3-10 法医学者

 本部に戻ると、捜査会議に出席しなかったことで課長に怒鳴られた。

 海渡はふてくされる北守をなだめ、課長に謝った。

 課長の怒りが落ち着いてから、海渡は生命保険の件と、二人で考えた推論を報告した。

「保険金殺人の線は消えたか……てことは振り出しか」

 課長が自分のおでこを指でたたく。

「はい。そうなります」

「課長、もう一度、解剖医に話を聞いてきます」

 いきなり北守がテーブルを叩いて立ち上がった。

「北守、急になんだ。解剖医?」

「俺にもはっきり言えないんですが、なんかモヤモヤとしてて」

「わかった、山野先生には連絡を入れておく。今日はもう遅いから明日にでも行ってこい」


 翌日、課長から電話があった。今日の午後四時、千葉医大の法医学、山野教授のアポがとれたという。

 四時十分前、山野先生は席を外していたが、すぐに戻られるということで、二人は廊下のベンチに座って待っていた。

 しばらくすると、グレーのスーツ姿で銀縁眼鏡、白髪の混じった男性が歩いてくるのが見えた。

 北守がすぐさま立ち上がり、警察バッジを取り出した。どうやらこの人が山野教授らしい。

「いや、ちょっと待ってください」

 山野はそう言って立ち止まり、中指でおでこを軽くたたく。なんともキザな仕草だが、さまになっている。

「えっと、県警本部の北守さん……でしたっけ?」

「あ、はい。覚えていただいていたのですか? 光栄です」

 北守が頭を下げる。

「いえ、全員ではありませんが……私はこの歳で、人見知りをするほうでして、なかなか顔を覚えられないのですが、努力しています。そんなんだから、法医学なんてやっているのですけどね」

 山野が笑った。

「本日は、急なお願いにもかかわらず、ありがとうございます」

 北守が頭を下げたので、慌てて海渡もそれに続いた。

「いえいえ、こちらこそお待たせして申し訳ありません。どうぞお入りください」

 山野は教授室のドアを開け、二人にソファーに座るようゼスチャーした。

「そちらの方は? 初めてと思いますが?」

「あ、申し遅れました。自分は海渡と申します」

 海渡は山野に警察バッジを見せ、名刺を渡した。

「ほう、警部補。その若さで……」

「先生、こいつはキャリアです。ですがそこらの頭でっかちとは違いますので、よろしくお願いします」

 北守の言葉に海渡は嬉しくなったが、それは顔に出さず、山野に向かって一礼した。

「さっそくですが先生、例の解剖所見について―」

 北守がきりだす。

「何か疑問点が?」

「いえ、そうではなく確認したいことがいくつか」

「結構です。何なりとご質問下さい」

「はい、ありがとうございます。まずですが、田之上和彦の死因は急性心不全で間違いありませんよね」

「はい、あの状況ですから、私達もくまなく精査しました。間違いありません」

「ですよね」

「致命傷に至る外傷もなく、理央さんのように何度も殴られた形跡もありませんでした。ただ、額にナイフでつけられたと思われる約二センチの傷と、前頭部に一ヶ所、後頭部に三か所、傷がありました。刃物で軽く突かれた傷と、ナイフの柄の部分で強く打たれた傷。後に鑑定を依頼されたナイフの柄と傷跡は一致しました。ですが致命傷になり得る傷ではありません」

「解剖所見のとおりですね……ということは、和彦は犯人にナイフで脅されていた」海渡が言った。

「でしょうね。後頭部に傷があったことから、その時犯人は和彦さんの後ろにいたことになりますね」

「それってどういう状況ですかね?」

 北守が山野に向かって首をかしげる。

「さあ、刑事さんの方がお詳しいと思いますが……でもナイフの柄で、あれほどの傷をおわすのは結構な力が入っています」

「気絶させようとした?」と海渡。

「いえ、百%否定はできませんが、ドラマのように、後ろから殴られて気絶なんて、そうあり得ません」

「では和彦は犯人を怒らせた?」と北守。

「可能性はあります」

 山野がネクタイを緩める。

「先生、その小さな突き傷はどう思われます?」

 海渡が自分の後頭部を突く真似をする。

「面白半分で突いたか、歩くよう即されたか」

「歩くよう即された?」

「はい。ナイフで頭を突かれながら歩かされる。そういった事例はよくあります。あ、いえ、アメリカでのはなしですが」

「先生は長年アメリカで監察医をやっていらした」

 北守が海渡に説明した。

 海渡が頷く「という事は、和彦はやはり自分の意思で、あの椅子に座ったのではなさそうですね」

「というと?」

「田之上和彦と理央はお互いを受け取りにして大口の生命保険に加入していたんです。で、それが昨年になって和彦が自分に掛けられた保険だけ解約していたので、いらぬ捜査が増えたってわけです」

