3-5 長野 ②
翌朝、海渡は六時に起床した。窓を開けると一面の銀世界で雪は今も降り続いている。
七時になったので海渡は柊を出た。雪は降っていたが、道行く人は誰も傘をさしていない。そういえば長野に住んでいた時、そうだったと思い出した。都会で降る雪と違って長野は気温が低いので雪が溶けず、濡れないのだ。
スノーブーツはすこぶる調子が良い。これならどこまでも歩いていけそうだ。これで四千八百円はお買い得と言えるだろう。
春菜に聞いた通り、ひたすら東に向かって歩く、二十分程歩いたところに花屋があったが、シャッターが閉まっていた。そして、国道十八号線に出たら右折。十分程で進行方向右側に眼鏡屋があるから、その前の電柱、そのあたりが現場だ。
現場はすぐにわかった。通り沿いに四軒の店舗、眼鏡屋、百均、ドラックストア、カラオケボックスが並び、眼鏡屋は進行方向むかって一番奥の店舗だった。目的地は眼鏡屋、隣のコインパーキング。到着時刻は八時二十三分。
春菜の証言とほぼ同じだ。天候条件もそれほど大きく変わらない。春菜が今の道を通ってここに来たことに間違いないだろう。一つ確信をもって言える事がある。彼女はスノーブーツを履いていたはずである。
見たところ四つの店舗共にまだシャッターが閉まっていて、車一台停まっていない。一軒一軒開店時間を確認すると、ドラッグストアが朝九時、他三店舗は十時の開店だった。
昨日、長野駅に降り立った時には辺りを見回しても、所どころ雪が残っている程度であったが、今は文字通り雪国の景色で、目的の電柱も、元から二十センチほど雪に埋もれている。念のため、雪を掘って確認してみたが、雪だるまはなかった。まあ、当然だろう。
しかし寒い。キーンと耳は痛くなってくるし、足の指先も痛い。国道に設置された電光掲示板はマイナス三度と表示している。このままここでドラックストアの開店を待つつもりであったが、とても身体が持ちそうにない。
とりあえず春菜の軌跡をたどるため、海渡は長野駅方面に向かって歩き出した。
春菜は十五分ほど歩いたが、雪がひどくなってきたのでタクシーを拾ったと言っていた。当時の気温、二月十八日のピンポイント天気で、この辺りは午前八時でマイナス四度であったから、今と同じかもっと寒かったことになる。
海渡は十分で音を上げ、タクシーを拾った。
「え? 刑事さんですか?」
「ほんとに?」
「すみません。固定観念があったもので」
「いえ、お若いのに凄いですね」
「あ、はい大丈夫です」
「ここから長野駅までは七キロくらいですかね」
「はい、この通りはこの先に総合病院があるから、結構タクシーは多いですよ」
「二十八日? それは私じゃないですね」
「白いタクシーですか? 私もですが白いのは個人タクシーが多いですね」
「まあ、暗黙の了解です」
「数?」
「さあ……白使ってる会社もありますからね」
「はい。それにこの辺りは長野駅に近いから、膨大な数になるし、特定は難しいと思いますよ」
「車内カメラ? はい。今時みんな、つけていますが、何もなきゃ上書きされるので、せいぜいストックは二、三日だと思います」
「どんな子ですか? 特徴教えてもらえれば個人やってる仲間に聞いてみますよ?」
「わかりました」
「はい、その時は連絡します」
長野市及びその近郊のタクシー会社は、長野県警に対応してもらっているが、他県の捜査協力で、個人タクシーまで調べてもらえるかは、はなはだ疑問である。警察官は常に不足している。彼らだって暇ではないのだ。
雪も降っていたので、海渡は長野駅から長野電鉄を使って権堂に向かった。
交番には昨日の警官がいて、海渡の姿を見るとすぐに席を用意してパソコンを開いた。
「ここです。警部補がおっしゃっていた女性です。二十七日、時間は十九時三十七分。後ろ姿がちょっと映っているだけですが、背格好も服装も一致しています」
「この角度だと顔は見えないですね……」
「小さな箱なので屋外カメラはこれだけです」
「いえ、大丈夫です」
「はい。了解しました」
ここまで、春菜の証言にいっさいの矛盾はない。彼女がここ長野に来たのは間違いない。だが、確固たるアリバイを証明する為には、確実に彼女を覚えている人物。もしくは映像等の証拠が必要である」
海渡は、権堂の喫茶店で朝食をすましてから、再びタクシーに乗って、事故現場に引き返した。
時刻はとうに十時を過ぎていたので四軒とも店は開いていた。
それぞれの店の店員に話を聞いたが、時間が時間だけに春菜を見たものは誰もいなかった。だがドラックストアの店員が、二十八日の出勤時、電柱の元で雪に埋もれている小さな雪ダルマを見たという。残念ながらその写真は無いが、少なくとも春菜が二十八日の朝、この場所に来たことは間違いない。
もうこれ以上の情報が出てくるとは思えないので、海渡はまた、長野駅に向かって歩き始めた。電光掲示板の表示はマイナス二度だ。やはり四千八百円のブーツでは保温性に欠けるのか? すぐに足の指先が寒さで痛くなってくる。またタクシーを拾おうかとも思ったが、この二日間で、随分と余計な出費をしてしまった。経費にならないとわかっていて来たのだから、文句も言えない。バスは? 駅までのバスは? ここは二車線の国道だから路線バスのルートではなさそうだ。
とその時、路地から歩いて出てきた女性と軽くぶつかった。
「あ、すみません」
「いえ、私も前みてなかったので」
「大丈夫ですか」
