を降ろした。

「ごめん。気が動転して。とにかく早くってだけ、思っちゃって」

「早く?」

「人間の物を俺たちが触って反応が薄いってことは、かなり下界の空気に染まってきてることなんだよ」

「どういうこと?」

「下界に染まっていない状況なら、反応したら人間にも見える。星が光るみたいに」

 ディレスは俯いて二、三歩下がり、床に散らばったものを拾い始める。舞い上がっていた羽根がゆっくりと落ちていった。拾ったものをどこに置こうか迷っているみたいだったから、ララナも片付けに加わる。

「なぁ、いまってもう、満月は過ぎたのか」

「満月?」

 床のあちこちに手を伸ばしながら、ディレスが呟いた。

「満月はまだだよ。お祭りの日が満月だもの」

「じゃあまだ、降りてきてから時間は経ってないんだ……」

 ディレスの瞳の色に影がさした気がした。

「ならどうして反応しないんだろう……」

 ピンと張っていた羽根がますます斜めになっていく。元気だった葉っぱが急にしおれていくみたいで、ララナは続きを聞くべきか迷った。

 しかし、先に質問されたのはララナの方だった。

「そういえば、そちらさんが誰なのか聞いてないや」

 ディレスはかがんだ姿勢のままでララナを見上げる。くりっとした大きな瞳がララナの瞳を覗き込んでいる。その様子は、ララナの持っていた天使のイメージ通りだった。

「私? あ、ララナって言うんだけど。えーと。よろしく。ディレス、って呼んでいいの?」

「うん。悪かった。ごめん」

 謝る表情がとても幼く、子猫や子犬みたいに見えて、さっきの荒れた様子とは比べ物にならない。ララナは可笑しくて笑えてきた。ディレスのくるくる変わる態度のおかげで、自分の心気持ちも焦ったり安心したり忙しい。

「分かってくれればそれでいいよ。それより大丈夫? あんなところで倒れてたら熱中症になっちゃうでしょうに。あ、でも天使って病気になるの?」

「一応。死なないけどな、調子が悪くなることくらいは」

 ララナの方は見ずに、ディレスは答えた。

「太陽とかみたいな大きな力が強すぎると負荷がかかるんだ。陽の精がこの時期に発する力は強いからな。そういう強さに圧倒されることはある」

「天使の力が弱っちゃうってこと? 物が反応しないのはそのせいとか?」

「わからない。でもそれは、病気ではないんだけど」

 一番最後に残った天使の置物を棚の上に戻し、ディレスはベッドに飛び乗って口をつぐんでしまった。

 なんとなく、沈黙が続いてしまうのも良くない気がする。

「じゃあやっぱり、あなたは私たち風に言うと暑さにやられたってわけだね。私たちも暑いといつもとおんなじようには動けないもん。きっとちょっとまいっちゃって力が出せてないんだよ」

 ララナはあまり神妙にならないように言葉を探しながら、なるべく明るく話した。

「しかし私が天使に会っちゃうとは」

 少し落ち着いたら、驚きが役目を思い出したように膨れ上がってくる。あらためて考えると、ディレスの羽根を見てその異様さに圧倒されるよりも先に、彼をここに運ぼうと思って平常心で連れてきた自分に感心する。

 そして彼の正体を知った今となっては、信じられない想いに加えて、その天使が想像よりもずっと自分たちと似たような雰囲気なのは面白かったし、少し嬉しかった。

「あ、そうだ。お水飲む? 食べ物いる? 食べるのかよくわかんないんだけど、倒れたんだから少しは栄養取らなきゃね。えーと、お水以外に飲み物は何飲むの?」

「別に飲み食いしなくたって平気だよ。それに」

「それに、何よ」

 また少し沈黙が流れたあと、ディレスは不服そうに呟く。

「それに暑さのせいで倒れてたんじゃない」

 じゃあどうして倒れてたのかと訊こうとしたら、ディレスはララナの言葉を遮って吐き捨てる。

「倒れた倒れたって連呼するな。腹たつ。お前ら人間はずけずけと人のこと知ったように言ってんじゃねえよ」

 投げられた乱暴な文句に、今度はララナが怒る番だった。

「じゃあ、なんだってのよ」

 確かに自分の弱かった部分を何度も言われれば腹がたつだろう。けれども別に他意はないのだ。情けない奴だとか、体力がないとか、相手を馬鹿にするようなことは一つも思っていないし言っていない。ただ単純に心配をしているのだ。人が苦しそうにしていたのだから元気になってほしいと思って訊いているのに。

 第一、これはララナ一個人のことなのに、どうして人間というひと括りで見るのだろう。

 無性に腹が立つ。もともと自分は短気ではあるけれども、そんなことを超えて異様に腹が立つ。

「いいよっ。助けたのが不満ならもう一回そこらに行って倒れてきたらいいじゃない!」

「そんなことは言ってねーだろ! 別に助けてもらったことに文句なんざ言ってないさ。そういうひねくれた受け取り方するなら勝手にしてろ馬鹿!」

「馬鹿ぁっ? なんてものの言い方するのよ、私は馬でも鹿でもないわよ! 何よ馬と鹿に失礼な物言いして」

「ララナ? 誰かいらしてるの?」

 背後から声を聞いたララナは顔を扉の方に向けてそのまま硬直した。ガチャリと取手が回る。ディレスは固まったララナを見て一瞬口をつぐみ、また何か言おうと開きかけたが、ララナの緊張しきった顔を見て妙に思い、自分も扉の方へ視線を移してみる。

「ララナ、返事くらいしてよ。市場へは行っ……」

 入ってきたララナの母は、扉近くで口を開けたまま直立した。ララナとディレスを見比べている。目を大きく見開きながら。

「天使……?」

 ディレスはララナの母に指さされ、見世物じゃないと睨んで、やはり呆然としたララナに声をかけてみる。

「お前の母親?」

 ララナはララナでまるで身体にかけられた静止の呪縛が解けたように、硬直姿勢からへなへなと床の上にへたり込み、小さく頷いた。顔からは表情が消えている。

「あの?」

 二人を見て居心地が悪くなったディレスは、剣呑な口調を和らげてみる。両者ともに動く気配がない。とりあえず、ディレスはララナの母に手を差し出す。

「よろしく……?」

 目の前に出された手を見て、ララナの母まで床に座り込んでしまった。顔が思考停止のシグナルを出している。聴覚は働いていなさそうだ。

「どうしたんだ? これ……」

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