 北守が頭を掻く。

「そうでしたか、つまり、田之上和彦さんが、誰かを使ってあの状況に偽装したと?」

「さすが先生、飲み込みが早い。ですが、それには共犯が必要ってことになるので、検証の結果、和彦が企てた保険金殺人って線は消えました」

「たしかに、和彦さんの死因は急性心不全ですから、よけいに話はややこしくなりましたね」

「はい。和彦は糖尿と心臓を患っていたようですが、薬を飲んでいましたよね?」海渡が聞く。

「ええ、飲んでいました。和彦さんは糖尿病の薬としてリベルサスとメトホルミン。降圧剤としてアムロジピン、あと、尿酸と高脂血症の薬、頓服としてニトロペンを服用していました。ですが、それらの薬物以外、怪しい物質は血中から検出されませんでした」

「つまり、毒物、もしくは、心臓に負担を掛ける類の薬は検出されなかったということですね」

「はい」

「まあ、あんなタイミングで和彦の心臓を故意に止めるなんて無理ってことか」

 北守が小さく何度もうなずく。

「ですが」少しの間を開けて山野が続けた「和彦さんの心臓はかなり悪かったと思います。私は臨床医ではありませんので、あまり余計なことは言えないのですが、心臓を取り巻く冠状動脈はボロボロで、いつ詰まってもおかしくない状態でした」

「和彦の心臓は止まるべくして止まったと……」

「いや、そうとは限りませんが、かなり状態は悪かったと思います。薬も足りていなかったと思います」

「薬が?」

「はい。彼の担当医に聞いてみたところ、和彦さんは威圧的で、僅かな時間でも待たされるのを嫌がり、検査もなかなかさせてもらえなかったようです」

「まあ、和彦なら、わかる気はしますね」

「結局、和彦さんに言われるがまま、毎回同じ薬を処方していたようです」

「息苦しいとか、痛いとかいう症状はなかったんですかね?」

 北守が自分の胸をたたく。

「状態にもよりますが、大量の酸素を有するような激しい運動でもしない限り、無症状のことも多いです。ですから、患者さんは悪くなっていないと錯覚してしまうんです」

「自己判断はだめですね」

「はい。和彦さんも一か月半前の来院時には、体調の変化は訴えていなかったそうです」

「てことはやはり、突発的な心不全ってことですか」

「ですね。健康な人でも多大なストレスに暴露された場合、死に至る例がありますから」

「目の前で妻が殺され、次は自分だという恐怖が彼を殺した……」

「十分あり得ます」

「先生、先生の見解をお聞かせ願えますか? あれは、和彦の最後はどういう状況だったと思われますか?」北守が言った。

「私のですか? 状況判断は刑事さんの方がお詳しいと思いますが」

「よろしくお願いします」

 海渡が頭を下げる。

「わかりました。私も呼ばれたので、あの現場は見させていただきました。確かに異様でした。詳しい状況判断は刑事さんに任せるとして、少なくとも妻の理央さんは、和彦さんの目の前、ごく至近距離で殺害されています」一息ついてから山野が続ける「返り血です。理央さんの遺体から和彦さんに向かって血が飛散していました。まあ、それほど多くはありませんでしたが、和彦さんのパジャマに血痕が付着していました」

「どのくらいの距離ですか?」

「まあ、一メートルも離れていないでしょう」

「心臓を刺したのだから、相当な量の血が出ますよね?」と海渡。

「いや、それは状況にもよります。例えば、一発で心臓を貫き、そのナイフを引き抜かなければ、一気に血が噴き出るなんてことはありません。実際、和彦さんに付着していた理央さんの血液は僅かでした」

