3-15 山崎美知佳 ①

「元担任の山崎さんて、どんな人ですか?」

 海渡は運転しながら北守に聞いた。

山崎美知佳やまざきみちか、三八歳独身、出身は東京。稲毛区のマンションに一人住まい。今も千葉中央高校の教師だが、田之上夫婦の事件以来、体調不良で休職している」

「休職ですか?」

「ああ、なんか訳ありっぽいだろ?」

「ですね」

 山崎美知佳は疲れ切った顔をしていた。何日もろくに寝ていないのか、目の下にはクマができている。それでも、同年代の女性と比べたら、けっこうな美人だと海渡は思った。

 本棚は教育関連の本、有名大学の赤本、彼女の担当教科である化学の専門書で埋まっている。ここだけ見ても、彼女が真摯に、仕事に打ち込んでいることが伺われる。

「すみませんでした。田之上さんを……春菜さんを救えなかったのは私のせいなのです。私にはわかっていたのです。彼女は私にSOSを送っていた。なのに、なのに私はそれに答えなかった。保身に走ったのです」

 山崎はそう言うといきなり泣き出した。そして激しく咳込んだ。

「大丈夫ですか?」

「すみません、私、喘息持ちで」

 山崎は泣きながら咳込んだ。

「いや、まず落ち着いてください。無理なら日を改めます」

 北守の言葉を山崎は手で遮った「大丈夫です。いつものことなので」

「では、ゆっくり、ゆっくりでかまいませんので準をおって話して頂けますか?」

「はい。最初の家庭訪問です……あれは田之上さん、春菜さんのSOSだったのです」

 そう言って山崎はまた泣き崩れた。

 二人は山崎が泣き終わるのを辛抱強く待った。

「すみません。大丈夫です」

 涙を拭い、山崎は話し始めた。


 山崎美知佳が申し出た家庭訪問を、春菜は断り続けていた。だが、どうしてもという美知佳の熱意に負け、とうとう春菜は折れた。彼女は家庭訪問に際して条件を出した。まず日時の指定。でも、事前にアポは取らないこと。当日、アポなしでいきなり来てほしい。そしてその時間、春菜が美知佳にメールをするから、そのメールを確認したらすぐ来てほしいと言われた。その時、自分には決してメールを返さない事。

 いぶかし気に思いながらも、美知佳は春菜の言う通りにした。田之上家の近くで待機し、春菜からのメールを待った。夕方六時を過ぎた頃、春菜から空メールが来た。

 美知佳が田之上家にいくと、ちょうど母親と春菜が玄関から出てくるところだった。理央は派手な化粧をし、シャネルのスーツに身をまとっていた。そしてバンクリーフのネックレスとピアス、左腕には紫色のエルメスバーキンが掛けられている。まるで、海外の免税ショップによくあるマネキンのようだった。美知佳は以前、ブランドショップに努める彼氏がいたため、自分は大して興味ないが、一目見てそのブランドが解った。

 理央はものすごく迷惑そうに、「誰? うちに何の用? 今ちょうど出かけるとこなんだけど」と言い、これ見よがしに左腕をまくって時間を確認した。時計はロレックスだった。

 美知佳がアポなしで来た事を詫び、春菜の担任であることを告げると、彼女の態度は一変して柔らかくなった。理央は「来るときは事前に連絡下さいね」そう言って赤いBMWに乗り込んだ。

 ぽかんと口を開けて、たぶんそんな感じだったと美知佳は思った。春菜を凝視している美知佳に気づいた理央は、BMWから降りてきた。「あ、これ? 今日は夫の仕事の付き合いみたいなものなのです。議員の妻達が集まる下らないパーティーなのですが、娘さんも是非って言われたので、今日は春菜も連れて行くんですよ。一応フォーマルなので、学生は制服って事になっているのですけど、この子が、うちの高校の制服はダサくて嫌だって言うものだから、わざわざネットで可愛い制服買ったんですよ」

 何も聞いていないのに理央はベラベラとよくしゃべった。

「あ、そうだったのですか、議員の奥様ともなれば、いろいろお付き合いもたいへんですね。でも、パーティーなんて、庶民の私からしたら別世界です」

 謙遜した美知佳に気を良くしたのか、理央は、「いいえ面倒なだけですよ。今日はせっかく来ていただいたのにすみません」と、にこやかに応対し、再びBMWに乗り込んだ。続いて春菜も担任に頭を下げてから車に乗り込んでいった。

 二人を乗せた赤いBMWが見えなくなるまで、美知佳はボーっとその場に立ち尽くしていた。

 春菜さん。あれは本当に春菜さんなの? 美知佳は自問自答した。今見た春菜は美知佳の知る春菜ではなかった。髪は束ねられておらず、いつものダサい眼鏡もかけていない。それだけであんなにあの子は変わるの? 同じ女性でも信じられなかった。薄っすらと化粧をし、サラサラとした前髪をかき上げた彼女は、その辺のアイドルなんて目じゃないほどに美しかった。

