3-4 長野 ①
「イタッ」
北守が頬を押さえる。
「どうしたんですか?」
「いや歯が……」
「歯医者いきました?」
「いや」
「早く行ってくださいよ」
「ああ、わかってる……」
「怖いんですか? 歯医者」
「あ? 怖いに決まってるだろ。で海渡、話ってなんだ?」
「北さん、自分、長野に行ってきます」
「春菜の証言の裏どりか? 気持ちはわかるが長野県警にまかせておけ」
「いや、でも自分、北さんにも話した通り、長野にもいた事があるし、懐かしいし」
「経費にはならんぞ」
「わかってます」
海渡は春菜と同じように、上野発十七時三十分発の新幹線に乗った。長野駅着十八時四十八分。そこから歩いて権堂に向かった。大通りに雪は無いが、道端や路地には、まだ多くの雪が残っていた。
この辺りはあまり記憶にないが、権堂のアーケードまで来ると懐かしさを感じた。この近辺ではあまり遊んだことは無いが、中学の時、友人と来た事があった。
右腕のGショックに目を落とす。長野駅からここまでの所要時間は徒歩約二十分。
春菜が言っていた蕎麦屋はすぐに見つかった。長野という土地柄、売りは蕎麦っぽいが、和食の専門店で古風な構えだった。玄関先に小さな水車が回っている。表に表示されているメニューを見ると、夕食は二千三百円からだった。
春菜はこの時点で財布が無い事に気が付いた……
現在十九時二十一分、海渡は権堂の交番に寄った。交番はアーケードから少し外れたところにあった。
「え? 警官?」
「え? 警部補……」
「すみません! 大変失礼しました! ご苦労様です!」
「はい。なんでも聞いてください」
「はい。小さな交番なので誰もいなくなる時もあります」
「はい。この辺りは夜になると酔っ払いも多いので、この時間は巡回に出ます」
「二十七日の夜ですか……今くらいの時間? ちょっとお待ち下さい」
「えっと、ああありました。その日は班長が巡回に出ていて、私が留守番でした」
「ええ、電話ですね、アーケードの先で喧嘩だって通報があって」
「はい。すぐ近くだったので、私が出かけました」
「はい。その間、無人でした」
「いえ、数人のヤンキーが自動販売機の前でたむろしていただけでした」
「通行人か近所の人が通報したのだと思います。よくあるのです」
「はい。すべて記録されています」
「それ以外、特に何もありませんね」
「監視カメラですか?」
「はい、そこについています」
「見れますよ。ちょっとお待ちください」
「あ、はい」
「自分、巡回の時間なんで班長に代わります」
「はい。班長の島田です」
「千葉からですか? ご苦労様です」
「はいどうぞ」
「はい、勿論大丈夫です」
「でも少しお時間かかりますが、よろしいでしょうか?」
「わかりました。明日お待ちしています」
「え? 天気ですか?」
「二十八日?」
「はい。あの日は朝七時くらいまでは晴れていましたが、その後から大雪になりました」
「はい。そこの交差点で雪によるスリップ事故がありましたので覚えています」
「事故は……午前八時五分ですね。軽自動車と普通車」
「はい、早朝は道路に雪はありませんでした」
明日の午前中、再度この交番に寄って監視カメラの映像を確認する約束をした。
権堂から、ホテル柊に向かう途中、海渡は考えた。今のところ春菜の話に矛盾点は無い。たしかに彼女の言う通り、自分が同じ状況だったら……カード類が入っていなければ、ここで財布は諦めるだろう。
通常、財布を拾った場合、悪い奴、もしくは罪悪感の薄い人はそのまま着服するだろう。しかし日本人の場合、わざわざ時間を使ってまで交番に届ける者が多い。だが、カードも何も入っていない現金だけの財布。それもブランド物ではなく、使い古した安物の財布……更にはここの地域性……権堂――この辺りは長野でも決して治安が良い。という場所ではない。交番に届けられる可能性はぐっと低くなる。
ホテル柊へは、特に迷うことなく到着できたが、路面は凍り、雪も降ってきたので、一時間近くかかってしまった。海渡はスノーブーツで来なかった事を後悔した。距離にすると二キロくらいなので、スノーブーツだったら三十分程度の距離だろう。
ホテル柊は、コンクリート三階建ての建物であったが、外壁塗装は剥げ、崩れ落ちている箇所もある。柊という電光の看板が出ていなかったら、ただの廃ビルにしか見えない。