「まあ確かに……」

 北守がうなずく。

「いや、でも自分はああいう現場を見たのは初めてでしたが、結構な血の量に思えました」

「そう思うのも無理はありませんが、心臓を刺して絶命してからナイフを引き抜いたとします。その場合、血液が噴き出す事はありません」

「既に心臓は止まっているからか」と北守。

「その通りです。それに、理央さんは裸体でした。着衣であれば血液は衣服に浸み込みますが、彼女は裸体の上からダクトテープで拘束されていました。従って見た目にも大量の血液に見えたと思います。あの状況から推察するに、ナイフを抜いた時、既に心臓は止まっていたのではないかと思います。そのくらいの出血量でした」

 山野が人差し指で眼鏡を押し上げる。

「でも返り血を浴びた?」

「いえ、返り血は最初の傷からだと思います」

「最初の傷? 小さな傷、心臓を刺した傷の隣にあったもう一つの刺し傷ですか?」北守が聞く。

「はい」

「えっと、すみません。どうしてそれが最初の傷だとわかるのですか?」と海渡。

「厳密に言うとよくわかりません。ほぼ同時刻に刺していた場合、組織反応はほとんど変わりません。あの傷には両方共、生活反応がありました。死後、ある程度の時間が経ってから、再度刺した場合、生活反応はなくなります」

「ではなぜ?」

「はい。あの小さいほうの傷は、心臓の位置からは若干ずれていました。まあ、それでも深く刺さっていれば心臓を傷つけることはできただろうし、殺すこともできたでしょう。ですが、皮膚から約二・五センチのところで止まっていました。若干肋骨にもあたっていました。その時、表面に近い動脈を傷つけ、僅かですが、動脈血が噴出したのだと思います。動脈ならば、抹消の細い血管でも血が噴き出ます」

「それはつまり、一回刺したが、ナイフが肋骨にあたってしまったので刺し直したと?」

「その可能性はありますが、私としては、躊躇したのではないかと思います」

「躊躇?」

 北守が首をかしげる。

「いえ、躊躇という言い方には語弊があったかも知れません。あの位置とナイフの角度からいって、力を入れれば、若干ずれているとはいっても、ナイフは心臓に到達します。ですが、犯人は途中でやめた……」

「なるほど……つまり犯人は殺人に慣れていない。もしくは、その時になって怖くなったか……」

 海渡が山野を見つめる。

「よほどの殺人鬼でもない限り、人を殺すのは怖いでしょう。ですが再度、二度目はしっかりとナイフを刺していることから、明確な殺意が感じられます」

 北守と海渡が頷く。

「では先生」北守が山野に向かって問いかける「あの状況、つまり犯人は、理央をスタンガンで遅い、裸にしてから椅子に拘束した」

「はい。彼女の首にはスタンガンの痕がありましたね」

「その後和彦を襲い、ナイフで小突きながら理央の前に座らせて拘束」

「いえ、私にはその順番はわかりません」

「あ、そうですね。まあそこは検証から、その可能性が高いと判断しました」

「わかりました。続けてください」

「犯人はどうして和彦にはスタンガンを使わなかったのだと思います?」

「さあ、わかりません。ですが、もし犯人が和彦さんに強い恨みを抱いていて、なおかつ彼の身体のことを知っていたら、スタンガンなんか使ったら、そのまま死んでしまう可能性があります。だから――」

「つまり、犯人はじっくりと恐怖を味合わせて和彦を殺したかった?」

「と思います。ですが、和彦さんを殺すつもりはなかった。のかもしれません」

「まあ、我々もそれは考えましたが、保険金殺人の線が消えた今となっては、犯人は和彦も殺そうとしていたのではないか。という見解です」

「そうですか」

「次に犯人は、和彦を向かい合わせにして椅子に拘束。彼の目の前で理央を刺した。しかし躊躇したためうまくいかなかった。だが、再び気を取り直して、今度はしっかりと心臓に突き刺した。そして理央が絶命してから。いや、絶命したと思ってからナイフを引き抜いた。この時、まだ和彦が生きていたかどうかは不明。でも、理央の死とそう時間差はなく和彦も死亡。てことですかね」

