3-2 雲母希星

 田之上春菜の旧姓は雲母希星きらきらら、長野県長野市出身。彼女が六歳の時、父親は失踪している。そして十一歳、五年生の時、母親が刺殺された。犯人は、当時母親がつきあっていた男で、事件当日、交通事故で死亡している。

 身寄りのなかった希星きららは長野市、川田の茶臼山児童園ちゃうすやまじどうえんで小学五年生から中学三年生までを過ごしている。

 希星は母親と当時半同棲していた男、加納彰人(住所不定無職三十三歳)に虐待されていた。母親も、加納も共に働く意思は無く、母親は生活保護を受けていた。保護費が支給された日は必ず、希星を置いて二人で飲みに出かけていた。二人は金使いが荒く、金がなくなると、二人そろって娘を虐待してさを晴らしていたようである。見かねた隣人が警察に通報し、何度か児相の世話にもなっていた。

 保護費が支給された三月五日、夕方から二人は飲みに出かけ、いつものように酔って帰ってきた。深夜二時頃である。希星は寝ていたが、大きな物音で目が覚めた。酒に酔った加納と母親が口論していた。希星がふすまをすこし開けて様子を窺っていると、加納が母親を包丁で刺し、出て行ったという。

 血を流して倒れている母親を目の当たりにした希星は、その場にしゃがみこんでいたらしい。

 通報者は隣家の男性、小栗正志、七十一歳で、うつらうつらしていた時、隣家から響く大きな喧嘩の音が気になった。最初はいつものことかと思ったが、彼女の家を覗くと、加納が玄関を出て走っていくところが見えた。彼は希星の母親の軽自動車に乗って、凄い勢いで走り去ったという。

 その後静かになったが、窓から様子をみると希星ちゃんの姿が見えた。時刻は午前二時二十分。様子がおかしいので、見に行くと、血を流して倒れている母親の横で、希星ちゃんが座っていた。

 加納彰人の乗る軽自動車は、その日の朝四時頃、雪道でスリップして電柱に激突していた。運転していた加納はほぼ即死だった。原因は酒酔い運転でのスピードの出しすぎだった。

 入園にあたり、当時、彼女の診察をした医師の話では、希星の身体は全身痣だらけで首には大きな火傷の痕があったという。

 彼女が小学五年生から中学三年生までを過ごした茶臼山児童園は四年前に閉園されていた。

園長は、二年前に胃がんで亡くなっていたが、当時の小学校の担任に話を聞くことができた。希星は母親の死亡後、それまで抑圧されていた才能を一気に花開かせたようで、スポーツも勉強も、その成長、進化には目をみはるものがあったという。

 唯一の園の関係者、当時、茶臼山児童園で経理や食事、雑用までをこなしていた、高峰美知恵さんという女性を訪ねたが、彼女は若年性アルツハイマーに犯されていて、話はきけなかった。だが、美知恵さんの世話をしていた綾乃あやのという彼女の娘さんから話を聞くことができた。

 綾乃さんは小学三年生の頃から母親に連れられて、よく園に行っていたという。歳も近かったことから、彼女は仁菜になのことをよく覚えていた。

 田之上春菜たのがみはるな鳥海仁菜とりうみになは同じ園の出身者だった。

希星きららより三つ下の岡田仁菜おかだになは、小学四年の冬、茶臼山児童園に入園してきた。仁菜は同じ境遇である希星をお姉ちゃんと慕い、希星も実の妹のようにかわいがっていたという。

 岡田仁菜はのちに、長野県諏訪すわ市の鳥海とりうみ家に引き取られていった。それ以降彼女との親交は少しづつ途絶え、現在、連絡は取られていない。

 以下は希星の中学時代の担任、川村浩の談である。

 希星は中学時代、抜群の頭脳と身体能力を有していたが、問題も多く、警察の厄介になることもあったという。川村は、茶臼山児童園の園長と共に希星の将来を心配し、いろいろと手を企てていたようである。

 春菜は十一歳から十五歳まで児童園で暮らした。その年齢は、もっと幼い子に比べ里親の希望者は少ない。年齢だけでなく、口数が少なく、大人びていた春菜は敬遠された。それでも全く縁がなかったわけでは無いが、希星は積極的ではなかった。そして年を追うごとに、その条件は厳しくなっていった。

 だが、文武両道だった希星は中学三年の夏、養女を希望していた千葉の田之上夫妻の目に留まり、引き取られることになった。

 通常、すでに子供のいる夫婦が里親になることは無いが、田之上和彦が県議であったことや、児童福祉センター所長の推薦状もあったことから、例外的に認められたようである。

 雲母希星きらきららは、田之上希星たのがみきららとなったが、千葉の中学に転校の際、名前の変更届を申請している。キラキララというキラキラネームで小学校時代から虐めの対象になってきたし、あの親がつけた名前というだけで、一刻も早く捨てたかったのだという。改名は簡単に認められ、田之上春菜となった。高校は地元の千葉中央高校に進学、現役で都内にある東京国立医科大学に合格し、現在四年生。春菜は一年生の時に留年しているが、大学に確認をとったところ、後期試験と再試験の期間中、運悪く流行り病に罹患りかんし、一ヶ月近く入院していたからだという。


「蘇我署の連中もやればできるもんだな」

 北守が報告者を指で弾いた。

「…………」

「で、どうした? 海渡、なにかおかしいか?」

「いえ、春菜さんは少なくとも田之上夫婦に引き取られて感謝していました。殺すなんてありえなくないですか?」

「俺だってあの子が殺しなんて考えたくないさ、でもそれはあくまで感情論だ、親子関係のほんとのとこは他人にゃわからん。春菜の潔白を証明したいなら、彼女のアリバイの証明だ」

「わかってますよ。でも、国立の医学部ですよ。強い志があると思います。どんな理由があるにしろ、殺人なんてリスクを犯すとはとても……」

「お前の真似をすると、俺にも一つ小さな疑問がある」北守が言った。

「なんですか疑問て」

「この報告だと、春菜と鳥海仁菜の間には、そうとうな絆があると思わんか?」

「はい、思います」

「でも、あの日、春菜のマンションでは、そんな感じではなかった。そもそも同じ園にいたって事も隠していた」

北守が、新調したと思われる茶フレームの眼鏡を押し上げる。

「北さん」

「なんだ?」

「その眼鏡、似合ってませんよ」

「おまえ……」

「冗談です。たしかにあの日の二人、今思えば、そうですね。でも園の事は隠していたのではなく、あえて言わなかっただけだと思います。それに鳥海さんは政男のアリバイを証明しています、春菜さんの単独犯だと考えると……やっぱ鳥海さんについてはわからないか……」

「春菜が計画し、実行。兄が疑われないように鳥海仁菜には犯行時刻、兄の身柄を確保させてアリバイを強固なものにした。てのはどうだ?」

 北守が海渡を指さす。

「そもそも、そんな大切な友人に、そんな事はさせないと思います」

「だからそれを証明できるか? できないだろ? だったら春菜のアリバイを証明しろ」

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