時刻は二十時二十分、春菜がここに来たのは二十時前だろう。
ロビーは狭く薄暗い。受付のカウンターは黒い暖簾で覆われていてホテルフロントと客はお互い、首から下しか見えない作りになっている。昔のアダルトショップやラブホテルはこういう作りだったと聞いた事があるし、映画で見たこともあるが、実際に見るのは初めてだった。
【フロント】と手書きで書かれたプレートの横に呼び鈴があったので海渡はそれを鳴らした。
「はいはい。今行きます」
「はい、お待たせしました」
「一人?」
「休憩? 泊り?」
「やってますよ。初めて?」
「休憩二時間まで二千二百円。前払いね」
「泊り?」
「泊りなら一人三千八百円。二人なら六千二百円。現金のみね」
「え? 何?」
「警察?」
「いや、別に」
「あ、はい。わかりました」
「いえ、大丈夫っす。中へどうぞ」
「ほんとに刑事さん? あんたが?」
「いやいやいや、冗談でしょ」
「いや、見えないって」
「え? ほんとに?」
「マジか……」
「刑事さんて、みんなスーツかと」
「いえ、すみません」
「でも、先日も刑事さんが来ましたよ。おっさんだったけど」
「はい。若い女が泊りに来なかったかって聞かれました」
「そうそう、その子。かわいいっすね。同じ写真見せられました」
「この作りですからね。見てませんよ」
「あ、いえ、客も来ないし全然大丈夫っす」
「誰も来ないって日はありませんが、満室になることもないですね」
「オーナーの趣味でやってるようなもんなんで」
「あ、はい。受付けね。こっちから客の顔は見えないし、向こうからもこっちは見えません」
「なんでかって? ここは大昔のラブホなんすよ。昔はみんな、こんなだったみたいっすね。多少改装はしてますが、なんせ築五十年なんで」
「あ、はい。安いんで、今でもラブホ代わりに使う客はいますが、たいていはヘルスっすね」
「女の子が客連れてきたり、ここで待ち合わせしたり」
「一応、そこにも書いてるけど、休憩は二名までの料金で、泊りは一名の料金」
「いえ、休憩やってるけどラブホじゃないんで、ゴム置いてたりはしてません」
「はい、終電逃したリーマンが泊ることもあります」
「この裏の道上って行けば、城山公園抜けて善光寺に出れるんです」
「はい、なので善光寺のリピーターもたまに泊りにきますね」
「そこに善光寺関係のパンフとか置いとくとけっこう持っていきますし、お勧めの店とか尋ねられることもあります」
「たまにですけどね」
「だから、その暖簾取っ払おうって言った事もあるんですが、昭和のエロい雰囲気を残したいからあえて昔のままでってオーナーが」
「カードはやってません。現金のみです。オーナーが頭硬くて、てオーナーはおれの爺さんなんすけど」
「だから、その子が来てたとしても、顔あわせてないんでわかりません」
「でも、泊まりの女性がいました」
「はい。一人です。たぶんその子だと思います」
「女性が一人で泊まることって、基本無いんで、覚えてます」
「客同士が顔を合わせることもほとんどありません。そもそもそういう作りなんで」
「いや、ここは自営のヘルス嬢も来るんで、休憩なら単独の女性客もめずらしくはないですね」
「はい。ほとんどは休憩です」
「男が部屋取って、先に待ってるってパターンが多いですけど」
「泊まりの場合、朝は勝手にキー置いて出ていくシステムです」
「休憩は0時まで、0時超えたら泊まり料金になります」
「え? 泊ってく?」
「はい、ありがとうございます。三千八百円です」
「スノーブーツ売ってる店?」
「来た道戻って、信号左にいったら三百メートルくらいで靴の流通卸って店がありますよ」
「夜十時までだったかな」
「飯屋?」
「ラーメン好き?」
「それだったら靴屋の近くに、ラーメン屋が二軒と回転寿司があるんですが、金城っていうラーメン屋の豚みそラーメンがうまいっすよ」
ホテル柊は海渡が思っていたよりずっと、スレたホテルだった。でも、畳に敷かれた布団がなんだか嬉しかったし、寝るだけなら全く問題ない。昭和感あふれるノスタルジックな部屋はむしろ落ち着く、たまにはこういう部屋もいいものだ。
隣の部屋から聞こえてくる喘ぎ声さえなければ――。
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