 山野は手を開いて北守の言葉を制した「いえ、それはちょっと違います」

「え?」

「理央さんが刺された時、和彦さんは生きていたと思います」

「先生、我々もそうだとは思うのですが、その根拠は?」

「はい、和彦さんは、理央さんが刺された時、彼女の目の前に立っていたはずです。つまり生きていたと思われます。和彦さんのパジャマ、正確にはパジャマのボタンです。そこに付着していた血痕の向きから計算すると斜め下から飛んでいました。つまり、和彦さんは理央さんを見下ろす形で立っていたと思われます。ですから、その瞬間は生きていたことになります」

「立っていた……おい海渡」

「はい。自分も今初めて聞きました」

「検証に手間取ったのですが、報告はあげてありますよ」

「郡山だ! 畜生!」

「まあまあ、北さん、前回の捜査会議、欠席したのは自分達なんですから、その時報告がされたのかもしれませんよ」

「まあ……でも、ということは、時系列的には理央が殺された後、和彦は死亡。その後、椅子に座らされて拘束された。もしくは、拘束されてから間もなく死んでしまった」

「ということになりますね」

 山野も眼鏡を押し上げる。

「拘束された理央の目の前に和彦は立っていた……どういう状況だ?」

 北守が頭を掻く「犯人に脅されていた。という事か……」

「先生、疑問なのですが、その場合、返り血は犯人に飛びますよね? 和彦に理央の血が飛んでいるのはおかしくないですか?」

「海渡さん……でしたっけ。いい質問です。通常はそうなります。ですが犯人の立ち位置や切れた動脈の角度によっては和彦さんに血が飛んでいてもおかしくありません」

「まあ、いずれにしろ犯人は理央を拘束してなぶった後、殺害。その後、和彦も死んでしまった。和彦の書斎を荒らしたタイミングはわからんが、そいつは家の鍵を掛けて逃走。途中でナイフを投棄した……てことか」

「そうなりますね」海渡が言った。

 山野先生にお礼を言って、二人は千葉医大を後にした。


「なあ海渡、お前どう思う?」

「どうって何がですか?」

「さっきの山野先生の話だと、理央は和彦の目の前で刺されている。その時、和彦は立っていた」

「そうですね、通常なら、犯人の行動を止めますよね」

「ああ、だが、争った形跡はなかった」

「確かに不可解ですが、さっき北さんが言ったとおり、犯人にナイフでも突きつけられて脅されていたなら、抵抗できなくても不思議じゃありません。腕は縛られていたのかもしれませんし」

「まあ、政男が犯人じゃなきゃ、そういうことになるな」

「はい。やはり政男犯人説は無理があるような気がします」

「ああ、堂々巡りだ。そのあたりは、郡山達が更に調べているようだし、俺達は別の方向に目をむけてみるか……」

「別の方向……ですか」

「ああ、とりあえず怨恨だ」

「ですね、相当な恨みが無い限り、あんな殺し方はしないですよね」

「そういうことだ。深山とドマーニの社長、あと議員仲間にも、もう一度話を聞いてみる必要があるな」

「そうですね、田之上は思った以上に黒い人物でしたから、どこで恨みをかっているかわかりませんね」

「それとだが……お前は怒るかもしれんが、蘇我は春菜を疑っている」

「え? なんで? 春菜さんには殺害動機がありませんし、そもそもアリバイがあります」

「ああ、でもそのアリバイだが、お前の報告だと、確実に春菜の顔を見た人物はいなかった。あの交番の動画にも顔は写っていなかったし、タクシーのドラレコに映っていた画像からも顔、つまり本人の特定はできなかった。そもそも事件当日に長野に行っていたってのが不自然だと。で、替え玉説が浮上している」

「そんな! ふざけないで下さい。あれはどう見たって春菜さんです! 自分は長野までいって確かめたんですよ!」

「俺に言うな。そんなことは俺だってわかっているさ」

「自分、もう一回長野に行ってきます」

「あ? また長野まで行って今更これ以上何を調べるっていうんだ」

「わかりませんよ。でも、もう少し春菜さんのことを調べてみたいんです!」

「だから長野ってか? 課長が許さないぞ」

「有給とるからいいですよ」

「お前……で、当てはあんのか?」

「えっと春奈さんがいたホームの……」

「茶臼山児童園か? 当時の経営者もいないし、従業員も話を聞ける状態じゃないだろ」北守が頭を掻く。

「いえ、その従業員の娘さん、高峰綾乃さんに話を聞きに行ってきます。あと小中学校にも」

「交通費は出ないぞ」

「わかってます!」

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