 翌土曜と日曜、美知佳はずっと考えていた。考えれば考えるほどに違和感が募った。春菜はあの光景をわざと私に見せたのだ。あれが春菜からのメッセージなのだ。

 月曜日、いつもの春菜を見た美知佳は、あれは自分の夢だったのかと疑った。職員室に春菜を呼び、金曜の事を聞いた。あれはどうゆう事なのかと。

 春菜は「そういう事です。先生、そういう事なんです。だからもう私に構わないで下さい」そう言って下を向いた。

「田之上さん。そういう事ってどういう事なの? 先生、考えたの、ずっと考えていたの、おかしいわよ、絶対おかしいわよ。先生にできる事はない? 私のできる事ならなんでもするわ」

 美知佳はそう言ったが、春菜は頭を下げて出ていってしまった。それから、何度も何度も美知佳は春菜に話しかけたが、彼女は聞く耳を持たなかった。そして二週間が経った頃、やっと春菜は美知佳の声に応じてくれた。

「先生……私、ほんとは大学に行きたい。大学を出て、その後は外国に行きたい」

 春菜の言葉に美知佳は涙した。

 だが、それでも春菜はそれ以上の事は一切語らなかった。

「先生がなんとかするから、とにかくあなたは勉強していなさい。死ぬ気で勉強するのよ。いいわね」

 美知佳の言葉に春菜は小さく頷いた。

 そうは言ったもののどうしたらいいのか美知佳には分らなかった。とりあえず、毎週金曜の夕方、田之上家の近くに車を停めて様子を窺った。そして三週目の金曜日、午後六時。あの日と同じように母と娘が赤いBMWに乗り込んだ。相変わらず派手なブランドもので身を包んだ母親と、女子高生の制服を着た娘。春菜の着ている制服は前回とは違うデザインのものだった。

 美知佳も自分の軽自動車を発進させ、赤いBMWの後をつけた。途中何度も見失いそうになったが、赤いBMWは目立つので、すぐに見つけることができた。車は台場で高速を降り、立派なホテルの駐車場に入っていった。駐車場のゲートにはカチッとした制服をきたホテルマンが二人立っていた。美知佳がゲートの近くで車を停めるとホテルマンが駆け寄ってきて、会員証の提示を求められた。美知佳は、ここはどうゆうホテルなのかと聞くと、ホテルマンは、会員制のリゾートホテルで、顧客には芸能人や政治家が多いと答えた。金曜の晩だからだろうか? そうしている間にもフェラーリやランボルギーニという高級車が次々とゲートをくぐって行った。

 翌週、月曜日の午後、世間では風邪が流行り、クラスの三分の一が休んだため臨時休校になった。

 春菜には門限があり、十九時までには家に帰らなければならないと聞いていたが、今日なら充分時間がある。美知佳はその日、春菜を自宅マンションに連れてきた。学校で話をすることを春菜が拒んだのだ。

「田之上さん、話してくれる?」

「先生、すみません。何もお話しすることはできません。それでも力になって頂けますか?」そう言って春菜は涙を流した。

 美知佳は思わず春菜を抱きしめた。「わかったわ。でもそれじゃ、どうしたらいいかわからない」

「先生……私は大学進学を希望していません。それが前提です」

「え? あ……はい。わかったわ」

「その前提で、あの人たちを説得して頂けますか?」

「それって……」

「先生、さっきも言った通り、なにもお話できないんです」

「わかったわ」

「具体的には、進学を希望していない娘の親に対して、なんとか娘を説得して進学させるように仕向けて欲しいです」

「ちょっと話がややこしいけど……わかったわ」

「あの女は手強いと思います」

「あの女?」

「あの女とあの男、あの人たちは私と血が繋がっていません。他人です」

 春菜にそう言われて美知佳は愕然とした。そうだった。この子は小学生の時に母親を殺されて施設に……そして中学の時、田之上家の養女になったのだ。調査書を見た時驚いたのに、すっかり忘れていた。

「あ、そう、そうだったわね」

「あの女……母はてごわいです。ですがあの男、父は異常に世間体を気にするので、そこを突けばいいと思います」

「わかったわ。やってみる」

「でも先生……こんなことしても先生には何のメリットもありません。むしろリスクがいっぱいです。私は先生に何もしてあげることができません」

 春菜はうつ向き、そう言った。

「あなたはそんなこと考えなくていいのよ。わたしはあなたの担任だから当たり前のことをするだけ」

 美知佳の心からの気持ちだった。

「先生……もし……危険だと思ったらすぐ手を引くと約束してください。もし先生が危険な目に合うようなら、私は死をもってあの人たちに抗議します」

 え? なに? この子はなにを言っているの? この子はいったいどんな……

「先生、これ以上私の家庭を詮索しないと約束してください。先生に詮索されると困るのは私です」

「わかったわ。約束する……」

「ありがとうございます。先生、私が大学に行きたいのは、勉強したいからではありません。自由を掴むためです。大学に行ったからといって自由になれるとは限りません。でも、少なくとも、僅かでも可能性はあると思うんです。だから、大学なら、行けるならどこでもいい……でも今、決めました」

「え? なに? なにを決めたの?」

「もし、もしも本当に私が大学に行けるのなら、わたしは医学部に行きます。そして一生、先生の主治医として奉じます。私にはそれくらいのことしかできませんが」

「え? あなた、なに言って……そんな理由はダメよ……」

「先生、だってたまに咳込んで苦しそう。喘息?」

「そんなことはどうだっていいのよ」

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