「はい、すみません」
「バス停?」
「長野駅方面ですか?」
「この路地の先、突き当りの道がバス通りです」
「いえ」
「え? そこの眼鏡店ですが」
「え? 警察の方?」
「ほんとに?」
「すみません。びっくりしたもので」
「はい、今日は病院に寄ったので遅刻です」
「はい、店長をしています。雇われですが」
「二十八日? 雪だるま?」
「いえ、見ていません」
「あ、そういえば……」
「あ、はい。ちょうど一年くらい前です。そこの駐車場でお花を供えている女性がいました。寒いのにしばらくその場にじっとしていたので。声を掛けました」
「十分以上はいたと思います」
「はい。ちょっと遠いけれど、お店から見えていたので」
「はい、事件の現場だって言っていました」
「その子が急に謝りはじめて『気味悪いですよね。お花は持って帰ります』っていうものだから、いいのよって言いました」
「はい。事件の事はお店の誰も知りませんでした。ここにお店が建ったのは七年前で、それまでは空き地だったって聞いていました」
「若い子でした」
「二十代前半? 私からみたらみんな若い子です」
「写真があるのですか?」
「すみません。その子かどうか、わかりません。でもそんな感じのかわいい子でした」
春菜は昨年もこの場所に来ていた。彼女の証言に矛盾はない、少なくとも、本当に来ていなければ、話すことはできない内容だ。
だがなぜ……運が悪いとしか言いようがない。あいかわらず春菜を見たものはいないし、証明もできない。交番の画像も春菜で間違いないと思うが、顔が映っていない。望みはタクシーだが、画像は期待できないだろう。そもそも春菜を乗せたタクシーが見つかるという保証も無い。
二月二十八日、犯行時刻に春菜は長野にいた。そう確信した。その事実を一刻も早く北守に伝えたかったので、海渡は千葉に戻ると直接、県警本部に顔を出した。
「海渡お前、その恰好……」
北守がのけぞる。
「え? あ、そんな驚かないでくださいよ。長野から直接きたので私服です。自分だって今時の 若者なんですから。て、普段も私服ですが」
「まあいい。で、収穫はあったのか?」
「はい。春菜さんがあの朝、長野にいたのは間違いありません」
「証明できるか?」
「そこが問題でして……全て彼女が言った通りでした。交番にも行っていましたし、柊というホテルにも泊まっていました。でも……証明は難しいかと思います」
海渡は交番の巡査からもらった女性の後ろ姿の写真を北守に見せた。「背格好も合っていますし、コートも事件の日、着ていたものと同じだと思います」
「う~ん……確かに……この写真に顔は写ってないか。仮に写っていたとしても、前日じゃあな……犯行時刻のアリバイにはなりえない」
「はい。でも紫のエクステだって……」
「本人に間違いないとは思うが、顔が写ってないんじゃ証拠にはならん」
「まあ……そうなりますよね……」
「でも証言の整合性は取れたと」
「はい。彼女が、春菜さんがあの朝、長野にいたのは事実です。彼女が犯人という事はあり得ません。後は当日利用したタクシーが見つかるといいのですが……」
翌日、海渡のスマホに連絡が入った。昨日乗ったタクシーの運転手からだった。二月二十八日の土曜日、海渡が話した女の子を乗せたタクシーが見つかった。その運転手はたまたま、個人タクシーの仲間だったという。年配の男性だった。
海渡はすぐ長野に向かった。
「確かですか?」
「はい。確かです。長野駅まで千二百円で行けるとこまでって言うもんだから、可哀そうになって千円だけもらって、駅まで送ったんで覚えていますよ」
「ドライブレコーダーありますよね? 車内も映るのが。上書きされていてもいいので、貸していただけませんか?」
「それなんですが……すみません。この車、前後しかカメラ付いてないんですよ」
「え? でも防犯カメラ作動中のシールが……」
「あ、これはフェイクです」
「そんな……」
「すみません。今年車買い替えるので、その時つけようと思ってて」
「まじか……」
海渡は心底落ち込んだ。こんなに打ちひしがれたのは、いつぶりだろう。
「では、彼女をもう一度みたらわかりますか?」
「いや、それは無理ですよ。顔とかまじまじ見ないし……若い女の子でした。黒くて長い髪だったと思います。でも顔は……すみません。たぶんマスクしていたし」
「では。特徴とか、服装とか覚えていますか?」
「それは覚えています。髪の毛を一部だけ紫に染めていました」
春菜だ。間違いない。
「服装は?」
「薄い色のコートを着ていたと思います」
「一応、それを証言して頂けますか?」
「いいですよ。あ!」
「え? なんです?」
「ドライブレコーダー。前を録っているのに映っているかも」
「あ、そうか! でも上書きされていますよね?」
「いや、大容量のカード使っているので三週間は残っているはずです」
海渡はその場でカードを借り、タブレット端末に繋いで再生していった。
目的の画像は見つかった。確かに春菜で間違いないと思う。だが、はっきりと顔は写っていなかった。彼女は雪の中でフードを被り、口元までマフラーを巻き、マスクをしていた。さらに、垂れた髪の毛が顔を覆っている。なんてことだ……画像もかなり荒いし、この画像では証明できない。だが、春菜で間違いない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます